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職業安定所が行うのは求職者への仕事の斡旋、企業の求人受付だけではない。失業者がまったく新たな職種に就くための可能性も示してくれる。湊が選んだのはそういう、“将来を見越した回り道”だった。
旅館で働いていた間中ずっと、給料から微々たる金額が「雇用保険料」として差し引かれていた。その恩恵を実際に受けられるまでのタイムロスは一ヶ月ちょっとかかったが、それでも大変ありがたい社会的セーフティネットだと思う。
前夫からの慰謝料は。
口座では確認したが、手を付けたくない。これは、いざという時の貯蓄でもなんでもなく、見たくないから。「触れたくない」から。
頼ったら負け。
そんな意地がどこかにある。
あの頃は旅館の仕事も多忙の一語に尽き、諸々あって、勤務中のほうがよほど気持ちが楽だった。
もっと突き詰めていうならば、お客さんが寝静まったあと自室に戻るのが怖かった。
あの時の感覚は思い出したくない――けれど。
(女将さん、どうしてるかな……)
痛みとともに、ふいに記憶を掠めるのは、母を失ったあと湊の後見人となってくれた老女将のことだった。
白髪を品よくまとめた、気っ風のいいあのひとは。
ぼんやりと過ごすしかなかった結婚後の数年間。
察した老女将は、早かった。すぐさま湊を捕まえて。あの瞬間だけが鮮烈に残っている。胸を刺す。
『あたしのことはいい。あんたは、ここに居ちゃいけない。あれの性根を叩き直すのは、あたしの仕事だ。……ごめんね、気づいてやれなくて』
――いいえ、いいえ。気づいてくれました。助けてくれたんです。女将が。
子どものように泣きながら、首を横に振り続けることしか出来なかった。柔らかな光が射し入る、障子戸を閉めきった昼前の彼女の部屋で。
ぱっと見には、暴力の痕なんかどこにもない。組み敷かれて傷つくのは、「そういうもの」とは限らない。
時々、愉悦まじりに、実際の疵もつけられた。
痛みもそれらも、何もかもがズタズタになって心に降り積もった。苛み、くるしくて。
彼女にとっては実の息子だった。
結婚を申し込まれて、特に違和感はないほどの好意はあって。
『恩人の息子だから』
そんな思いが根っこにあったのを否めない。
それこそが、いつしかかれを狂わせたのだとしたら。
(……どこかで、掛け違ったんだろうな)
二つ目と三つ目。四つ目と五つ目。
やがて、どんどんひらく歪な段差は埋まらない。戻せない。
今となっては。
すっかり距離をとり、隔絶できたかなしみと安心感があるからこそ訪れる、できればゆっくりと色褪せてほしい追想だった。
* *
自宅から車で一時間程度かかる、とある情報処理系の専門学校。
ここでは労働省から委託を受け、条件をクリアした雇用保険受給者を対象に専門カリキュラムを組んでくれている。
今、湊は、ほぼ十年前は得られなかった“普通の学生”としての時間を、ようやく過ごせている気がする。
小会議室程度の広さの教室で、複雑怪奇なCPの中身や言語、プログラム、プロトコル……とにかく呪文の羅列。それに必死に耳を傾ける。集中、集中。
同じコースを受ける受給者は26名いたはずだが、現在は徐々に減って18名。
途中で就職が決まったり、脱落してしまったり。理由はさまざまだが。
――――――――
「え? 牧野さんも離脱しちゃうの?」
「うん。残念だけど」
さわさわ、ざわと、白いテラスが設置された学生食堂の片隅を受給者たちが陣取り、食事をとっている。昼のランチは憩いの時で、みな一様にのんびりと食後の飲み物に手を伸ばしていた。
湊は持参の水筒に、朝に淹れた珈琲を入れている。その湯気で鼻先をあたため、香りを楽しんでいた矢先のことだった。
会話をしていたのは主婦二人。双方、まだ子どものいない若い女性だ。
「なんで? 仕事決まったの?」
「ううん。それが……その、……出来ちゃって」
「あ」
「そうか~、おめでとう。何ヵ月?」
固まる主婦の隣で、中年に差し掛かった男性が尋ねた。前職はバスの運転手。人好きのする、にこにことした風貌ですんなりデリケートな話題に入ってゆく。湊の目にはすさまじい偉業に見えた。
「三ヶ月過ぎたあたりです。つわりとか、全然ないんだけど。旦那が『やめろ』ってキレて、聞かなくて」
“牧野さん”は、きれいな額の眉間に深々と皺を寄せた。ゆくゆくはCGデザインも本格的に、と話していた才気煥発な知的美人だ。短い付き合いだがわかる。少々、気も強い。
あぁぁ……と、一同に濃い納得の気配が漂う。
夫婦喧嘩は犬も食わない。もちろん、たまたま時間を共有することになった職業訓練の同士であっても。
従って彼女に「残念だったね」というひとは一人もおらず、場は円満に「まぁまぁ、おめでとうで良かったじゃない」と収まった。
* *
「瀬尾さんは? 牧野さんみたいなこと、ある? ありそう?」
「篁さん」
昼食後、教室移動のために廊下を歩いていると、ぽん、と左肩に手を置かれた。
斜め後ろを振り返った湊は、困ったように口の端を下げる。「ないです。独り身ですもん」と、さりげなく距離をとる。
篁裕一。年齢三十。バツイチ子なしと、堂々と自己紹介で述べていた。
高校を卒業したあとは自動車工場や運送業をこなしたらしいが、夫婦喧嘩のあげく奥さんに車で轢かれて全治四ヶ月。
今も左側は松葉杖で、ギプスで固めた足がちょっと痛々しい。
『まだ若いんだし、全然違うこと勉強してみる? どうせ、まだ力仕事無理でしょ』
と、馴染みの(馴染んで良いのだろうか)相談員から紹介されたのがこのコースだったらしい。
ちなみに『訓練中は、受給期間も伸ばせるし渡りに船だったんで』と、実に爽やかに話していた。
染めてはいない、地のままの髪を無造作に襟足で縛っている。長さは書道の筆の先ほど。
それでも清潔感はギリギリ損なわれないような外見だった。細身でも体が資本の前職にふさわしく、俊敏そうな筋肉が付いている。衣服越しでもわかるし、上背もある。
すわ体育会系か? と思いきや意外にもCP言語には詳しく、苦もなく取り組んでいた。出身校が工業系で、CADで設計図を組んだこともあるとか。
つまり、羨ましいほど余裕のある優等生。
はぁぁ……と、湊は息を吐いた。
「篁さんこそ。彼女の二、三人は常時いそうです。大丈夫ですか?」
いくら、産む側ではなくっても、という言葉は辛うじて飲み込んだ。
篁は、あっけらかんと笑っている。
「ひっど。どんだけ悪い男扱い? それよりさ、今度、弟の高校で学祭があるんだけど」
「学祭」
――カチャ、と教室のドアを開けて湊は反芻した。人生であまり馴染みのない単語だ。
勉強じゃないなら、と、渋る女将を説得し、生活のためだと学校に説明した上で、旅館の仕事に明け暮れていたので。
篁は、そんなことは知らない。
だからこれは、ごく普通の、一般的な会話の流れなんだろうか……?
前方、中央よりの席につく。
当然のように隣に座られた。まだ、他の受講者は来ていなかった。
(次。職務経歴書の書き方か……。私は一種類だし、楽だな)
筆記具などを机の上に出しつつ、ぼうっと考えに耽っていると、右隣から苦笑の気配が伝わった。――ひょっとして、笑われましたよね。どうして?
「人助けだと思ってさ。ちょっと、瀬尾さんにお願いしたいんです」
「…………は?」
間を空け、すっとんきょうに聞き返してバッと右を向く。
肘をつき、心底困り果てたような男前の顔が、こちらを見ていた。