追記2/2 吹き荒れて、落つる兎
――――見つかった。
目が合った瞬間、はたりと語彙が死んだ。
会ってもおかしくはない。いやでも敷地は広いみたいだし、と。ずっと見ないように、見つけないようにしていた自分を激しく責める。
「ごっ、……ごめんなさい篁さん。理由はあとで。別行動お願いします」
「え?」
相席していた男性に一言断りを入れると、ガタン! と慌ただしく椅子を鳴らし、湊は席を立った。教室の出入り口まで数歩。目をみはるほどの軽やかさで去り、戸口に手をかけて振り返る。
「……あとで! 必ずご連絡します、すみません!」
脱兎のごとく駆け出した彼女の影は、瞬く間に消えた。篁は飲みかけの紅茶を受け皿に戻すタイミングを失い、返事に窮してしまう。
「待てって……、ちっ! 湊さん!!」
視界の隅で長身の男子生徒が動き、同じように廊下に飛び出した。
涼やかな容姿に似合わない、焦った声と俊敏さだった。
(『湊さん』?)
確かにそう呼んだ。盛大に舌打ちまでもらして。
燕尾服のスワローテールがひらり、と彼を追う。つい先ほど、カフェの責任者よろしくアリスを伴い戻った執事どのは、給仕係の女子に無理やり装着させられた兎のカチューシャもそのまま、大胆に走り出した。
――はて、どちらが脱兎?
「失礼」
おいおい。去り際まで紳士だな、と呆然と眺める。
ぶつかりそうになった新規客らしい少女は、出入り口で顔を赤らめていた。両手で口を押さえ、「え、うそ、格好いい……」と呟いている。
アリスはそれを聞き咎め、可愛らしい顔に不似合いなほど渋面を浮かべた。「あれはだめだよ。志織ちゃん」と嗜めている。――男の声で。
(……何て言うか……すごい場面にかち合った気がする。色々と)
日常が反転し、予測できないスピードで非日常が溢れだす。認識が追いつかない。
3-Bの標札はやはり、何度見ても“Cafe Alice”のゴシック文字。
『不思議の国』というワードが、この上なくしっくりとした。
* *
篁とお茶をしていた。
件の女の子は、ここでハートの女王をしているという。可愛らしく英国風に飾りつけられたカフェはほぼ満員。しかし、肝心の弟さんと女王は休憩中だった。
律のクラスがどこかは知らない。外は秋晴れだが、心の曇天にゴロゴロ……と、穏やかならぬ音が忍び寄っている。
篁にとっては女性同伴で弟のクラスに訪れた実績も作れたので、「人助け」の半分は達成できたはず。
すぐにも帰りたかったが、松葉杖をつきながら三階に上ったかれの労苦を考えると、急かすのも気の毒に思えた。
『ちょっと休みます?』
『いいね。法に触れない大人の女性からそんな風に誘われると』
『何言ってるんですか』
そんなやり取りをのほほんとしている間に、「かれ」との距離はぐんぐん詰められていたのに。
(馬鹿っ……、これじゃ篁さんよりひどい。未成年に、手を)
――――手を、出させた。
あの花火の夜、なぜ拒めなかったのか。
ずっと考えないようにしていた。LINEも着信も、心苦しかった。“左門律”と、スマホのディスプレイに表示されるたび困っていた。切るに切れなくて。
迷ったけど、ジーンズにして正解だった。
ローヒールのパンプスは足元が不安定だが、転ばぬようめちゃくちゃに集中する。
来場客を避けまくり、とにかく校舎を出るべく走った。階段を降り、踊り場で方向転換。一階に到着して――
「湊さん!!」
「!」
ぎょっとした。思ったより声が近かった。
女の子の悲鳴じみた声が上がり、反射で立ち竦む。
律は手すりに手を掛けた。
二階部分に近い場所から身を翻し、呆気にとられて口を開けたままの湊めがけて飛び降りる。
「どいて!」
「ッ……?!」
現役男子高校生の確固たる質量が、重力に従い落下する。
このままだとぶつかる。
速やかに判断した湊は早かった。手すりとは反対方向にサッと退く。勢い余り、とん、と、つめたい壁がローゲージのニット越しに触れた。
ダン!
器用に着地した律は、よく見ると変だった。
黒いし。執事だし、耳が。
「…………なんで、ウサギなの?」
「はぁ、はぁ……くそっ、湊さん、なんでこんなに足速いんだよ。……はぁっ……」
律は、言われてようやく気づいたように白い耳のカチューシャをむしり取った。
ぽい、と足元に捨てる。拾うそぶりもない。
息があがっているのは湊も同様だったが、律は教室に戻る以前から走っていたらしい。燕尾服の上着や衿元が乱れている。髪も。
それがまたおかしなストイックさを醸し出し、見るだけで「なんかごめん」と感じさせた。
同時に、後悔した。
ざわざわ……と、さっきから周囲の関心の的だ。非常によくない。なのに。
目を逸らさせない鋭さで見つめられたまま、じり、と距離を詰められる。
誰かが「壁ド……!?」と口走りそうになったが、皆まで言わずに飲み込んでくれた。
良心的自粛ありがとう。じゃなくて。
「律君。ここ、学校」
「……会いたかった。やっと、捕まえた……」
とん、と、身体の左右に両手をつけられた。
〈嵐の章・了〉
長くなった「嵐の章」は、ここまで。
いったん区切ってしまいますが、二人のやり取りを含む次章はぜひぜひ、秋のうちに書きたいと思います。
お読みくださったかたに、感謝です!