後
養ってもらった旅館の女将の厚意で、湊は地元の高校に通わせてもらった。急死した母親が長く勤めた仲居だったからという、それだけで。
「卒業後はすぐ、私も旅館に就職したし。小さな宿だったから、仕事は何でも屋さん状態だったのよ。一応調理場もWeb予約の管理も、もちろん接客もこなしてたんだけど、いかんせん付け焼き刃というか……ちゃんとした知識があってのことじゃ、なかったから」
「へぇぇ……なるほど」
相槌を打ちつつ、カラン、と手のなかで氷が融ける。
カフェの娘である実苑は、じつは出産したばかりだという。
結婚相手は遠方で大学助教授とのこと。婿といえど別姓のままだし、なかなか会えない夫婦なのだと笑っていた。
――そのすぐあと。
小さく、ほわぁぁあ……と赤ん坊の泣き声が店の奥から聞こえて、実苑はたちまちきりっと“母親の顔”になった。
『ごめんなさいね、少し外すわ。もし、お客様がお見えになったら二階から母に降りてきてもらうから。どうぞごゆっくり』
『えぇ。大丈夫、実苑さんも慌てず、行ってらっしゃい』
おっとりと送り出した湊は、すでに店員のような空気を湛えていた。
(なるほど。だから、着物……)
実苑はてきぱきとアイスコーヒーを二つ、左側のテーブル席に用意して奥へと消えた。
『サービスね』と言い残して。
静かな店内は、BGMもなにもない。車も滅多に通らないので、何となく二階の気配や、奥で赤ん坊を世話する実苑のたてる物音が伝わるほどだった。
麻布のシェードを降ろした窓辺に、和らいだ日差しが注ぐ。透明のグラスに半分残ったコーヒーをくるくると赤いストローでかき混ぜる湊は、律を相手にぽつり、ぽつりと話しだした。
二十歳を過ぎた頃、都心で働いていた女将の息子が帰ってきたこと。
そいつと結婚したこと。
結婚してしばらく、徐々に関係がおかしくなったこと。
一緒に暮らしていた、引退していたはずの老女将が気づき、なんとか弁護士を間にたてて離婚にこぎ着けられたこと。
毎日が、こんなにも自由なのは。穏やかなのは、ずいぶんと久しぶりだし。自分はもう表舞台から去ったようなものだから、と。
微笑む湊はしずかで、踏み込むことを躊躇わせる清澄さに満ちていた。
「この先は、慰謝料とかに頼らずに。きっちり自分を養えるようになるのが目標なの。体力が衰えても続けられる仕事のために職業訓練を受けるけど。実苑さんや、先祖代々の呉服稼業も続ける『み穂』をね、知ったからにはうずうずしちゃって。……大変そうだし、出来ることしたいなって、思っちゃったんだよ」
「――――うん」
律は、勢いでとっくに飲み干して氷だけになったグラスに所在なく触れた。
結露で濡れた指を縁にあてて、滑らせてみる。
時おり合いの手を返す以外は、徹底した“聞く体勢”を貫いた。
最終的には、何だろう。
なんか――……言うべきなのかな。言っていいのかな、と、おそるおそる口にした。
或いは『口を出した』。
「湊さんはさ、もう、子どもを作りたいとか新しい家庭を……とかって、本当にないの? そんなに綺麗なのに。若いのに」
言ったあと、ハッとした。
これ、踏み込んでる。
視線をゆるゆると戻した先には、ほのかな微笑。言われることには慣れてます、と頬にあった。――しくじった!!
「ないね。もう、充分だと思う」
最後通告じみた一言だった。
意訳は『口出ししないで』。
たぶん、合ってると思う。
* *
「へーーーーーぇぇえ。そう、そうなんだ~。ミナトさんね、うん。堪んないよね、当たりは柔らかいのに近寄らせない年上美人とか」
「うっせぇ、黙れ。ついつい、つるっと喋っちまったけど。的、間違えてお前にしたらゴメンな。先に謝る」
「いや、間違う要素どこにもないだろー?」
遠く、始まったばかりの蝉の合唱。
朝の涼気がまだ残る弓場で、律は柏木と二人、弓を引いていた。
受験生でも。
卒業年次生だからこそ射に没したいときがあるだろうと、高校側も引退した弓道部員に対して目こぼしをくれている。
それは、あえて一、二年生の立ち入り不可時間を設けることで成立していた。下級生に会いたいなら、普通の時間帯に紛れて励めばいい。朝の五時すぎ。顧問の教師には頭が下がる。
が、柏木。テメェはだめだとばかりに、律は正面の級友を睨んだ。
「そうだな。間違えるのも面倒だ」
左手に弓。右手に矢。今まさにつがえようとしたところを思いきり茶化された。
本来射るべき的は体の左側。律は目を閉じ、一旦集中してから再度射に挑む。
両腕を上げる。ぴん、と張って矢束を押す。弓弦ごと矢羽を引く。
どこにも引っ掛かりはしない流れるような動作は心がけるまでもなく、いまや身に付いたもの。
見る。
視る。
呼吸も消え去るほどの没頭。消え去る自我。
見つめるのは心。射るのは己だ。
瞬間、『繋がれた』。
キリキリ……
スタンッ!
「お見事」
「どうも」
行儀悪く板張りの床に胡座をかき、片肘をついて笑う悪友に、律はつとめて平淡に答えた。可愛くねぇなー、とぼやかれる。
黙れ、何しに来たこいつ。
憮然と後ろの矢筒に手を伸ばす。汗が額を伝った。
(あとで拭こう。せめて、もう二射くらい)
眉一つ動かさず、つがえようとした。その時だった。
「そんな態度でいいわけ? せっかく親友が『俺も混ざりたいなぁ』って下心満々に色々リサーチして、今週末の花火大会、穴場情報ゲットしたのに」
「何それ、もっと詳しく」
コロッと張りつめた空気を霧散させ、律が目を丸くした。
(あ。こりゃ、次は外すなこいつ。前言撤回、可愛いなー左門)
にこにこと、爽やかなそつない弓道男子を唆せた手応えに悦に入りつつ、柏木は胸元の袷からぴらり、と一枚の紙片を取り出した。
情報通の姉への見返りは駅前のケーキ屋の限定プリンだった……と、遠い目になりながら。
「知りたい? 教えてほしい? 『透様、お願いします』は???」
「…………」
まだ、下級生は訪れない早朝の弓場は夏の夜明けの名残がある。
その静寂を、領域を。年相応に賑やかな男子二名は、取っ組み合いに近い地図の奪い合いにまで発展させた。
――――蝉時雨のなか、申し訳程度にそっと床に置かれた弓が、やれやれと射手を待っている。