中
(どうしよう。いま、両手に荷物抱えてんだけどな)
帰宅後、ガレージから家への桜並木を歩いた湊は、反射でそう考えた。
* *
ひとが寝ている。
いや、寝ているように見える。少年……というには育ちすぎな気もした。手足がすらりと長い。
背と後頭部をあたたかな大地の色の桜の幹に預け、片膝を立ててもう一方の脚は伸ばしたまま。両手はだらり。実に気持ち良さそうに寝息をたてている。
起こすのが忍びなく、湊はそうっと近寄った。
桜を透した木漏れ日が、頭上高くぽかぽかと降り注ぐ。
中途半端に伸びた艶のある黒髪。なめらかな頬。ところどころに和らいだ光が遊び、風がそよぐたび、ちかちかと揺れた。かれ自身は微動だにしない。
――何となく。
『不審者』という呼び方はそぐわないと思った。やたらと綺麗な、品のある顔だちをしている。
涼しげな鼻梁に形のよい薄い唇。閉じた瞼の睫毛がうっすらと影を落としている。対照的にきりっとした意志のつよそうな眉。それらが絶妙なあどけなさをベースに溶け合い、『綺麗な子』という所感を抱かせた。
しかも。
「なんで、着物なの……」
(見えちゃいそうで困っちゃうんですけど)
さんざん、距離にして二メートルの近さから少年の不思議さとうつくしさを堪能しておきながら、湊は呟いた。
更に一メートルまで距離を詰め、しゃがみ込む。
はだけてしまいそうな藍染めの裾が非常に気になる。せめて直してあげたい。見て見ぬふりなどできそうになかった。
すると。
「……着物、きらいなの?」
「!!! うそっ、起きてたの??」
ぴくり、と直線的な眉がひそみ、透明感のある声が耳朶を打った。
湊のすっとんきょうな声に、少年はへの字口となる。
「いま、起きました」
ぼうっ……と、ひらいた瞳には黒曜石みたいな深みがあり、白目の部分が澄んでいる。
まなざしがどこか遠い。
外見年齢のわりに、達観を匂わせる子だった。
「それは……ええと、謝るべきなのかな。ここ、公園じゃなくて庭なんだけど」
不法侵入はきみのほうですよ? と暗に含めると、思いきり怪訝な顔をされた。
「知ってる。だってここ、俺ん家だもん」
「え」
ざぁぁああ……
瞬間、疾風が渡った。満開の桜から、豪快なほどの花びらが降りしきる。
湊は肩よりも長いダークブラウンの髪を四方からなぶられ、思わず目を閉じた。
やがて、花嵐はぴたりと止む。
(……んん? あれ?)
おそるおそる目を開けると、乱れた髪の隙間から藍色の布地が見えた。かすかに白檀めいた香りがする。「あーぁあ」と、落胆とは少し違う、笑みを含む声が頭上からこぼれ落ちた。
びっくりするほど紳士的な手が湊の乱れた髪を直している。それはそれは丁寧なしぐさで。丹念にやさしく。
「すっごい花びら。お姉さん桜の精みたいだから似合うけど。取ったげる。じっとして」
「!!!」
はからずも、言われた通りにじっとする羽目になった。受け流せる許容範囲を軽く超えている。
いろいろと怪しすぎるのに身動きできない。存在そのもの、この子おかしい。
ひら、と最後の一枚を取り除いた指がひらかれ、踞る湊の眼前に差し出された。
見目うるわしい少年が、にっこりと笑う。
「立てる? 荷物持つよ。あそこの鍵なら俺も持ってる。開けたげる」
「へ……??」
口をあんぐりと開けた妙齢の女性が可笑しかったのか。
かれは、くすくすと笑みほころんだ。
* *
「俺は律。着物はべつに、習い事とかじゃない。普通に私服だよ。――いや、俺だって洋服のほうが便利だなってときは多いんだけど」
立ち話もなんだし、と逆に家に入ろうかと誘われた。
おかしい。昨夜は確かにここで寝たはずなのに、と、自宅感が薄れつつあることに盛んに首をひねる。
宣言通り、重い買い物袋を片手で持ち、袂から鍵を取り出した少年に続いて玄関の戸口をくぐる。
入ったところで、カラカラ……と引き戸を閉められた。
「はい、どうぞ」
「どうも……?」
「これ、どこに置けばいい? 居間?」
「あ。いいえ、中身は食料品とか調味料だから」
「台所? わかった」
初対面にも拘わらずテンポの良いやり取り。本当に、この家に慣れ親しんでいるようだった。
湊の返事を待たず下駄を脱ぎ、足袋に包まれた足は迷うことなく廊下を移動する。
シャ、シャ、と規則正しい衣擦れの音が響いた。
――裾さばきがとても自然。着物がしっくりと馴染んでいる。着物と同素材の羽織をさらりと着こなす姿など、いっそ現実味がないほどだった。
習い事はしていないと言ったが、私服に着物がある時点で充分、日常で「和」と繋がる接点があるのだろう。
(肩幅……けっこうある。上背も伸びて姿勢がいい。綺麗だけどひょろっと感はないから古武術系かな。剣道、居合い……あと、弓道)
ヒールを脱いだ湊は若干背が低くなる。目の前をゆく背中が先ほどよりも「男のひと」っぽく見えて戸惑った。そもそも、この家の主は一体どちらなのか。
「面倒なことになっちゃったな……」
そう長くもない廊下の突き当たり。
入り口の左手、東の窓辺には流し台とガスコンロ。隅には胸の高さほどの黒い冷蔵庫があった。
律は、買い物袋をテーブルに置いて腕を組み、指を口許に添えて何かを考えている。
――目が合う。
入室した途端、ものすごく自然な所作で紙袋を取り上げられた。
「わ」
「重いでしょ。はい、ここでいい?」
「あ。はい」
二人掛けの四角いテーブルは荻谷商店の戦利品を置いただけでいっぱいだ。
視線をあげた律は、再び湊の顔を覗き込むように小首を傾げた。
「で? なんて呼べばいい? お姉さん」
さらり、と長めの前髪が揺れる。
その動きに無意識に気をとられる。
「……みなと。瀬尾湊。名字でも名前でも、どちらでもどうぞ。昨日越してきたの。
ここ、Iターン移住者用の物件だとばかり思ってたんだけど……違うの? 先週下見に来たときも昨夜も、ひとが住んでる気配なんて無かったわ」
湊の言葉に、みるみる律の顔が曇ってゆく。不機嫌というわけではない。いわゆる不慮の事態と思わしき顔色だった。
つまり、旗色のわるい気配がにじんでいる。
「うーん……。じつは、厳密には住んでるわけじゃない。俺にとっては憩いの離れで別宅なんだよ。
大人連中が勝手に業者を手配したのは知ってた。何度か来たけど、そのせいで入れなかったんだ。
改装が終わってからも役所の人間がちょいちょい来るようになったし……納得。とうとう市に譲ったんだな、あいつら」
――良かった。権利上は自分に分があるらしい。
湊は内心、胸を撫で下ろした。
が、同時にハッと目をみひらき、瞬く。
そのさまを、律は興味深げに見守った。
「律……君は、どうしてここの鍵を持ってるの?」
「あぁ、これ?」
目線の高さまで鍵をつまみ上げて見せる。
名前を呼ばれた瞬間、律は無邪気に微笑んだ。悪戯が成功したときの子どもの顔だ。
「湊さんが持ってるヤツが家にあったとき、こっそり合鍵を作っといたんだ。俺、ここ好きだから。でも」
コト、と卓上の空いたスペースにそれを置く。
「いろいろと問題だよね? 話聞く限り、ここはもう、あなたの家みたいだし。あげるよ。家族とか恋人に渡しなよ」
「家族……いないわ。置いてきたもの」
「? え、旦那も? 婚約者とか。……いやいや。こういう一軒家って普通、夫婦とか結婚するひとが買うもんじゃあ……ないの?」
純粋に訝しむ律に、うっ、と怯んでしまう。
予想以上にがっつり抉られた。
土足禁止区域に思いきり踏み込まれたような気がして、今度は湊が口の端を下げる。眉が情けない形になった。
何かを察した律が「……ごめ」と言いかけたが、湊はぴしゃりと遮った。
「謝らなくていいわ。置いてきたのは旦那なの。
――少し前に離婚したのよ、私。元々身寄りなんて無いし。ここはまだ買ってないわ。とりあえず仕事探さないとローン組めないから。賃貸なの」
「あー……そうなんだ」
「うん」
「…………」
「……………………」
微妙だ。
何とも言えない沈黙が広がった。
湊は控えめにため息をこぼし、買い物袋の中身を順に出してゆく。
冷やすべきものは、さっさと仕舞わないと。
半ば存在を無視された形となった律はめげることなく、存外に嬉しげに、きらりと目を輝かせた。
「じゃ。こういうのはどうかな、湊さん」