中
信号待ちで一旦停止。
高校前の坂道を降りた湊の車は、カチ、カチ、とウィンカーを左に出した。
近くには漁港があり、民宿や料亭もある。今は山側に移転してしまったが、昔は市役所があったらしい。その名残に古い町家や商店街、金融機関の建ち並ぶ界隈だった。
(昼飯……老舗料亭とかだったらどうしよ、俺、制服なんだけど。いや、制服だからいいのか……?)
ちょっと心配になってきた。
エアコンが効いて、ひんやりとした助手席のシートにもたれた律は、それとなく湊に尋ねる。
「どこ行くの?」
「お寿司屋さん。美味しいところ、教えてもらったから。生魚は苦手……じゃないよね?」
「好きです。あと着物、きれいだね。色もよく似合う。自分で?」
キッパリ。
ど直球な褒め台詞に、湊はさすがに怯み、はにかんだ。
「うん」
信号は青。誤魔化すようにハンドルを切った彼女は「えぇと……ありがと」と、呟いた。
ほんのり赤くなった横顔に和洋の隔てなんか、もちろんない。それそのもので『瀬尾湊』。等身大の彼女だ。
普段と違う装いでも、いつもの表情。それが好き。
(そりゃそうだ。中身、変わってないもんな)
――――中身。
ふと、律は一度だけ目に焼きつけた彼女のノースリーブ姿を思い出した。
夜の庭で、足元からのライトアップに照らされた肩は抱きしめれば苦もなく収まりそうに華奢だった。柔らかそうなのにしなやかな肘までの線は、触れれば温かそうで――……
「!!!」
(待て。ストップ。これ以上は犯罪。どう見ても俺の方が不審者だから。落ち着け、落ち着いて……!)
あわてて口許を隠し、助手席側の窓へと視線を流す。
サイドミラーに映ったのは意外にも真面目くさった高校生の顔で、おかげで煩悩は瞬く間に瞬殺された。
* *
パタン。
公営駐車場に車を停めた二人は、商店街のアーケードの下を歩く。
ちりり、ちりぃん……と、海風が渡るたび天井に吊られた風鈴が連鎖して、涼しげな音色を奏でた。
控えめに言って、和装の湊は人目を惹いた。すれ違いざま、ほとんどの人間が彼女を見つめてゆく。
ため息をつく若い女性。
穏やかに愛でる老人。
やに下がり、堂々と堪能する男性。
反応はさまざまだが。
かれらの顔に浮かぶ最大公約数のような感情は、並べて美しく心地よいものへの称賛だった。
太鼓結びの白い帯、涼しげに抜かれた襟、ほっそりとしたうなじに、シンプルな結い髪。
着物の区分としては日常着のはずなのに非日常。今は凛として。
(……ほんと、きれいだな)
視線が集まっても、湊は自然体だった。
長襦袢が透けて見える薄荷色の薄物。天色の帯紐。帯留めはトルコ石。さすがにレースの日傘はないようで、そこはちょっと安心する。
――――――
絵になり過ぎて。
完璧過ぎると、ただでさえ一線引いた向こう側は塩対応なのに、手前側の甘やかな彼女まで近寄りがたくなってしまう。
見とれるだけ。想うだけで満足するような、そんな気持ちではないと、薄々わかり始めていた。
ちょうど昼時。
柳や桜が植えられた川沿いに、ひっそりと店を構える寿司屋の暖簾をくぐる。
「らっしゃい。あぁ、ご予約の……。えぇ、奥にどうぞ。履き物はそちらに。おぉーい、二名様ご案内!」
地元では知るものぞ知る名店だった。何度か家族と訪れたことがある。
目が合った馴染みの大将からは『お?』と眉を上げられたが、特に何も言及されなかった。
律は、湊に見えないよう隠れて、ぐっと拳を握る。
――級友の柏木は、早晩ここに弟子入りすべきだ。主に空気を読む技について学べばいいと、わりと本気で考えた。
平日昼の限定ランチメニューで、律は握り定食。湊はちらし寿司膳を選ぶ。
至福。文句なく美味しい。
何がいいって、好きなひとと差し向かいで真っ昼間から握りたての寿司をつまんでいるのだ。
温かで粒のしっかりした酢飯は口に入れるとほろっと崩れるし、上に乗る魚は新鮮で冷たく、厚さもちょうどいい。醤油も山葵もうまいし、個人的には生姜の酢漬けが好き。なんだここ。極楽か。
完食。
ふぅ……と人心地ついて、女将さんに淹れ直してもらった緑茶をゆっくり含む。コトン、と湯呑みを置いて、座椅子に背を寛がせた。
「――で。俺からもちゃんとお祝いさせてほしいんですけどね、湊さん。新しい仕事ってどんなの? いつから? どこで?」
両手の指を組み合わせて、にっこり笑いかける。奢ってもらったら倍返しが基本だろう。
本日の食事の主旨について、詳細を尋ねることに、律はようやく成功した。
* *
「へぇ、こんなところに」
「そう。あ、そこ、頭下げてね律君。背が高いひとは刺さっちゃうんだって」
「あぁ……なるほど、大丈夫」
律は、ひょい、と身を屈ませた。
剪定はされているものの、立派に伸びて垂れた松の葉が頭上をかすめる。
寿司屋を出て、『こっち』と案内された細い小路の先には家屋があった。黒く塗られた壁が古風な佇まいで、隠れ家のよう。手前に車四台分の駐車場はあったが、もぬけの空だった。
駐車場の奥には生け垣があり、律の胸下までの高さの塀がそれを囲っている。これは普通の木肌の色。
右側に控えめな標識が掛かっており、『み穂』と墨書きがあった。戸口は開け放したまま。そこを、湊は躊躇せずに進んでいった。
いわゆる小京都と呼ばれそうな裏路地にありそうな雰囲気。苔むした細長い箱庭に、やはり黒塗りの梁で支えられた屋根が張り出している。入り口は二重の硝子張りだった。
一つ目の玄関先で靴を脱ぎ、並べられていたスリッパに足を通す。二つ目の扉を開けると『ごめんください』を言うまでもなく、すぐそこに人がいた。
「いらっしゃい……あ、瀬尾さん。素敵。着物で来てくださったの? 可愛らしいお連れさんね。さ、どうぞ上がって?」
「お邪魔します。オーナーは?」
「二階ね。新しい反物が入ったから」
おそらく三十代だろうか。小柄な女性は仄かな微笑を浮かべた。
店、という解釈で良いのだろう。入った右手と左手奥に一つずつテーブル席があり、斜め正面にはカウンター席。空いた空間の壁には全て上、中下と陳列棚が取り付けられ、さまざまな雑貨が置いてある。
扇子、手袋、ショールにハンカチ。香を練ったものや、柄入りの懐紙まで。どれも和を感じさせる小物で、派手さはないが妙に落ち着いた空間だった。
出迎えたのは彼女一人。こちらも和装。
訪問着としては渋いもので、クリーム色の地色に茶色っぽい絣模様。抹茶色の帯に螺鈿の帯留め。黒い帯紐。長い黒髪は高い位置ですっきりとまとめ、漆塗りの簪一本で飾っている。
目鼻立ちは、ちょこちょこっと筆で描いたような可愛らしさ。人好きのする笑顔で、ずっとにこにこしていそうな、小動物めいた雰囲気がある。
やや立ち話に興じていた湊は、ふと後ろを振り返った。
「律君。こちら、呉服屋兼和雑貨カフェのオーナーの娘さんで、実苑さん。来週から私、ITの職業訓練を受けながら、帰りはここに寄って臨時アルバイトすることになったの」