中
からりとした屋上の空気を肺いっぱいに吸い込み、左門律は絵筆を走らせたような雲に視線を添わせた。
落下防止のために設置されたフェンスの上辺に、掠れた飛行機雲がかかっている。斜め上はやたらと真っ直ぐな光を投げかける太陽がいるので、直視できない。それで、雲ばかり見つめている。
昼休み。仰向けに転がっている。
惰性で夏服のままだが、九月も終わり。そろそろ秋服に替えるべきだろう。
(あっという間だったよな……夏休み。台風ばっかりだったし、二学期もばたばたと)
しみじみ、と感じ入っていまう。
ある意味、彼女に近づくための好機に違いなかった季節は、あっさりと終わってしまった。
「しくじった……」
「何を?」
「何でもない」
温められたコンクリートが背に熱い。
ぼそっと呟いたはずの嘆きは、即座に隣に座る男に拾われてしまった。
目を瞑り、右腕を枕にして横を向く。
かなり、ぶっきらぼうに誤魔化したはずなのに柏木は流されてくれなかった。ここぞとばかりに、ぐいぐい突っ込んで来る。
「ってかさ、最近ずっとそうじゃんお前。えーと……花火大会から? ミナトさんもちょっともじもじしてたし。あれだろ。さては何かしたなー? 境内で、三人で座ってたときとか」
「! 見てたのかよ」
「見てねぇけど。…………へぇ、そっか。ふぅ~~ん?」
にやにや、ニマニマ。心底うざい。
周囲からは『可愛い!』と大評判の女の子っぽい童顔も、こうなっては悪人面としか言いようがなかった。げんなりする。
「関係ないだろ」
「ないけどさ」
よいしょっ、と、隣に胡座をかいていた柏木は立ち上がった。パンパン、と制服のズボンを叩く奴の背中越し、角度の低くなった太陽が一瞬、隠れる。
「勿体ないじゃん。せっかく、高校最後の文化祭なのに。……あっ! 聞いて聞いて。おれ、塾で彼女できたんだぜ!? 他校の女子! いま二年! 誘ったら当日、友達連れて遊びに来るって。紹介してやるから気合い入れろよ~。ほらほら、看板塗りなんざ、ささっと終わらせよーぜ?!」
「おま、それ……ただ早く帰りたいだけだよな? 塾で待ち合わせ? デート?」
「わかってんじゃん」
ふふん♪ と見下ろされた。どや顔だった。
客観的に見ると、幸せ絶頂の柏木はちょっと心配になるほど浮かれている。鼻歌まじりに昇降口の方へと歩き出した。
――そう言えば、こいつもまだ夏服だ。
ちょっと離れた場所に置いたベニヤ板には、鉛筆でレタリングされた『3-B cafe Alice』の飾り文字。
一体、誰の力作だろうか。某絵本に忠実な女の子の全身画と、ティーカップや帽子、ウサギに笑う猫の顔まで描かれている。凝りすぎだろう。
これを、ペンキで。
今日中に二人で刷毛で塗れとは、クラスの女子もなかなか鬼だと思う。板は結構でかいのに。
もう塗るつもりらしい、刷毛を選ぶ気楽そうな背中を目で追っていると、ふと予感が過った。ざっくりまとめると、たいそう良くない類いのものだった。
「柏木。お前……選択、美術だよな。俺とおんなじ。評価なんだっけ」
「ん? おれの通知表ってこと? 四!」
「…………」
十段階評価の芸術が“四”とは、つまり。
(やばい)
おそろしく元気に答えられたが、由々しい直観が律を襲った。このまま行くと確実にホラー喫茶となる。
女子はリアル鬼へと変貌し、和洋渾然混沌もいいところ。一体、どんな日英コラボレーションか。
速やかに腹筋だけで起き上がると、律もまたスタスタと歩き始めた。
風が頬を撫でる。あまりの優しさに目を細める。
陽射しの熱を、やすやすと冷ます秋風だった。
「貸せ。やる」
「お?」
仏頂面で手を差し出すと、ニヤつかれた。
「相変わらず素直じゃないね~、左門は。やりたいなら最初から」
「ばっか言え。素直すぎたから反省してんのに」
「?」
「何でもない。まずはさ、こういうのって背景からだろ」
話題を変えるべく、刷毛を思いきり缶に突っ込んだ。空色の滴がパタタッと辺りに散る。
下に敷いた段ボールを汚しながら、思いきり塗っていった。気分は芸術家だ。
ちょっとお洒落なゴシック風文字とイラストは黒。面倒なので全部シルエットにする。
ところどころ、四角い長方形は白を塗り、灰色で片側に影を付けて――こうすれば飛び交うトランプっぽい。
細部は油性マジックを使用。はみ出ればペンキで補整。
どうせ、出番は半日ちょっと。学祭が終われば燃やすだけなのだ。端々まで丁寧に作る必要はない。
「へぇ~、なるほど。うまいじゃん左門」
「……いちお、九だから」
「すげぇな。そつなし男子め。何か手伝う?」
「いや、いい。適当に座ってろ。そのうち呼ぶ」
俄然、もの作り魂に火が付いてしまった律は、猛然と看板を仕上げていった。ときどき簡単な場所を見繕っては、柏木に塗ってもらう。
一見、至極前向きな態度だったが、世間ではこういうのを“現実逃避”と呼ぶんじゃないだろうか。
――――あの日のキスから。
湊は会ってくれなくなった。
* *
律が通う海辺の高校、私立紫乃学園は、この辺りでは珍しい中高一貫エスカレート式だ。
附属の大学は県境を挟んだ向こう側。新規で学校を建てるにあたり、行政の招致もあり、地価の安いここを選んだらしい。
律は中学から。柏木は高校からの編入組だった。
『紫乃祭』と呼ばれる学祭は十月に学園総ぐるみで行われる大々的なもので、ちょっとした話題になる。他校の生徒はもちろん、OBやOGの里帰りもよく見られた。
バザー目当てに近所の方々もご来賓とあっては、ある意味、なかなか気が抜けない。
ちなみに『ミス紫乃』や『ミスター紫乃』も、毎年秘密裏に選ばれているという。(生徒会主催。歴年の記録は、実際の投票数などを記した裏帳簿なるものに綴じられ、『永年保存』と記された上で厳重に保管されているらしい)
律は、じつは中学からずっと学年別ミスター部門を制覇しているが、本人は全く気づいていなかった。我関せずと、今年も裏方に徹している。
つもり、だったのだが。
――――――――
「え? ウェイター。……俺が?」
「そう。やってくれるよね、左門君。人手が足りないの」
どこか、毅然とした表情でクラス委員の女子は頷いた。背後には、これまた気迫十分な女子を三名引き連れている。
言わずもがな、全員3-B。律は、じりっと後ずさった。
放課後、無事に看板をクラス委員(男)に提出し、さぁ帰ろう――と踵を返した矢先のことだった。教室の出入り口をぴったりと塞がれ、まるで罠にかかった獲物のような気分になる。
「じゃ、お疲れ~」と、緊張感のない笑顔で柏木が横をすり抜けていった。女子は快く道を開け、にこやかに手を振っている。
律はきょとん、と目を瞬いた。
「あいつは?」
「柏木君はいいの。とっくに役は決まってる。面白いから本人には言ってないけどね。あ、内緒よこれ」
「はぁ……」
ご愁傷様。お互い決定事項だった。
あいつはわかる。無駄に愛想がいい。売り子やウェイターなんかは天職だろう。
――でも、なんで俺?
訝しげに目線で問うと、なぜか赤面された。後ろの三人にも。
「!!!! やっぱ、左門君はやらなきゃダメだと思うの!! 宝の持ち腐れとか、良くないからっ! ね??」
普段、めっぽう大人しい眼鏡のクラス委員は、身悶えするように力説していた。
よって。
(なんか、俺……最近、女難の相でも出てんのかな。絡みたい女性には逃げられて、それ以外から、とか)
強引に押しつけられた衣装を、複雑な心境で持ち帰る。
有志女子たちによる、お手製の執事服だという。
カフェのテーマは『不思議の国のアリス』なのに、なぜ執事。
「『試着して、サイズおかしかったら教えて』って。あいつら、採寸なんか一度も…………え? 俺、測らせたっけ。訊かれてもないよな……???」
一人、さかんに首をひねる。
げに、侮れぬは手芸女子による、およそピッタリな目分量。
帰宅後。
律はその職人魂を、肌身で実感することになる。