追記 音は光よりも遅れて
白地に夏椿。水色に立葵。藍に白抜きで大輪の百合――
「百合、かな」
広げられた浴衣に幾筋もの帯の川。寝室の畳は百花繚乱だった。
縦に細長い姿見のなか。寝間着代わりのTシャツと短パンで腕や脚を露にした湊が、紺と白のコントラストがきっぱりとした一品を選んで羽織る。糊が効いて、しゃりっとした肌触りは寝間着よりよほど涼しい。
――うん、悪くない。
これならシンプルな織りの白帯と、アクセントに紺の帯留めでいいと思う。巾着……は、はんなりしすぎ。四角い藤の籠バッグにしよう。
髪はサイドを編み込んで、片側の耳下にアシンメトリーに寄せて。帯と同素材で白の蝶々結びが印象的なクリップがあったはず……と。
装いを考えるうち、寝起きでぼうっとしていた頭がクリアーになってゆく。
湊は、“み穂”での一件を思い出し始めていた。意図せず口角が下がる。鏡のなかの眉は八の字になった。
(大人げないこと、言っちゃったな……もっと、柔らかくも言えたはずなのに)
ため息を一つ。
寝癖頭の現状は置いておいて、着物用のハンガーに浴衣を掛ける。必要な小物を残し、あとは仕舞っていった。
痛む胸は無視してパタン、と引き出しを閉める。一体、十も年下の子に、なぜあんなにもムキになってしまったのか。
まだ敷いたままの布団の枕元では、黒い画面のスマホが充電中の赤いランプを点している。
昨夜遅めの時間帯に誘われたときは、年甲斐もなくびっくりした。
『けっこう、近隣じゃ評判の花火大会があるんです。ちょっとした屋台も出るし、夕食がてら一緒に見ませんか?』と。
断る理由は無かった。おまけに『就職祝いです。ささやか過ぎるけど、お願いだから奢らせてください。好きな屋台食べ放題で』とまで言われては、くすくす笑うより他ない。
(そんなに大食いじゃないんだけどな)
思い返すと、また口の端がゆるく上がっていた。それから苦笑する。
ーーこの辺りは、人口はさほどでもないが海があり、山がある。
人びとは意外に人懐こく、お祭りごとが大好きなのだと引っ越してからこっち、たびたび学んだ。余所者や新参に対しては驚くほど懐が深いのも。
「律君、マメだよね。同年代のお友達だって、たくさんいるだろうに。女の子だって……、あっ」
言ったあと、はたりと止まってしまった。
春に聞いたきりの、かれの苦い経験。名実ともに傷を残したという件の女の子からの付きまといは、その後どうなったのか。
(ううん……)
しばらく思案に暮れて、またハッとする。
(だめだめ。こんなんじゃ、今日は何にも手につかない……!!)
そうして、こなすべき雑事と身支度を終えればすでに出立時刻。
湊はきちんと戸締まりをして、小さな我が家をあとにした。
カラン、コロンと下駄の音。
ガレージの前は素通り。今日は徒歩。
まずは、坂の下のバス停まで。
* *
「いいッスねぇ、浴衣!」
「わっ! えぇと……あ、あの時の?」
「柏木です。柏木透。左門とは同じクラスで、部活も一緒でした。ぜひ『透』って呼んでください。『ミナトさん』ですよね?」
薄闇のなか、ざわ、ざわと人いきれと熱気が満ちている。海沿いのバス停付近はすでに祭りの空気一色だった。
湊は、開口一番破竹の勢いで話しかけてきた少年にたじたじとなる。
「あ、はい。みなと……瀬尾湊です。透、君?」
やや押されがちに素直に名を呼ぶと、にこっと無邪気に微笑まれた。どうかすると、律よりも幼い印象を受ける。
なおも話し込もうとする少年の肩をぐいっと押しやり、今度は律が湊の正面に立った。こちらも、やたらといい笑顔だ。
「こんばんは、湊さん。濃紺と白で百合の花っていいね。涼しげだし華やか。すごく似合ってる。花火より断然いいかも」
「ばかだなぁ、何言ってるの」
『こんばんは』と先に返しつつ、湊は笑いをこらえきれなかった。――この子、肝心なところでド天然。危なっかしいにも程がある。
(しょうがないなぁ)
カラン、と一歩。
下駄でかさ上げされた分、顔はいつもより近かった。少しだけ驚いた表情がよく見える。
男子二名はラフな普段着だったが、周囲の浴衣率は高い。情緒たっぷりな浴衣女子もちらほらと花咲くなか、自分だけが浮いているとは到底思えなかった。
なので。
小首を傾げてほほえみ、やや挑発するように下から覗き込む。
「花火がいいに決まってるでしょう? そういうのは“殺し文句”って言うんです。使いどきと落とす相手は、ちゃんと選ぼうね?」
「……」
律の目が据わり、眉がぴくん、と跳ねたが、何も言われなかった。代わりに側で見ていた柏木がおののく。
「えっ? 何、この“殺し合い”。オレ、どうすりゃいいの左門。ミナトさんの戦闘能力値、半端ないんだけど……?」
「『ここは俺に任せて、どっか行け』とかかな」
「お前ッ…………、つっっっくづく悪い男だな。決めた、オレは逃げない。彼女を守るぜ!!」
「あぁ、はいはい。――じゃあこっち。行こ、湊さん」
「え?」
あまりにも自然で反応できなかった。
籠バッグを持っていないほうの手を握られて、引っ張られてしまう。
歩調は緩い。連れが下駄で、大股には歩けない和装であることを熟知した足運びだった。
「おいっ?! 情報提供者を置いてくなよ~」
湊はクスクスと笑った。
何だろう。なにか、申し訳ないほど楽しい。
律の手は思ったより繊細で、さらりと乾いている。あたたかい。
(……そう言えば、弓もだけど、楽器とかが似合いそうな指してたっけ……)
ふと、咲き乱れる花枝とともに、伸ばされた律の腕と指先がオーバーラップした。
かちり、と何かが心で爆ぜて、形のとらえづらい残像を結んだ気がした。
* *
人混みを避けて石段を上がり、縁日の明かりが眼下を照らす境内へ。
移動するあいだに、夜の帳は降りてしまった。足元はすでに暗い。
(夜の神社は怖いかな……)と一瞬案じたが、よく見ればそこかしこに電飾が連なり、雪洞が飾られている。
そこそこ、人も来ている。気のせいでなければ、ご老人や年配の方が多い。
前をゆく中背の少年は、湊の疑問を感じ取ったようなタイミングで話し始めた。
「姉が老人介護施設で働いてるんスけど。『もうすぐ花火大会だねぇ。お姉ちゃん可愛いから、とっておきの場所教えてあげるよ』って言い出したイケメンじいちゃんが居たらしくって」
「それが、神社?」
「えぇ。木立が邪魔だし蚊もいるからって不人気で。実際は虫よけも焚かれてるし、角度によってはめっちゃよく見えるそうで…………あ、あった! よかった。誰にも取られてない~」
先回りした柏木はひょい、と石の灯篭の影を覗いた。のんびりと追った二人も確認する。明かりの届かない場所に、石造りのベンチがある。ぱっぱっ、と気遣い名人らしい柏木が座面の砂を払うと「どうぞ」と、特等席に案内された。
――――刹那。
ワァァアアア……と、歓声。下のほうから見物人たちのあげた声が波となって押し寄せる。
真っ黒だった木々のシルエットの向こう、パラパラパラ……と散りばめた音とともに、光の滝が見えた。
「やった、ちょうど始まった!」
右端から詰めて、柏木、律、湊の順に座る。
あとは、光と色の洪水。空へと上がる閃光と音の競演。ずっと声もなく見入っていた湊は、「あ」とちいさく呻いた。――どうしよう。手を繋がれたままだ。
途端に神経が右手に集中してしまい、軽く汗ばむ。おかしい、離してくれてもいい。むしろ。
「……どうかした?」
「!」
びくっ、と肩が跳ねた。
尺の大きな花火の合間に落とされた肉声に、耳が過剰反応する。
「何でもない……ことは、ないです。手、離してくれる?」
「いやです」
「え」
夜空いっぱいが、金色の球形の光に満たされた。端から色を変えるのだ。わかる。そして――
ドォンッ…………!!!
ほんのわずかの間を空けて、身体中を揺さぶる天の太鼓のような音が到達する。
耳もとに顔を寄せられた。轟音にわざと重ねるように。
「おれ、好きですから。離しません」
「っ……――り、」
呼気が止まる。心理的に、物理でも。
ちょっと待って、追い付けない。
光の名残に律の整った顔が照らされて、目を逸らせなかった。閉じられなかった。
――――唇は、ふさがれた。
〈夜空の大輪の章・了〉