第四話
二日経ちました。三日目の朝です。部屋の中に朝日が差し込みます。小さな声がして、ベッドのシーツがもそっと動きました。ちょっと間があった後、布擦れの音と共にベッドの主が体を起こしました。ちょっと眠たそうな目をしています。
「おはようございます」
とっくに目を覚ましていて椅子の上に腰掛けていた男の人を見つけると朝の挨拶をしました。目を擦りながらベッドから下りました。黒くてきれいな長い髪は寝ているうちに乱れてしまっていて、特に前髪がぼさぼさとしていました。その様を見て男の人―旅人さんは腰を上げ、鏡台をゆずりました。申し訳なさそうな笑顔を見せて、女の人は鏡の前に座り、くしを使って髪を整えていきました。
「あなたが本当に優しい方で、安心して寝ることができました。無理につれてきてもらった以上、正直、どうされても文句は言うまいと覚悟していたのですけど」
鏡越しに女の人が旅人さんに話しかけます。旅人さんは苦笑しました。
「それとも緊張しているのは私よりもあなたの方? そんな顔してますよ」
はっきり言ってそのとおりでした。この旅人さんは何年も前からずっと一人で旅をしていて、他人、ましてや女の人と宿を共にしたことはありません。できれば連れて行きたくない。前の町でもそう考えて適当に口約束をしたのですが、この女の人がとても聡明で自分の真意を理解し見抜いていたため仕方なしに同行させることにしたのです。
自分に不利益になりうることは避けて通る、これは旅人にとって鉄則でした。が、それと同時に自らの立てた誓いに従順であることも旅人としての不文律でした。それができないのならば、一人で世界を旅して回ることなど出来ません。
それにしてもこの女の人はとてもきれいな人でした。整った顔立ちに豊かな胸、出会った時は白いローブに隠されていましたが、すらっと長く伸びた手足。貴族や富豪の家系に生まれたわけではないのに身体の芯からにじみ出ている気品。ただ、心からの笑顔を見せたのが、出発の時の一度しかなかったことが気になります。
そうこうしているうちに女の人も髪の手入れを終え、すっぽりと自前の白いローブを羽織りました。旅人さんはとっくに身支度が出来ています。二人そろって部屋を出て、町へと出て行きました。
この町も砂漠の中のオアシスです。砂漠を行きかう人々が立ち寄るので他の町と同じようにとても賑わっていました。前の町が例外なのでしょう。この砂漠は本当に大きくて、町の人に話を聞くと次の町も、そしてまた次の町もまだ砂漠の中にあるとのことでした。一行が二名になったのでお水と食べ物の用意を怠ることはできません。宿で聞いた市場に向かいます。
「おう、旦那。それにきれいな奥方さん。どうよ、何か買っていかねえか?」
旅人さんがふと目をやった商品に気を惹かれてわずかに足を止めたその瞬間に露店の店主が声をかけます。その品物はこの砂漠の中では珍しいものでした。魚の干物です。塩漬けもありました。
「どうだい、珍しいだろ。この辺じゃ採れない、魚ってやつだ。俺も生きたヤツを見たこたぁねぇ。なんでも水があふれかえるようなところじゃなきゃやっていけないんだとよ。ゼイタクなこと言うじゃねえかこんな手足も無いもんがよ!」
確かに珍しい、と旅人さんが答えます。旅人さんにとって魚は大して珍しいものではありませんでしたが、こんなところで目にしたことに驚いたのです。それも一尾や二尾ではありません。種類も数もそこそこありました。
「…? 奥方さんはめずらしくねぇんですかい? ああ、そうか夫婦で旅をしてるわけか。奥方さんは魚のいるところの生まれかい?」
「え、…いえ、本の挿絵で見たことがあるくらい…ですが」
「へぇ、魚の絵がある本…。もしかして結構いいとこのお嬢さんかい? あ、いや詮索しすぎて悪かった。ともかくどうだい、結構旨いって評判だ」
旅人さんはこんなところで魚を見られた記念に、ということで干物を六尾買って行くことにしました。食べると必要以上に喉が渇きそうなので塩漬けは買いませんでした。ところで魚が商品として並んでいるということは河や海が近づいているのかもしれません。
「海? 河? ああ、水が信じられねぇほどあるところだな。この魚を売ってくれた行商人は西の方から来てるらしい。そっちに行けばきっと着くと思うぜ? まあまだしばらく砂の海の中だけどよ。…お? 砂の海? こりゃ良い言い回しだと思わねぇかい、旦那」
上機嫌な店主に代金を支払う際にちらっと女の人の方を見ました。彼女の顔色は少し優れなさそうでした。
その日の買い物も終え、やっぱり旅人さんは酒場に出かけました。女の人は少し気分が優れないと言って宿で待っています。宿の主人に教えてもらった酒場に着くと、中からはとても賑やかな活気に溢れた気配が流れてきます。酒場はやはりこうでなければ、と呟いて中に入っていきました。
一人席について一杯始めました。ここのお酒も結構強いものでした。決して悪いお酒ではなかったのですが、前の町で出会ったお酒の印象がとても良かったので、残念ながら次点といった感じです。
お酒を片手に考え事を始めました。五日前、前の町の酒場で彼女と話していたことを思い出していました。
「この町も、とてもいい町だったんです。少なくとも私はそう思っていました。母が亡くなってからも、父と一緒に、決して裕福ではなかったとしても幸せに暮らしてきました。でもその父も今年亡くなりまして… 昼間の様な物騒な事も多く…」
女の人の声の調子も悲しそうになっていきます。
「この町は私が生まれ、父と母と一緒に暮らしてきた大好きだった町です。でも、この町にはもう身寄りもありません。…お気づきでしょう? 私、町の人から避けられているんです。私から見ればいわれの無い理由なのですが、それも長い年月で凝り固まってしまった」
旅人さんは黙って聴いていました。
「この町が大好きだったんです。だからこそ、今ここに居続けることが苦しい。お願いです。連れて行っていただけないでしょうか」
この話の全てを鵜呑みにしたわけではありません。ですが少なくとも全てが嘘という事は感じられませんでした。彼女が町の人から避けられているというのは真実だったでしょう。両親を亡くし、決して裕福で無いということも事実だったでしょう。それはもしかしたらかつては優雅な貴族や富豪といった身分だった一家が没落したことが原因で、かつての身分差が町の人々を彼女から遠ざけていることになっているのかもしれません。彼女自身が持つ気品、身寄りがないと言うのもそう言うことであるとすれば納得がいきます。ですがあの日以来この件に関して彼女が口を閉ざしている以上、確かめる手段はありません。そして今日、旅人さんが彼女に対して決定的に違和感を覚えたことがありました。
それは市場でのこと。本当にこの砂漠出身であるのならば魚を見たことが無いものが大半のはずです。ですが彼女は魚を目にしても驚くこともなく、さも当然かのようにしていました。挿絵で魚の存在を知っていたとしても、あの土地で生まれ育ってきた者が店に並んでいた大きな魚を見たことがあるとは思えません。そう言えば前の町での爆発事故があった時も動じませんでした。
ですが彼女に驚くという感情が無いのかと言えばそうではなく、旅人さんの持つ道具の数々に興味を示したり、初めての野営の時に旅人さんの知恵を聞かされた時に感心したりと、人並みの好奇心も持ち合わせている様子がありました。そう考えると、初めて見た物ではなかった、そう考えるのが自然です。
……
なにやら厄介なことに首を突っ込んだかもしれない、そんな感じのため息をついて旅人さんは片手に持っていたグラスを空にしました。