後
電車を乗り換え、やや大きめの駅からシルバーに青のラインが入った快速電車で揺られること五十分あまり。二人は、ようやく目的地の県境に辿り着いた。
峠が近いので辺鄙な場所かと思いきや、意外にもひらけている。主要な金融機関や居酒屋、オフィス、カラオケの大手チェーン名が書かれた看板を連ねるビルなどが建ち並び、湊たちが暮らす地元よりはよほど賑わっているように見えた。
暗い色調のコートを手堅く着込み、雪が降っても傘を差すひとが見あたらないあたり、ある意味雪国らしい。
風は強い。
まだ午前中だが、天候のせいか午後三時すぎほどを思わせる薄明。
吹きつける寒風も鋭く、湊は、くしゅん! と嚔をしてしまう。
「わ。大丈夫? 湊さん。これ使って」
バス停で時刻表を見ていた律は、自分の紺色のマフラーを取り外しながら慌てて後ろを振り向いた。きっちり羽毛が詰まっている、ブランドっぽい黒のフードつきダウンジャケットはたしかに、マフラーを外しても充分温かそうだが。
若干、都会向けのデザイン。すっきりとしたアイボリーのウールコートに身を包んだ湊は、差し出されたマフラーをやんわりと押し返しつつ言い募った。
「だめだよ律君、風邪引いちゃうでしょ。受験生なのに」
「いーーや、引かないからこれ巻いて。それに、俺は受験生じゃないです」
「え?」
意表を突かれすぎて、湊は抵抗を止めてしまった。その隙にぐるぐると大判マフラーを巻きつけられてしまう。
両肩の前に垂れた端を握りながら、ちょっと怒った顔の律は、まるで口づけるような角度で湊の顔を窺った。
「あの」
「俺。附属の大学に部活動推薦が決まってるんです。実技と面接は済んでるし、あとは来年、小論文書きに行くだけ」
「えっ、えぇぇ!? そんな。私、てっきり」
――今明かされる衝撃の新事実。
律は高三なのだから、当然センター試験を受けるものだとばかり思っていた。
湊は固まり、全力で眉尻を下げる。情けなさとは別で、マフラーの温もりは正直ありがたかった。すん、と鼻をすする。
「……てっきり、律君の合格祈願なんだと思ってた」
「そんな」
「……」
「…………、ふっ」
(わっ?!!)
額が触れるのでは、と危ぶむほどの至近距離を掠め、ふいに律が顔を伏せて吹き出した。そのまま、クククク……、と笑われてしまう。
湊は律の後頭部を見下ろし、じとり、と睨みつけた。
「律君」
「いやごめん。ホントにすみません……。そういや言ってなかったよね。俺は、あなたの試験が年明けだって聞いたから」
「――あ。庭掃除、手伝ってくれた日……? ひょっとして、あれから調べてくれたの? 神社のこととか」
きょとん、と訊き返す湊に、姿勢を直した律は、ばつが悪そうに小首を傾げた。
「まぁ、そう。ごめんね。験担ぎくらいしか思いつかなくて」
また殊勝に謝る律に、何か言わないと――と、息を吸うと、ちょうどロータリーを回ってバスが到着した。
プシュー……とドアがひらき、前方からは降りる人びと。後方のドアに乗り込む人が、ちらほらと横を通り過ぎる。
その人波に従ってバスに乗った瞬間。
湊は目の前のダウンジャケットの裾を掴んだ。
「んん?」
くんっ、と後ろに引かれた律は、ぱち、と瞬き、やや下にある湊の顔を眺め見た。
シュゥー……と、彼女のすぐ後ろでドアが閉まる。車内放送に紛れつつ、湊は明後日の方角を見ながら、明らかに律への言葉を呟いた。
「謝らなくて……いいです。ありがとう」
「!!」
寒さのせいだったのか。それとも――?
マフラーで埋もれているので口許は見えない。けれど、頬の辺りは上気しているように見えて。
律は無条件に笑みほころんだ。
「どういたしまして」
* *
古杜、と呼ばれるに相応しい佇まい。バスを降りてすぐ、立派な大鳥居が見えた。朱塗りではなく表面を滑らかに磨かれた石材で、うっすらと白い斑模様の灰色。まわりの木々も黒々としており、神社特有のしずけさが漂う。
年始ではないからだろう。わずかな参拝客や観光客、あるいは御払いのために訪れた人びとが、細かな玉砂利を鳴らして参道を歩いている。
社務所前の案内板を見ると、学問の神様の社は主殿よりも奥まった位置にあり、なんとなく二人は両方をお参りすることにした。
手水を終え、石段を昇ると聳える立派な大社殿。どちらからともなくお賽銭を投げ入れて二礼二拍手一礼。目を閉じて拝む。
それなりに敬虔な面持ちではあったが、ふと湊は気づいてしまった。
(あれ? 大国主命って……。たしか縁結びの神様……?)
ちら、と横目に窺うと、自然と目が合う。
にこり、と微笑まれて途端に(どっち??!)と狼狽えた。――もちろん、知っていたのか。知らなかったのか。
「じゃ、次は道真公のところに行こうか湊さん。絵馬書こう、せっかくだから」
「う、うん」
邪気のない笑顔に押されるように、おみくじやお守り売り場を通り抜け、せせらぎが流れる苔むした脇の道を奥へと進む。ぬかるみで足が滑らないよう、ところどころ板が渡してあった。
目指す社殿はちいさな橋を渡った先にあった。既にたくさんの絵馬が吊り下げられ、参道の両側を賑々しく飾っている。
そこでも同様に参拝を終えて、湊は絵馬に、無難に『合格祈願 瀬尾湊』とのみ記した。所定の場所に掛け終えて振り向くと、なぜか律も絵馬を持っている。
いつの間に。
「律君も?」
「うん。俺からもお願いしようかなって」
「わー……、プレッシャーだ。受からないと」
「そうそう。頑張ってくださいねー」
などなど。
ほっこりと笑み交わし、うっかり手を繋ぎそうになって慌てて引っ込めるなど、湊としては少しばかり調子の狂う遠出だった。
* *
――が。
そのときは、思いもよらなかった。まさか翌日から熱が出てふらふらになり、あろうことか大事な職業訓練最後の日を欠席する羽目になろうとは。
(バチ、当たっちゃったのかな……よこしまな気持ち、あったから)
朦朧としつつ、とにかく備えてあった薬を飲んで横になる。病欠の旨を訓練校に連絡し、篁には後日講義の内容を教えてほしいとメールで伝えると、もう限界。
湊は、するりと意識を手放した。