6 薬師ラトの初仕事
太陽が沈み始め、空は美しい赤紫色。薄く伸びる雲が、沈む日の光を受けてオレンジに輝いている。ゼリ村はサジャ大山東側の麓に位置しており、つまり山の影のせいで夕方暗くなるのが早い。既に村内には篝火が焚かれ、家々を明るく照らしていた。魔物や邪霊など、不吉な物を遠ざけるために、篝火は欠かせない。
村の中央に存在する集会用の広場では、一人の男に邪気払いの儀式が行われていた。その男の名は、レイリー。村に巣くう邪眼の魔物を滅した英雄である。村の魔術師であるダス爺が良く通る声で呪文を唱え続ける。
『おぉ、偉大なる祖霊達よ。そのお力で、我らが英雄レイリーを守りたまえ。かの邪眼の魔物の呪いを遠ざけたまえ。我らが村を、災いから守りたまえ・・・。』
レイリーは目を瞑り、必死で祖霊達に祈りを捧げていた。その日に焼けた顔には大粒の汗がにじみ、篝火に照らされゆらゆらと輝いている。
彼の横には妻のサリュ、そして娘のレイハが彼と同様に跪き、祈りを捧げていた。
この儀式はレイリーが村に帰って来てから、ずっと続いている。春と秋のお祭りでも、ここまで長くダス爺の儀式が続く事はない。
「・・・あれほどの山奥だ。アレはもう、戻っては来れまい。加えてあの場所は青毛狼の縄張り。いかに邪眼と言えど、他の魔物どもに襲われれば助かるまい。・・・邪眼は滅した、そう考えて良いと思う。」
昼過ぎに村に帰ってきた英雄レイリーの言葉を聞き、彼を出迎えた村人たちは喜び、安堵のあまり歓声をあげ涙を流した。今回の“邪眼殺し”の作戦は、村の大人たちが一丸となって考えたものだ。村にいついた魔物を退治する。しかし、魔物の呪いから逃れるためには、直接手を下すことは絶対に避けなければならない。村を守るために彼らは必死で考えた。聞きかじりの魔術の知識、そして古来から村に伝わる伝承を集め、さらにはそこに自分達の妄想を多分に加え入れたうえで練り上げたのが、今回の作戦だった。
「あなた・・・ありがとう。ありがとう・・・!」
サリュは、夫レイリーを抱きしめた。彼らの家の隣に住んでいた人型の魔物は、もういない。娘のレイハはあの魔物から目を付けられていた。このままではいずれ不幸が彼女を襲っただろう。魔物に魅入られ操られていた、あの薬師フィドのように。しかし、もうその心配はないのだ。サリュは安堵し、心から涙を流した。
「良かったわね、レイハ・・・。これであなたも、もう怖い思いをしなくても済むのだから。」
「・・・はい、お母さん。」
顔を涙でくしゃくしゃにしている母に、レイハは優しくほほ笑みかけた。しかしレイハは・・・この村の中ではレイハだけが、邪眼の魔物・・・ラトに対するゼリ村の仕打ちに疑問を抱いていた。
(・・・みんな、本当にこれで良かったって、思ってるのかな・・・?)
レイハは一人、皆に気付かれぬようため息を吐く。レイハとラトは同性の同い年であり、その家は隣同士だ。ラトの父、フィドはその昔王都から越してきた変わり者だと聞いていたが、レイハが物心つく前にはゼリ村に住みついていた。両親が仕事で家を空けている時、レイハは他の子どもたちの所ではなく、フィドの家に良く遊びに行っていた。そのきっかけが何だったのか、今となっては覚えていないが・・・フィドはおもしろいお話をたくさん知っていた。伝説の英雄の話や、恐ろしい魔王の話、それから王都で出会った不思議な人々の話・・・それを聞きたくてフィドの家に通ううちに、自然とラトとも仲良くなった。幼いレイハにとって、ラトの赤い瞳は恐ろしいものでも不吉なものでもなかった。レイハがフィドの家に遊びに行っている事は両親にすぐにばれてかなり怒られたが、何故怒られなければならないのか、レイハにはわからなかったし、不満だった。だから、両親の目を盗んではフィドの家に通い、ラトと一緒に遊んでいたのだ。
もちろん最近・・・特にフィドが亡くなってからのラトの様子には、レイハも少し恐ろしさを感じていた。殴られてもにやにやと笑うその顔、時折妖しく輝くその瞳。そして何より、ラトがもともと持っていた、異常な回復力。普通の人間でないのは間違いない。それはレイハも感じていた。・・・しかしだからと言って、他の村人のようにラトを攻撃する気にもなれなかった。だって自分はラトの友だちなんだから・・・。レイハはそう思っていた。
そんなことを村人の前で言おうものなら、今度は自分が何をされるかわかったものではない。特に父の弟子、シジムは危険だ。下手な事を言えば、自分が刺されかねない。まだ10歳に満たないレイハに、命の危険を冒してまで友だちを守れというのは、酷な話だろう。結局レイハにできたのは、たまにラトの家に様子を見に行き、食べ物を差し入れることくらいだったのだ。
「・・・これで邪気払いの儀式は終わりじゃ。」
ダス爺が厳かにそう宣言した。
「英雄レイリーよ、もはやお主には、そしてお主の家族、このゼリ村全ての住民に対して、あの邪眼の呪いが届くことはない。」
それを聞きレイリーはほっと息を吐き、周りで儀式の様子を見つめていた村人たちも歓声をあげた。ダス爺は今回の計画を、魔術的な知識でもって支えた功労者だ。彼の言葉を疑う者は、このゼリ村には存在しない。
「ありがとうございます!」
レイリーは深々と頭を下げた。
「それはワシが・・・いや、村人全員がお主に言うべき言葉じゃ。・・・よくぞ、危険を顧みず、邪眼を滅ぼしてくれた・・・礼を言うぞ、レイリー!」
ダス爺は涙を堪えながら、そう言った。周りの村人たちも、次々と感謝の言葉をレイリーに告げる。レイリーとサリュは、感極まって泣き始めた。レイハは一人、表情を隠してうつむいていた。・・・胸が痛い。
「念の為じゃが、レイリーよ。これから3日間は山に入らぬ方が良いかもしれん。邪眼の怨念が漂っておる可能性があるでな。身を清め、祖霊達に祈りを捧げる事を、忘れてはならんぞ。」
「はい・・・わかりました。」
ダス爺の言葉に頷き、深く頭を下げてから、レイリーたちは家に向けて歩き出した。
「・・・オレは、成し遂げたぞ、サリュ・・・。」
「はい・・・。」
「これで、この村は・・・サリュも、レイハも救われるんだ・・・。」
「えぇ・・・。」
両親の瞳から、涙がこぼれおちる。
「・・・・・・。」
レイハは何も言わず、両親の後ろをついて歩いた。ラトに対する申し訳なさと、自分には何もやりようがなかったという言い訳が、頭の中をぐるぐるとまわっていた。自分は、友だちを見捨てた酷い人間だ。でも現実的な話として、両親を含めた他の村人たちと敵対してラトのために戦うなんて、できるわけがない。だけど、私は・・・。
レイハは、幼い少女が死んで喜ぶ両親のことを激しく軽蔑し、同時に何の葛藤にも悩まされない彼らの事を羨ましくも思った。
ガララ・・・。
レイリーは自宅に帰ってきた。引き戸を開け、家に入る。その後ろに家族2人が続く。
「今帰ったぞ。」
これは誰かに向けた言葉ではない。帰宅した時の癖のようなものだ。
レイリーの両親は早くに他界しており、兄弟達は独立し、別の家に住んでいる。そしてゼリ村にしては珍しいことに、子どももレイハ一人しかいなかった。つまり、彼の家の中には、今は誰もいないはずだった。
「お帰りなさい!」
かわいらしい少女の声が響いた。
レイリー達三人は、はっと息を止めた。心臓が激しく脈打つ。馬鹿な。この声は・・・。
恐る恐る声がした方向を見遣る。薄暗い室内に外から篝火の光が入りこみ、黒髪の少女の姿を照らしていた。赤い瞳が爛々と輝き、まっすぐにレイリーを見つめている。まるで地獄から這い出してきたかのように、その服は薄汚れ、ところどころ切り裂かれ、血まみれになっている。
「ひっ・・・!」
レイハの母、サリュは恐怖のあまり腰が抜け、その場に崩れ落ちた。がたがたと震え、まともに動くことができない。
レイハは驚きのあまり、声も出せずにただラトを見つめていた。
「お、お前さん・・・どうやって、どうやってここに・・・っ!」
レイリーは震える体から何とか声を絞り出した。
「レイハのお父さんはどうやってここに戻ってきましたか?目印をたどって来たのでしょう?私も同じです。山を登る途中、時々小枝を折っていましたよね。ちゃんと見てましたよ。」
「ま・・・魔物・・・!」
「魔物にも襲われましたが、何とか逃げられました!私は丈夫なので。」
「違う!こ、この村には今、いつもより強力なダス爺の魔物避けのまじないがかけられている!なんでお前さんが入ってこれるのだ!!」
レイリーは顔を蒼くしながら叫んだ。
「・・・私が魔物ではないからでは?」
ラトはにこにこと笑いながら、小首をかしげてかわいらしく言った。
「そんなことよりも、です。」
ラトは上機嫌で大きなかばんの中からいくつかの小袋をとりだした。ツンと尖った匂いが部屋に漂う。レカン草が詰められているのだ。
「見てください!この通り、ちゃんと薬草を集めてきました。初仕事にしては上出来だと思いませんか?」
ラトは小袋を持って、レイリーに近づいた。
「お代をいただきたい。」
「え・・・。」
「お代をいただきたいのですが。薬草と食べ物を交換する、そういう約束だったはずでは?」
にこにこしながらラトはレイリーににじり寄る。
「く、来るな・・・!」
「え?」
死んだはずの魔物が、目の前に戻ってきた。まじないも何も通用しない。・・・レイリーは恐怖に捕らわれ、叫んだ。
「こっちに来るな化け物――――っ!!」
とっさに腰のナイフを構え、ラトの胸に突き刺す。
「あ・・・う・・・」
邪眼の魔物は床に倒れる。血があふれだし、赤眼鹿の毛皮で作った絨毯を黒くそめる。
「はっ・・・はっ・・・!」
レイリーはナイフを構えたままの姿勢で、小刻みに震えていた。
「お・・・お父さん!!なんてことを・・・!!」
レイハは絶叫した。
「し・・・心配するな、レイハ。大丈夫・・・だ、大丈夫だ。」
震えながら、ひきつった笑顔をレイハに向け、レイリーは言った。
「その通り、大丈夫です。私の事は何も心配いらないよ、レイハ。」
・・・ラトはそう言いながら血だまりの中から起き上がると、にっこりとレイハに笑いかけた。胸の刺し傷は、既にふさがっている。
「私は丈夫なんだ。」
カランと音をたてて、レイリーが握っていたナイフが床を転がった。目の前の常軌を逸した光景からくる恐怖に耐えきれず、村の英雄レイリーは泡を吹いて倒れていた。サリュは目を閉じ、必死で祖霊への祈りを捧げている。何も聞こえていないようだ。
「レイハのお父さん、気絶しちゃったね。」
ラトはにこにこしながら、しかし眉を下げ目を細め、困惑している。
「困ったな。これじゃお代がもらえないや。お代をもらってこそのお仕事でしょ?そう思わない?レイハ」
突然話しかけられ、レイハはびくりと体を震わせた。
「お・・・お代・・・。」
「そう、お代!さっきも言ったでしょ?私は食べ物と交換する約束で、この薬草を採ってきたの。」
「食べ物・・・。」
「そう、食べ物よ!ねぇレイハ、何か食べるものないかなぁ。」
レイハは震えながら・・・無言で台所に歩いていく。ラトはそれに続く。そこにはたくさんの芋餅と、赤眼鹿の燻製。
「わぁ、凄いごちそう!今日って何かのお祝いの日だっけ?」
これは邪眼の魔物を倒し、無事に帰って来た父を祝うためのごちそうだ。そんなこと、ラトに言える筈もないが。
ラトはそれらを薬草が入っているのとは違う小袋に詰め、大事そうに抱えあげ、嬉しそうに笑った。
「えへへ・・・これで私の初仕事は完了だね!」
小袋を大きなかばんに押し込み、それを背負ってからラトは玄関にむけて歩き出した。
「ラ・・・ラト!」
レイハはラトを呼びとめる。
「あ・・・あなたは、その、これからどうするの?」
「村を出る。」
ラトはにこにこ笑いながら答えた。
「村を出て、色んなことを勉強して、立派な薬師になるんだ!お父さんみたいな!・・・でもまぁ、少し探し物もあるから、それが見つかるまではこの近くにはいるつもりかな。」
ラトの探し物とは、レスティア草である。父は結局、ラトにレスティア草のありかを教える前に死んでしまった。それを自力で見つけ出す。まずはこれが、偉大な薬師である父に近づくための第一歩なのだと、ラトは決めていた。
「まぁ、この村に戻ってくる事は、もうないと思うけどね。」
「でっでも!危ないよ!村から出たら、魔物がいっぱいいるし、ラトはまだ子どもなのに!」
「・・・危ない?」
ラトは血まみれになった赤眼鹿の絨毯を一瞥した後、レイハをじっと見つめた。
そして満面の笑顔で、赤い瞳を大きく見開き、心の底から愉快そうに呟いた。
「・・・あなた、冗談がお上手ね。」
・・・レイハはもう、何も言えなかった。立っていることもできず、床に座り込み、震えながらラトの赤い瞳を見上げていた。ラトはそんなレイハを気にも留めず、かばんを背負い直し、玄関の引き戸に手をかけた。
「私はこの村に戻ってくる気はないけど・・・もし、今度どこかでまた会う事があれば・・・
その時、あなたは私のお客様です。どうぞよろしく!」
ラトは最後にそう言い残し、レイハの家を去っていった。既に赤紫色の空は濃紺に塗りつぶされ、星々が瞬いている。ラトは村人たちに姿を見咎められることなく、ゼリ村を後にした。
レイハはへたり込んだまま、ラトが占めた玄関の引き戸をずっと見つめていた。涙があふれて止まらない。
「ごめんね。ごめん・・・ラト、ごめんなさい・・・。」
もはや届く事のない謝罪の言葉を、レイハはずっと、うわ言のように繰り返していた。