9 トルン街道の狼少女
「ねぇそこの旅人さん、お薬はいりませんか?」
突然声をかけられた旅人・・・植物学者のマルテロは、思わずその声のもとに目を向け、そして顔をひきつらせた。
朝もやの中、十歳ほどのかわいらしい少女が立っていた。肩まで伸びた美しい黒髪をなびかせながら、にこにこと笑っている。
しかし、その服装はぼろぼろだ。泥にまみれて薄汚く、ところどころ切り裂かれたように破け、血の染みと思しき黒い汚れが広がっている。
そして何よりも目を引くのは・・・その少女の赤い瞳だ。怪しく輝くその瞳は、どう見ても尋常のものではない。
(・・・魔物か)
マルテロはそう結論付け、ごくりと唾を飲み込んだ。じわりと汗がにじむ。緩み、ずり落ちそうになる丸眼鏡を慌てて押し上げる。
ここは2つの地方都市、ニアスとキーリスをつなぐトルン街道。整備が行き届いているとは言い難い、少し広いあぜ道程度の田舎道だ。この場所は両都市からかなり離れており、人通りもそれほど多くない。
こんな街道の道端に、年端もいかぬ少女が一人で立っているなどおかしな事なのだ。故に、マルテロはこの少女を、魔物が化けているものと結論付けた。
「怪我に良く効くレカン草があります。採れたてで、高品質ですよ!他にもカガ花の毒消し、マヌム苔で作った胃薬もあります!」
少女は赤い瞳を爛々と輝かせ、不気味に笑いながらマルテロに近づく。
「ひっ・・・!」
マルテロは小さく悲鳴を上げたが、気を取り直し、少女に背を向け脱兎のごとく駆けだした。
「あっ・・・ちょっと!?」
冗談じゃない、とマルテロは思った。人に化けられるほどの力を持った魔物が危険でないはずがない。彼は短剣を腰にぶら下げているが、これは飾りのようなものだ。戦闘経験のほとんどない彼が、正体不明の魔物と戦って勝てる見込みは万に一つも無かった。
(護衛料をケチるんじゃなかった・・・!!)
彼は心底後悔した。
「あははっ!ちょっと旅人さん!逃げないでくださいよー!」
赤い瞳の魔物はマルテロを走って追いかけているようだ。しかし、少女と成人男性では歴然とした体格差がある。その距離はだんだんと離れていくが・・・。
「・・・こうなればしょうがないっ!奥の手です!」
魔物が不意に叫んだ。
「出てきなさい・・・アオッ!!その人を止めて!!」
次の瞬間、マルテロの目の前に大きな青紫の狼が飛び出し、道をふさいだ!
(これは・・・青毛狼!?サジャ大山中腹に住む魔物ではないか!?どうしてこんな所に!?)
思わずマルテロは足を止める!いや・・・止めようとした!止めようとして地面を踏みしめたはずの彼の右足は、朝露にぬれた草の上を滑り、そして彼は・・・地面に対し強かに後頭部を打ちつけた!
ゴン!!
鈍い音が響き、マルテロは動きを止めた。
「・・・あら、あら、あら・・・。お客様に怪我をさせる!これは薬師的には、大きな失点と言えます!」
赤い瞳の少女・・・ラトはにこにこと笑いながらマルテロに近づき、てきぱきと傷の有無を確認する。
「・・・うん、目立った外傷はありませんね。おそらく気を失っただけでしょう。あはは、良かった良かった!」
そう言いながら、ラトは念の為、のびているマルテロの後頭部に傷を癒すレカン草をあてた。さらに薄汚れたノートを切り取ってお詫びの言葉を書き、数枚のレカン草と共にマルテロの手に握らせる。
「・・・しかし、薬師としてやっていくのは思った以上に大変ですね!まず第一に、お客様とまともにお話ができないとは」
笑顔でそう言うラトを見て、青毛狼のアオは尻尾を下げる。
「・・・アオ、あなたのせいじゃないんだから、元気を出して」
ラトはアオ・・・彼女がそう名付けた、包帯をまかれた青毛狼にやさしくほほ笑みかけた。この青毛狼は、もとはラトに襲いかかって来た魔物ではあるが、どういうわけかラトに服従するしもべとなっていた。ラトにはよくわからない狼的な心境の変化があったらしい。移動の際にはラトを背に乗せ、野兎を見つけては狩って食料を調達し・・・今や彼は、ラトの薬草探索には欠かせない大事な相棒である。
そんなアオという機動力を得たおかげで、ラトの薬草探索はすこぶる順調に進んでいた。サジャ大山を駆けまわり、レカン草の群生地をいくつか見つけた他、珍しい薬草も数種類採取していた。
しかし、ラトは薬師である。採取した薬草、調合した薬を客に売って初めて、薬師としての活動が完了する、というのがラトの理解である。この「客に薬を売る」という行為が、ラトにとっては非常に高い壁となっていた。
いくつか持ってきていた着替えもすぐに汚れ、彼女の服装はぼろぼろである。それに加え、“邪眼”として怖れられる赤い瞳を持ったラトは、マルテロの態度を見てわかるとおり、まるで人間扱いをしてもらえなかった。キーリスの市場で薬草を売る為、町に入ろうとした彼女は、怯えた衛兵に槍をつきつけられ、追い返されていた。だから今度は街道を行く旅人に向けた商売をしようと声をかけていたのだが・・・前日から数えても、成功した商談は一つもない。ラトの姿を見た旅人は、皆彼女のことを魔物と勘違いし、逃げていく。今回は無理やり足を止めようとアオを使ってみたが・・・失敗に終わった。
「・・・全く困ったものね。さてさて、どうしようかしら?」
にこにこ笑いながら、ラトは腕を組んで考え始めた。
・・・その時だった。
「グルル・・・?」
アオは朝もやのなか、駆けてくる2つの足音を感知した。かなり慌てているらしく、必死で走っている。そして・・・血の匂いがする。
危険を察知したアオは、のびているマルテロを目立たぬよう道端に蹴り転がした後、ラトの服をくわえて草むらに引きずり込み、身を隠した。
「え?なになに?どうしたのアオ?」
能天気にとまどうラトの目の前を、二人の男が走り去って行った。フードで顔を隠しているが、清潔な身なりをしていることがわかる。ラトのように野外で寝泊りをしているような連中では無い。立派な剣を腰に下げており、その体のところどころに・・・返り血と思われる赤い染みができている。
男達が走り去って行ったのを見届けてから、ラトは草むらから這いだし、服についた葉をはらった。
「・・・何やら、事件の匂いがしますね!刃傷沙汰とかいうやつかも!」
ラトは赤い瞳を爛々と輝かせながら嬉しそうに言って、ひらりとアオにまたがった。
「・・・行くよ、アオ!もし怪我人がいたら、助けなくてはなりません。なぜなら私は、薬師だからです!」
ラトをのせたアオは、走り去った二人の男とは反対の方向に向けて、風のように駆けて行った。ほどなくして、ラト達は腹から血を流して倒れている無精ひげの男・・・カガラを見つけたのだった。