中
「さっきのかた、店員さん?」
二人、連れだって階段を昇る。
喜恵は声を低めることなく、さらりと尋ねた。
前をゆく早苗もごく普通に受け止める。
「瀬尾さんですか? えぇ。六月の終わりだったかしら。友人の伝でお会いしたら、とっても良いかたで。お願いして、今は週末だけ来てもらってるんです。着物や小物についても、教えることがないほど詳しくて……。さっきもお品を選んで、しゃんしゃんと並べてくれてましたし。赤ん坊の世話で店を外しがちな実苑もよく助けてくれます。いいお嬢さんですよ」
「ふぅん……」
「? 何か?」
「あ、いえ。綺麗なひとだなぁ、て。この辺じゃあんまり見ない感じね。京都とか……そういう雰囲気? しっくりきそう」
「ふふっ。じゃあ、奥様は銀座あたりかしら」
「やだわ。混ぜっ返さないで」
表情豊かに応酬しあう妙齢のご婦人たちは、くすくすと笑み交わした。
雑談もそこそこに二階へ上がると、すぐに障子戸を開け放した十畳間がある。ここが“み穗”の呉服屋店舗だった。
左手は廊下一本を挟んで窓。奥の壁一面は大小の和箪笥で埋められており、手前は姿見に文机、藍染めの座布団。端々に積まれた箱の圧迫感のせいで手狭な感は否めない。
が、小綺麗に掃除は行き届いている。物は多いのに落ち着いているという不思議な空間。
反物は、隣の部屋に納められているという。ここは出来合いの商品を見繕うための部屋だ。
二人は年季の入った枯れ色のい草をしゅっと鳴らし、部屋の中央に座した。
一畳分ほど赤い布が敷かれ、平たい木箱が二段に分けて積まれている。三箱は開けられ、真ん中で新品の帯を乗せていた。
たらり、とあえて端を垂らした様子が、それこそ京舞妓の可憐な背中のよう。華やいでいる。
「あら」
喜恵が囁いた。
ぱっ、と吸い寄せられるように一本の帯に目を向ける。
「これ、素敵だわ。作家さんの?」
「えぇ。主人が例のごとく惚れ込んじゃって……。奈良の若い職人さんだそうです。先週入ったばっかりですよ。広げましょうか?」
「お願い」
しゅるり、と、つめたく楚々とした絹が擦れる音。
赤い敷き布の上から畳まで一直線にはみ出した滑らかな光沢。川のような帯を、喜恵はうっとりと眺めた。
金を帯びる平織りのクリーム色の地に、ところどころ洋風の植物的な装飾が施されている。赤紫の実と蔦の刺繍も。
太鼓結びにすれば背に来るだろう位置の図柄は、何かの楽譜だった。
――意匠は変わっている。
が、全体の印象は上品で大人しい。
ある意味、よほど主張の激しい和柄でもなければどんな着物にでも合いそうだった。
そうっと表面を撫でる。指を戻し、悪くないわ、と呟いた。
――……それは帯? それとも、これを選んだ瀬尾さんのことかしら、と。
早苗は小首を傾げつつ、営業を続行した。
「いいでしょう? “アベ・マリア”ですって。ちょっと聖書っぽい感じ。お能や神社仏閣にはそぐわないでしょうけど。ちょっとしたお出掛けやご親族の結婚式……チャペルですか。洋風の席なら殊のほか映えますよ。お勧めです」
* *
『ほら、前に一緒に来てくれたでしょう? 呼ばなきゃと思って』
そう、にこにこと実苑が語ったところで奥座敷から元気な泣き声が轟き、あらあらと彼女は行ってしまった。育児中でも和装を貫く実苑は、あらゆる物事に動じずマイペースなところがある。
流れで店を任された湊は、「ええと」と所在なさげに背後を振り仰いだ。
「……一人だし、カウンターにする? 勉強道具は持ってきたのかな。広いし明るいから、お好きなテーブル席でもどうぞ?」
気まずい。ずっと見られていたのだろう。ごく普通に視線が合うので、まごまごと湊は申し出た。対する律は嬉しそうに、にこりと笑う。
「湊さんは?」
「ううん……カウンターの内側かな」
「じゃ、そっちで」
返事を待たずにすたすたと行ってしまう。しょうがないなぁ、と湊も後に続いた。
カウンター席は備え付けの椅子が五脚ある。律は右から二番目を選んで掛けた。
本日も和装のため、水仕事のときは袂をたすきで纏める。前掛けも身に付けて店番モードに切り替えた湊は、改めて尋ねた。
「おばあ様、すごく綺麗なかたね……。オーナーとも仲良さそうだし、ゆっくりしていかれそう。ご注文は? 軽食も出来ますよ?」
「珈琲でいいですよー。俺も、ゆっくりしてます」
「?」
…………何がどうしてそんなに喜ばしいのか。ひどく機嫌の良さそうな律は頬杖をつき、まじまじとひとを眺めている。
(まぁいいか)
たじろぎつつ、気を取り直してシンプルな白のカップを温め始める。
BGMのない店内は静かで心地よく、挽きたての豆と茶香の匂いが混ざっている。しばらくは湊が珈琲を用意する幽かな音のみが辺りに響いた。
――律と会うのは、学園祭以来だった。
意外にも、会えば空気はおだやかで、妙に距離を詰められることもない。
無意識に警戒心をMAXに引き上げていたらしい自意識にちょっと苦笑する。
サービスでホットサンドを用意しつつ、湊もほんのりと胸がぽかぽかとするのを感じた。
(湊さん、サービスが気前よすぎます……!)