第三話
夜になりました。町中は静かなものでした。旅人さんは家々からもれる灯りを頼りに街路を行きます。宿屋で教えてもらった酒場を探して歩いている途中、壁に焦げたような跡の在る建物をみつけました。昼間あった大きな音がした方角とは違うので、旅人さんがこの町に着く以前に何かがあった物だと知れました。今日あったあの大きな音はおそらく何かが爆発した音でしょう。こんな物騒な町にはあまり居られないな、と呟きました。折角苦労してやってきたのですが、残念です。
酒場に着きました。お昼に出会った女の人が来なかったとしても旅人さんは構いませんでした。旅人さんはお酒に目が無いと言うことではありませんでしたが、そこそこ飲める人でしたのでどの町に行っても大抵酒場に行っていました。おいしいお酒があればそれをいくつか買うこともありました。よその町で高く売れるかもしれません。そう言うこともあってもともと酒場に行く予定だったのです。
お店の中はがらんとしていました。それもそのはずです。以前から物騒になっているような町で、まさに今日の昼間に大きな事件があったのなら、そんな日の夜に外を出歩くような人はあまり居ないのが普通です。今晩はお店を閉めてしまっていてもおかしくないでしょう。
お店のテーブルに座って、お店の人のおすすめのお酒と食べ物を頼みました。お酒は小さなコップに入れられてきました。飲む前に臭いをかぐと、むせ返りそうなほど濃厚なアルコールの香りがしました。それとともにどこか甘く、今までかいだことの無い独特なのに嫌味のない香りが鼻の中に広がります。お酒に弱い人でしたら飲む前から酔っ払ってしまいそうです。
少しだけ口に含みました。先ほどの香りが一気に体中に広がります。喉を通っただけなのに全身が熱くなるような感じがしました。とても強いお酒です。ですがただ強いだけでなくその風味は格別でした。ほんの少しだけだったのに、吸い込む空気までもその余韻をいつまでも残します。旅人さんはこのお酒を気に入りました。
何からできるお酒かと聞くと、この辺りだけに生える肉厚の葉を持つ植物から取れるお酒だとのことです。そして飲み方が違うと言われました。なんでもこの小さなコップに入った分を一口に飲み下してしまうのだそうです。お酒に添えられた果物をかじり、口に含んだその果汁とともにいただくとなおおいしいのだそうです。
折角のよいお酒なのにもったいないと思いましたが試しにやってみました。途端に喉の奥から全身が熱くなり、吐く息も吸う息も先ほどのたまらない風味に満たされました。まるで自分の体すべてがお酒になったかのようでした。一緒に口にした果汁の爽やかさが頭までお酒に溶けてしまいそうな感覚を覚ましてくれて、次を催促するかのようでした。旅人さんはこのお酒を本当に気に入りました。
丁度その時お店の扉が開き、白い服の人が入ってきました。旅人さんはお酒を堪能して、次は一緒に出された料理に手をつけようとしていたところで、誰かが入ってきたことに気付いていませんでした。
「どうですか? そのお酒、父も好きだったんです」
声をかけられた方に顔を向けると、そこにはお昼に出会った女の人が立っていました。向かいの席を良いか、と聞かれました。お酒のこともあって気分の良くなっていた旅人さんは快く、どうぞ、と招きました。
「その腸詰の焼き物、とてもおいしいんですよ。この町ではあまり家畜をお肉として使わないので少し貴重な保存食でもあるんです。他にもこのチーズ。ちょっと変わった臭いがすると思いますけど、口溶けが良くって」
この町の育ちなのでしょう。お店の人の代わりに色々と教えてくれました。これだけ気立てもよくて器量も良い娘さんだというのに、お店の人はあまりこの女の人に関わりあいたくないような感じで、遠くから様子を見ているだけでした。そのことに旅人さんはいち早く気がついていましたが特に聞くことをしませんでした。
この町はどうだったかとか、これまでの旅の疲れは取れたかとか、一通りにこやかに話をしたあとです。女の人の表情が少しかげりました。
「それから… 昼間のお話しの続きなのですが…」
前の晩に飲んだお酒も一晩良く眠ったことで抜けました。悪酔いの無い本当に良いお酒です。気に入った旅人さんはしっかり何本か分けてもらって、旅荷物の中に入れました。車の整備をして、特に悪い箇所が無いことも確認しました。食料もあります。お水もあります。燃料もたくさん用意しました。
西の方角にある次の町まで二日もあれば行けるとのことでした。用意した燃料もお水も、前の町からここに来るまでに準備した量よりもたくさんあります。一人であれば何かトラブルがあったとしても十分な量です。明日問題なく出発する予定です。余った時間は市場に行ったり、町中を歩いたり、町の人と話をしたりして過ごしました。この日は昨日のような出来事は起こらず、穏やかでした。
出発の日です。旅人さんはその日の朝早くに宿屋を出ました。まだ真っ暗です。宿屋のご主人たちにはその前の夜にあらかじめ断っていましたので、鍵をカウンターにおいて静かに扉を開けて外に出て行きました。お金ももう前の晩に支払いを済ませてしまっています。わずかな荷物を入れた袋を持って、乗ってきた車の方へ向かいます。だんだんとあたりが明るくなってきた頃、町の外れに止めてある車のところに着きました。
「やっぱり、この時間でしたわね」
白いローブを着た女の人が車の傍に立っていました。胸のところの青い宝石のついたブローチが印象的です。明け方は非常に冷え込むため、ローブのフードをすっぽりと被っていましたが、その奥の黒い髪と、とてもきれいなのにどこか悲しげな顔をしたその人は二日前に出会ったあの女の人でした。
「私があなただったとしても、きっと同じことをしたと思います。ですから、そのようにしてみました」
旅人さんは困ったように頭をかきました。少しずつ少しずつ東の空が赤くなっていきます。
「約束は守りました。連れて行ってください」
大きくため息をついて旅人さんは運転席のドアを開けて乗り込みます。女の人は車の外で背筋を伸ばして立ったままです。車に乗り込んだ旅人さんはドアを閉めましたが、すぐにエンジンをかけませんでした。少し時間が経ちました。
不意に助手席のドアが開きました。丁度お日様が地平線から顔を出しました。遮るものがないので辺りが一気に明るくなりました。車と女の人の影が、これから一緒に行くほうに向けて長く伸びます。
女の人はフードを下ろし、無言のまま頭を下げて、車に乗りました。その時見せた彼女の笑顔はお日様の光もあってか、とても明るく、あたたかくなるような笑顔でした。