追記1/2 寒空に駆ける恋心
リリリン、と、昨今では珍しい黒電話が鳴り響いた。
“み穂”の女主人、早苗は「はいはい」と気軽な調子でカウンターの内側に入り、受話器をとる。
「あら、瀬尾さん。……え? まぁ。そうなの? 大変じゃない? 何か…………うん。うんうん」
「……」
やや離れたテーブル席で静かに読書中だった律は、早苗の口からこぼれ出た名字に著しく反応した。
めくったばかりの頁から顔を上げ、黒曜石めいた瞳を物問いたげに細める。無意識で耳を澄ませる。
いくらか交わされる会話。察せられる断片的な情報。
やがて早苗は「えぇ、こっちは大丈夫。お大事にね」と告げて、カチャン、と受話器を置いた。
冬休みなこともあり、律はなんとなく和雑貨カフェ“み穂”に入り浸っている。祖母の喜恵のお供をしたのは初回の一度きりだけだった。
以前ならば、坂の上の一軒家に転がり込んでいただろう時間をそのまま充てている。店の一番奥の窓際テーブル席は、この秋以降に関して言えば、ほぼ律の定位置になりつつあった。
外はしんしんと雪が積もり、コポポポ……と微かなサイフォンの音が、ことさら温かく店内を彩っている。
今日は、実苑は娘の六ヶ月検診のため店にいない。
午後からは市の健康センターへと出掛けているらしく、その後も予定があるとのこと。湊は夕方~夜の出勤と聞いていた。(※早苗から)
――一応、断じてストーカーではない。
嫌がられることは絶対にしないし(※多分)、強引に距離を詰めたりもしない(※即、倍の距離を空けられるので)。
胸中で厳重に自分の『安全確認』をしたあと、律はそっと早苗を呼んだ。
「あの。今の、瀬尾さんですよね? どうかしたんですか」
「うーん……きのうから、39度も熱が出ちゃったって。今日は欠勤ね。インフルエンザじゃなかったみたいだけど」
「!」
疲れが出ちゃったのかしらね。こっちに来て、慣れるまでは色々大変だったでしょうし――と、思案げに呟く女主人への相槌もそこそこに、律は潔く本を閉じた。伝票をとり、すっくと立ち上がる。
「あら。もうお帰り?」
「はい。ご馳走さまでした」
非の打ち所のない笑顔でにっこりと会計終了。
が、あからさまに急く気配が全身から滲んでいる。駆け出さんばかりに。
早苗はレジを閉めつつ、にまにまとその背を見送った。
(こういうときは下手に『お見舞いよろしく』なんて、言わないほうがいいのよねぇ)
チリリン……、と内側のドアベルが鳴り、すぐに外側の扉もひらく。
真冬の凍える空気が、わずかながら店に流れた。
――――――
あの、万事控えめで我慢づよそうな湊が欠勤。しかも高熱。
律は居ても立ってもいられなかった。
(やばい。俺のせいだ。昨日さんざん連れ回したから。雪、ひどかったのに……)
良かれと思って誘った。
おそらく楽しんでもらえたが、体を壊しては元も子もない。後悔先に立たず。
降り積もった新雪をショートブーツで踏み分け、ちょうど目の高さまでしなだれていた、刺さりそうな松の枝をひょい、と持ち上げる。綿雪がぽたりと落ちた。
湊の家の前は国道なので、除雪車は通っている。したがって、自転車で行けないことはないが融雪装置で道路脇は水浸し。雪の固まりだらけで、正直きつい。
「バスか……。薬は、医者で診てもらったならあるとして。冷えピタとかポカリとか要るかな? あと、寝てたら起こしたくないから――」
ダウンジャケットのポケットに右手を入れると、チャリ、とつめたく平たい金属の手触りがした。指で触っていると直に温もりが移る。いつもいつも、返しそびれたモノをずっと抱えて、はや九ヶ月。
不本意ながら、究極・最終奥義を発動せざるを得ない。湊は忘れているようだが。
(合鍵。結局他人に持たせたまんまなんだから、無防備にもほどがあるっていうか。信頼が逆に痛いっていうか……)
悩ましい。
およそ五十分後、律はさらなる悩ましさに遭遇することになる。