後
「そういうことがね、続いてまして」
「……うん?」
淡いベージュのベストに白のロングシャツ。すらりと伸びた背筋にきちんと揃えられた足元。湊は物腰は柔らかだが、話すと凛とした印象を受ける。
きっと、面識のない状態で、別のどこかで出会ったとしても目が勝手に追っただろう。百合の花のような佇まいに、ゆるやかな甘さと慕わしさが漂う。
そんな彼女が、おもむろに口をひらいた。
「ですから。覚えていらっしゃいませんか? 学祭の日、弟さんのクラスで執事服を着た子がいたでしょう。その子に、アルバイト先に通われてる……気がします。気のせいでなければ」
視線を落とし、下唇のあたりにシャーペンを持った右手の指を当てている。
まなざしは遠く、手元の分厚いテキストやノートを貫き、床下まで透かすようだ。一体、どこまで見えているのか。
――実際は、心ここにあらず。
何かを見ているという顔ではない。
さらり、と首を傾げた拍子にダークブラウンの髪が頬にかかり、彼女の肌の白さをより一層際立たせた。
篁はそれを、まじまじと見つめる。
(瀬尾さんって……訊いたことないけど、年、いくつだっけ)
うっかり訊いても良さそうな雰囲気があるのが一段と罠っぽい。
見た目や動作の一つ一つに清らかな色香が漂うのに、話し方がこざっぱりしている。やたらと落ち着いた分別を見せるかと思いきや、時々『少女か』と突っ込みたくなるほど初々しかった。
通路側の椅子の背にもたれ、組んだ脚の上で広げた文庫本から視線を外す。じっと彼女に流し目をくれる。
「……えっと。何それ、ストーカー?」
呟いて、訝しげに瞬いた瞬間。
読み書きや運転のときだけ掛けているチタンフレームの眼鏡が、若干ずれた。
* *
初夏から始まった職業訓練も、残すところあと二週間となった。その後は資格試験が控えている。
あれから、受講者は一名も減ることなく、皆、黙々と知識と技能の修得に努めている。
何だかんだ言って普通の学生ではない。来月の試験では、その合否如何で再就職の方向性も難易度も変わってしまう。
大抵の場合、雇用保険は受講期間の終了とともに打ち切りとなる。手に職を付けて次なる職へ。それぞれの生活がかかっているのだ。
――よって、湊はCP言語にやたらと詳しい篁に苦手分野を教わっていた。
とはいえ他の面々の手前、専門学校の教室やカフェでの一対一は躊躇われた。
ゆえに。
現在、専門学校のある国道沿いに建つ小さなモスバーガー店舗に、二人は連れだって入っている。訓練が終わる午後二時過ぎから夕刻までは客もまばらで居つきやすく、小腹も満たせた。
窓際の席で受験生よろしく勉学に打ち込む成人の男女一対は、傍目にどう映るのか……? 気にならなくはなかったが、背に腹は変えられない。当面の居心地の良さを重視した。
『今日どうする?』
『やります』
と。
軽いノリで催される勉強会は、断じてデートではない。(一度目撃された他の男性受講者からは、激しく勘違いされた)
一応、恋人の替え玉を演じる代価として受け取った正当な報酬なので、後ろ暗いところはどこにもない。
話題はそのさ中、つるっと水を向けられた雑談から派生した。――いわゆる『休みの日、何してる?』という。
つい、一連の説明を終えてしまった湊はハッとした。
(! いけない。相談じみてたかな)
慌てて誤魔化そうとしたが、時すでに遅し。潔く本を閉じた篁がテーブルに片肘をつき、身を乗り出して湊との距離を縮めている。
「悪いお姉さんだね。ひょっとして、たぶらかした?」
「たぶらかし……てはいません。……はず、です」
「ふうん? どうかなぁ」
ムッとした。
が、訂正しようにもどんどん言葉尻が小さくなる。否定できるだけの自信は無かった。
篁は、余裕の微笑みを浮かべている。興味津々、と表情に書いてある。
(やばい、ロックオンされた。言わなきゃよかった……)
情けない後悔が渦巻くが、誰かに聞いてほしかったのは否めない。
吐息し、湊は心の防御壁をほんの少しだけ解いた。
――――“誘惑に負けた”。
或いは、“一人で抱えきれなくなった”ともいう。
「実は」
※五分後。
「へぇ~~~」
「……その、私は男性とお付き合いしたことが前夫以外になくて。それすら、ほぼ交際期間なんてありませんでしたし。り……、左門君が、どうしてそうなったかわからないんです」
「左門っていうんだね。普段は名前呼び? 『り』?」
「……律、です。律君ですね、はい。ごめんなさい名前で呼んでます……」
肩を落とし、大人としての良識に欠けていたと悄気る湊に、篁は相好を崩した。
「いいんじゃない? 年の差婚」
「年っ…………?!! って、そんな。篁さん!」
いくらなんでも、と、ぎょっとした湊に一転、篁は剣呑に瞳を細め、少しだけ声を低めた。
「驚くことじゃないでしょ。この間見た感じと、今聞いた感じ。その子、真剣だよ。可哀想に。応えてやればいいのに」
「本気ですか……? 九とか、十も違うんですよ? ましてや、私は離婚経験者です。かれは、まだ」
ぼそぼそと、内容が内容なので湊も顔を寄せて小声となる。「瀬尾さん、迂闊すぎ」と篁が苦笑し、次いで甘く微笑んだ。
「オレは、告られたら必ずノータイムで返事する。お互い時間の無駄だからね。先月の子はイレギュラー。あの子は、ずっと弟経由の間接攻撃だったから、対応が遅れたんだ」
「攻撃」
ぽかん、と口を開ける湊に、もっともそうに篁が頷く。
「押し並べて、片想いこじらせて突撃する女の子は、そういうもんだよ。可愛いけど全員と懇ろになっちゃ、流石に問題だし」
「当たり前です」
すかさずの合いの手。
楽しそうな篁は、じっと湊の瞳を見つめたあと椅子の背に上体を戻した。
距離がひらく。声音も戻る。
――ただし、視線は正面の女性に固定したまま。
「二人では会わない? 怖いの?」
「怖くは……」
言いかけて口をつぐむ。はた、と思考が止まった。
確かに怖くはなかった。でも、それはもう過去のことだ。
(わたし)
――ちゃんと返事をしていない。向かい合ってない。
かれが優しいのを良いことに、都合よくうやむやにしようとしている。
気づき、愕然とした。
* *
湊が眉を寄せ、軽く唇を噛む仕草に思うところがあったのか、篁はゆったりと息をこぼして自分の荷物を片付け始めた。
壁時計の針は午後四時半を指している。外は薄暗い。
「……! すみません、ご用事でしたか」
「いいや、何となく。今日は復習って感じじゃなさそうだし、瀬尾さんもぼちぼち帰りなよ。
あ、それともうち来る? 気ままな男の独り暮らしだし、夕食ごちそうしよっか。話の続きもやぶさかじゃないよ?」
「ご冗談。遠慮しますよ、怖いなぁ」
「そう。それ」
「?」
黒いキャンパス地の鞄を肩に掛け、立ち上がった篁が茶目っ気たっぷりに言い放った。
「『怖い』ってのはさ、瀬尾さんの場合、相手を男扱いしてんだと思う。オレなんかは光栄だなって思うけど。――……じゃね。気が変わったらいつでも連絡して」
後ろ手を振りつつ、自分のトレーを片付けて余裕の足どり。そう、三つか四つほどしか違わないはずの男性は悠々と『大人』の貫禄で去っていった。