5 薬師ラトの誕生
「グルルル・・・。」
よだれをたらしながら、青紫の狼・・・3匹の“青毛狼”たちはラトを取り囲んだ。
「な・・・なんで!?ここにいれば、魔物はやってこないんじゃ・・・!?」
レイリーは確かにそう言っていた。
「・・・そうだ!鈴・・・!」
ラトは背中のかばんに結び付けていた魔よけの鈴を振り、必死で音を鳴らす。
チリンチリン・・・涼しげな音が鳴る。しかし、狼たちは聞きなれない音に一度首を傾げたのち、少しも堪えた様子も無く、ヘラヘラと笑うような表情でラトを嘲った。
「・・・どうして?」
ラトの頭の中を、悲しみと絶望が埋め尽くしていく。“もう一つの可能性”・・・レイリーが戻ってこない理由・・・それは・・・。
「アオオオッ!」
立ちつくすラトに、一匹の狼が跳びかかった。鋭い爪でラトの体を引き裂こうとする。ラトは間一髪体をそらし致命傷を避けたが、爪にかすった左腕からは血がにじんでいる。
「・・・・・・!」
ラトは思わず痛みで顔をしかめる。
ラトの左腕を傷つけた狼は楽しそうに笑いながら一度後ろに下がるが、それは彼らの攻撃がこれで終わったことを意味しない。今度は別の方向から狼が襲いかかり、ラトに新たな傷を作った。
青毛狼はサジャ大山で比較的良く見られる下位の魔物ではあるが、その知能は高い。必ず数匹で群れて行動し、獲物を見つけては集団で襲いかかり、嬲り、弱らせてから狩り殺すのだ。
「グアオオオッ!」
興奮した狼たちが、嬉しそうに吠える。
しかし、そんな状況にあるにも関わらず、ラトの頭を占めるのは、死への恐怖ではない。
裏切られたことに対する、悲しみだった。
(・・・そうか、やっぱり私、村から捨てられたんだよね。)
ラトは切り裂かれる痛みに耐えながら、そんなことを考えていた。レイリーはどこかで怪我をして戻ってこれないんじゃない。戻ってくる気がそもそもなかったのだ。魔物が近寄らないシーイの木、魔よけの鈴、そんなの嘘っぱちだ。道中ちらちらとラトを振り返っていたのは、ラトが遅れないように気遣っていたのではない。あわよくば、そのまま置いていこうとしていたのに、思いのほかラトが丈夫で、レイリーについていけてしまった。そういうことなんだろう。薬師になるか、村を出ていくかとレイリーは問うたが、どちらにせよ彼はラトを村から追い出すつもりだったのだ。レイリーはシジムからラトを守ったのではない。ラトからシジムを守ったのだ。村人たちはラトが呪いを使うと信じていて、怖れていた。だからおそらく、直接手だしするのは恐ろしかったのだ。なるべくラトが村から離れてから、魔物や野盗にでも殺されれば、村への祟りやら呪いやらが薄れると、そう考えたのだ。だからレイリーは直接ラトを刺し殺そうとしたシジムを止めたし、今回もこういう遠まわしな手段を用いた。
なんのことはない。レイリーもラトの邪眼を怖れていた村人の一人に過ぎなかったのだ。
ポロポロと、ラトの大きな赤い瞳から、涙がこぼれる。
狼たちはその様子を嘲笑いながら、攻撃の手を緩めない。
(レイハも、きっと皆と同じなんだろうな・・・)
自分に良くしてくれた、ただ一人の友だちだった、レイハ。幼いころから、二人で仲良く遊んできた。しかし、最近徐々に、ラトに対するレイハの態度に、怯えのようなものが見え隠れしていたことに、ラトは気付いていた。正確には、これまでは気付かないふりをしていた。
「ヒ・・・ヒヒ・・・」
ラトは笑った。体を切り裂かれる、そのあまりの痛みのために。
「ヒヒヒ・・・アハハハハ・・・」
ラトは笑った。心を切り刻む、その絶望による苦しみのために。
「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」
ラトは大笑いした。辛い時には笑わないといけない。だってそれは、大好きな父との約束だったから。
突然哄笑しはじめたラトに驚き、狼たちは一旦攻撃の手を止める。
そして気付く。狩りの興奮により見逃していた、ある異常な事実に。
・・・何故、この人間は倒れない?これほどまでに、爪で引き裂き、牙で噛み付いたというのに、何故平気な顔をして笑っている?
「ハハハハハハハハハハハハ・・・アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」
ほとんど叫ぶように笑い声をあげるラト。涙に濡れていたその赤い瞳は、次第に爛々と妖しい光を帯び始める。
そしてラトの中にあった何かが、壊れた。
「ハハ・・・アハハ、悲しい、悲しいね。悲しい?悲しいのかな?何で私は悲しいんだろう?」
ひとしきり笑い終えたのち、ラトは・・・黒髪の美しい少女は、その赤い瞳を輝かせながら、にこにこと一人つぶやいた。
「村の人たちに、いじわるされたから?レイハのお父さんに騙されたから?」
首をかしげる。
「なんでそんなことが、悲しかったんだろう?」
ラトには今や、本当にその理由がわからなかった。
ラトは瞳が赤いから、村人から信じてもらえなかった。
酷い嫌がらせ、迫害を受けて、今回は実際にそのせいで死にかけている。
・・・でも、だから何だというのだろうか?
「・・・あっ、そうか。私は薬師なんだもん、信用がないのは困るよね・・・」
薬師にとって信用がどれだけ大切なものか、それは尊敬する父が何度もラトに教えてくれたことだ。
「・・・でも、今さらしょうがないよね。今までは私が未熟だった。それだけの話。これからの課題だね!」
ラトはそう独り言をつぶやいてから、楽しそうに笑った。
実にすがすがしい気分だった。こんなに晴れ晴れとした気持ちになったのは、ラトの人生で初めてのことだ。
気持ちはとても前向き。体の傷もすっかり癒えて、万全の体調である。
・・・しかし次の瞬間、ラトの左腕に激しい痛みが走った。
青毛狼のうちの1匹が、痺れをきらして再び襲いかかってきたのだ。その狼の瞳にはもはやこれまでの嘲りの色は無い。わけのわからぬ、異常な存在への怯えが、そこにはあった。
「痛い。凄く痛い!」
ラトはにこにこと、笑いながら叫んだ。放っておけば、この狼はラトの左腕など簡単に食いちぎるだろう。ラトはとっさに腰につけていたナイフを抜き、青毛狼の脇腹へと突き刺した。
「ギャイン!!」
青毛狼は絶叫し、堪え切れずラトから距離をとる。怯えと怒りを込めた眼差しで、ラトを睨みつける。
「あぁ、痛い・・・痛かった。腕がちぎれるかと思った。」
にこにこと笑うラトの左腕の出血は既に止まり、傷がふさがり始めている。彼女は丈夫なのだ。
この異常な人間に対し、警戒した青毛狼たちはもはや攻撃をしかける意志を見せなかった。いや・・・ラトにナイフで脇腹を刺され、出血が続いている個体のみは攻撃の意志が未だ消えず、うなり声を上げ続けていたが・・・。
さすがに魔物とは言え、大きな傷を受けた状態で、すぐさま戦闘を継続できるほどの体力を、青毛狼は持ち合わせていなかった。
ラトはそんな狼たちを無視して、歩きだした。
「さて、行きますか!」
ラトは山を下り始めた。自分が仕事の途中であることを思い出したのだ。目指すは、ゼリ村。
「これは、私の初仕事なんだから。失敗するわけにはいかないよね。」
にこにこと、楽しそうに笑う。途中、木々の間から覗く青空を見上げ、立ち止り、つぶやいた。
「お父さん、見ててください!私は必ず、あなたのような立派な薬師になってみせます!」
気持ちの良い風が吹き、木々がざわざわと音を立てる。
「私はラト!薬師ラト・バイカス!」
誰に聞かせるわけでもなく、しかし誇らしげに自らの名前を叫んだ後、ラトは再び村に向かって歩き始めた。