第五話
出発して次の町への途中です。途方も無い砂漠の道のりを、一体どれだけ来たことでしょう。生き物を嫌っているかのように乾ききって輝くこの地に、ひとつの濃い緑色をした物が砂煙を後ろに残して進んで行きます。向かっているのはお日様が傾いていく方角です。
この砂の海の中では大丈夫でしたが、途中でタイヤがパンクした時も、悪路にはまってなかなか抜け出せなくなった時も、途中であきらめることなく旅人さんはたった一人で西へ西へとやってきました。しかし今は違います。ずっと人を乗せていなかったその車の助手席に、白いローブをまとった女の人が乗っています。彼女の胸には青く輝く大きな宝石のついた白いブローチが付いていました。
一人っきりではないのですが、車の中が笑顔で包まれたり、楽しそうな声があふれたりすることはなく、どちらかと言うとあまり今までと変わりが無いような感じでした。そして更に言うなれば、一人旅に慣れきってしまった旅人さんにとっては少し窮屈な雰囲気です。
野営をする時も、用を足す時も、今まで一人で勝手気ままにやれてきたものですが、今では相手のことを気遣って行かなくてはいけません。お水だって食べ物だって今までの量では足りません。ただでさえ次の町までぎりぎりになることがあったというのに、これでは心配事が増えただけです。
自分のことは自分ですること。
旅人さんが酒場で女の人と交わした約束です。万が一命に危険があったとしても旅人さんは責任を持たない。食べ物やお水、他に必要なものがあれば自分が持っているお金や持ち物を売って手に入れること。一人旅の旅人さんも大人一人をまかなうほどの余裕を持っていないので、これは絶対条件でした。
出会った町で自分に頼みごとをしてきた時、旅人さんはこの身奇麗にしている女の人のことを世間知らずなお嬢さんと思っていました。ところが話してみると彼女はいろいろな苦労をしていて、分別のちゃんとついた大人の女性です。旅に出ると言う意味がわからないはずがありません。普通に町で暮らしている人にとってすぐに頷けない条件を出せば諦めるだろうと思っていました。もちろん連れて行くつもりは無かったのですが、約束した以上仕方ありません。
車の中でもう一度だけ聞きました。
「あの晩お話したとおりです。あの町に居ることが辛い、ただそれだけ。同じことをあなたに聞いても良いですか?」
旅人さんはきっとそう言われるだろうと予想していました。旅人さんに深い理由なんてありません。自分の知らない世界を見て回り、その中で生を終えたい。ただそれだけです。
「……私もそうありたかった」
彼女は窓の外の輝く砂の海を見ながら寂しそうに呟きました。後部座席で空き缶がカランカラン、ぽこんぽこんと小気味の良い音を立てていたので旅人さんには聞こえませんでした。
道中トラブルも何も無く、魚の干物を買った町を出て三日目に次の町に到着しました。大分緑が増えてきて、砂漠の終わりが近づいていることを感じさせます。町の人に尋ねてみると、びっくりすることを言われました。ここは砂漠の入り口の町だそうです。旅人さんはショックを隠しきれなかったのですが、東から来たと答えると、それならここが出口だ、と明るく笑って言われました。本当に遠い道のりでした。
西にある一番近い町は海沿いにあって、三日から四日でいけるそうです。車の燃料やそのほかの旅の道具を買い集めます。お水、食べ物は二人分買い込みました。お金は全部旅人さんが出しました。
どのお店に行っても夫婦と間違われました。ずいぶんと豪快な女将さんがいたお店でのことです。
「…? どうしたの! アンタがそんな悲しそうな顔をしてたらダンナさんが困っちまうだろ! ほら、これもつけといて上げるから笑って笑って! 女が笑って支えてあげなくちゃダメなんだよ! 男なんてすーぐ折れちまう弱っちぃ生き物なんだからさ!」
旅人さんもずっと気になっていました。ですがしつこく問いただすことは旅人さんの性にあいませんでしたし、聞いても同じ答えが返ってきます。本当のことは隠し、そして何か嘘をついている。一時の旅連れに過ぎないのですから、答えられないのならばそれでもいい。旅人さんに害がないのならば聞かないでおこうと決めていました。
二晩泊まって、出発です。
旅人さんは出発の前の晩、ふと目を覚ましました。窓を閉めたはずなのに涼しい風が吹き込んできたからです。体を起こすことなく窓の方を見ました。窓辺には椅子に腰掛けて、そよ風に長い黒髪をなびかせているきれいな女の人がいました。薄手の寝衣だけで、月夜の町を見ています。立ち上がって少し身を乗り出しました。木で出来た床と窓の縁がほんのちょっぴり軋む音が響きます。やさしい月の光が射して、寝衣に彼女の身体の影が映ります。旅人さんはその景色に心を奪われました。ですがやはり彼女の顔は憂いに陰り、旅人さんは心を痛めていました。
出発して二日目です。完全に砂漠ではなくなり、草木が生い茂る草原になりました。遠くの方に山々が見えます。その山々も、頂こそ白くまた岩のような色合いでしたが、ふもとから真ん中あたりは緑に覆われているようでした。
すれ違う馬車や、家畜を連れた人を時々見かけます。町というほどではなくても集落があるのかもしれません。砂漠のように孤独を感じることが少なくなりました。
その日の夜のことです。
「もう、あそこには戻れないんですね」
女の人が口を開きました。旅に出たことが怖くなったのでしょうか。もしもあの町に帰りたくなったのだとしたら次の町で下ろすので別の旅人に頼んで戻ればいい、そう言うと首を横に強く振りました。
「…そう言う意味じゃないんです」
旅人さんは問いませんでした。女の人ももうその話はしませんでした。
「でも、このあたりで暮らすっていうのも、穏やかで良いのかもしれないですね。あの土地とは違った大変さがあるのでしょうけれど。…もし一緒に、と言ったら… いえ、何でも…」
旅人さんは何も言いませんでした。
「…そうだ。あのお酒、持ってるんでしょう? あの土地へのさようならの意も込めて、飲ませてもらえませんか?」
旅人さんは何も言わずに立ち上がり、車の中の荷物の中から一瓶出して二人のコップの中に少しずつ注ぎました。手に取った別々のコップを軽く打ち合わせて、二人同時に口をつけます。あのたまらない、甘くて豊かな香りが体全体に広がります。満足げにほうっというため息をついた旅人さんは、次の瞬間ぎょっとしました。
女の人が肩を揺らし、うつむいています。
「…もう …… 泣かないって… …決めたのに……」
彼女の膝元を、大粒の雫が濡らしていきました。