18 クロという虜
六ツ腕熊はラトやアオ、爪猫のいる方向へ悠然と歩を進める。
ズシン、ズシン・・・。
一歩進むごとに山は震え、小石がころころと斜面を転がって行った。
ラトは爛々と輝く赤い瞳で、じっと六ツ腕熊を見つめる。
遠くにいた時は逆光で気がつかなかったが、六ツ腕熊はいくつか傷を負っているようだった。とはいえ、命に関わるほどのものではなく・・・体の大きさを考えればかすり傷程度のものといっても差支えないだろう。
そして六ツ腕熊は何かをくわえていた。
夕日の逆光を浴びていたため、それが何であるかラトにもわかったのは、ずいぶんと六ツ腕熊が近づいてきた後であった。
それは人間だった。いや、正確には人間だったものだ。
片腕がもがれ、六ツ腕熊が歩くたびにぷらぷらと体を揺らすそれは、既に息絶えていた。
革鎧を身に付け、残った右腕には意味のわからぬ文字で刺青が彫ってある。
その逞しい肉付きから、その男はそれなりに強い兵士か何かだったのだろうとラトは思ったが、六ツ腕熊にとってはただのおやつ程度の存在であったらしい。
・・・その時、ラトのちょうど目の前まで歩いてきた六ツ腕熊が、ちらりとラトの隠れる大岩の方を見遣った。ラトは動じることなく、変わらずに六ツ腕熊を見つめ続けていた。
それ以上、六ツ腕熊がラトに何かする、ということは無かった。ラト如き小さな体では腹は膨れないと考えたか、疲れていたか、面倒くさかっただけか、はたまたそれら全てか・・・理由はともあれ、ラトを襲う事なく六ツ腕熊は彼女の横を通り過ぎた。
一方で、爪猫は遭遇してしまった圧倒的実力差のある強大な魔物を前にしばらく茫然自失としていたが、六ツ腕熊が眼前まで近づいてからようやく我にかえり、逃げれば良いものをあろうことか・・・威嚇を始めた。
「・・・フーーッ!フーーッ!」
毛を逆立てて必死で唸るが、すっかり腰がひけており、怯えを隠す事ができていない。
そんな爪猫を、六ツ腕熊は煩わしそうに横目で見遣ると・・・無造作に前足をふるった。
爪猫と六ツ腕熊には距離があり、その前足は爪猫に届くことはなかったのだが・・・そのはずなのだが、まるで殴られたかのように、爪猫は弾き飛ばされた。
あまりにも無造作にふるわれたその前足は、それだけで衝撃波を発生させ、爪猫を吹き飛ばしたのだ。
何度か小石まみれの斜面にその体を打ちつけ、しばらく転がってから、爪猫はじっと動かなくなった。
六ツ腕熊はもはや、爪猫からも興味を失ったようだった。
歩みを止めることなくラト達の眼前を横切り、その先の森へと姿を消した。
その巨体がミシミシと大木をなぎ倒しながら進む音も、しばらくすると聞こえなくなった。
ラトは六ツ腕熊が完全に姿を消したのを確認して、大岩の影から姿を現した。そしてまっさきに向かった先は・・・六ツ腕熊に踏まれることなく生き残っていた、マヤリス草である。
「良かったー!ぺしゃんこにされたらどうしようかと思ったよ!」
満面の笑顔で、ラトはそう言った。
実際、六ツ腕熊という脅威を目の前にしても、ラトが心配していたのは「この貴重な薬草を無事に採取できるかどうか」だけであった。
それ以外のことは、特に何も考えていなかった。
本当に、特に、何も。
「・・・さてと」
マヤリス草を採取した後、次にラトは爪猫のもとに向かった。
ここにきてようやくアオが大岩の影から這いだしてきて、おっかなびっくりラトについてきた。
爪猫は生きていた。
傷はあちこちに見られるが、命に別状はない。
しかし精神的なダメージ・・・六ツ腕熊に与えられた恐怖は未だ抜けきっておらず、ふるふると震え、立ち上がれずにいたらしい。
ラトは無遠慮・無警戒に爪猫に近づくと、鼻歌交じりにその傷の手当てを始めた。
「・・・フーーッ!」
爪猫は突然体を触られたことに怒り、素早く体を起こしてラトの左腕に噛みついた。
そのまま食いちぎってやろうと思っての行動であった。かなり強く噛みついた。
しかし、噛みちぎるまではいかなかった。
噛みついたその瞬間、爪猫はラトの赤い瞳と目があったのだ。
怪しく輝くその瞳を見て、爪猫は先程この少女と対峙した際に感じた怖れを、もう一度思い出していた。
怖れ・・・畏れと表す方が正しいかもしれない。
とにかく爪猫は、彼がこれまで生きてきた中で感じた事のない、表現しがたい何かをラトから感じ取ってしまった。それ以上ラトを傷つける事が出来なくなった。
ラトは左腕から激しく噴き出す己の血にも全く動じる事なく、爪猫に微笑んだ。
「・・・大丈夫、安心してください。私は薬師ラト。薬師というのは、怪我とか病気を治す人のことなんですよ。だから、あなたのことも治します!」
・・・ラトの左腕についた爪猫の牙の痕は瞬く間にふさがり、流血が止まる。
何度か手のひらを握り、左腕がまた問題なく動くようになったことを確認すると、ラトは爪猫の手当てを再開した。
「“薬師たるもの患者を見た目で判断してはいけない”と、父も申しておりました。だから、私は人間だろうが魔物だろうが、助けられるものは助けようと思っているのです。あなたから私達への敵意が消えていた以上、あなたは私の患者なのです!」
腰にまいたポーチからレカン草を取り出し、爪猫の傷跡にあて包帯をまきながら、ラトはにこにこと語った。
爪猫は茫然と、ラトがてきぱきと己の手当てをする様を眺めていた。
ふと横をみると、先程まで自分と戦っていた青毛狼がすぐそばでこちらを睨んでいる。
これ以上爪猫が妙な真似をしないよう、見張っているらしかった。
・・・この青毛狼も、“自分と同じ”なんだろう。
この人間の、美しく赤い瞳に魅了されてしまったのだろう。あがらえるはずがない。
そう、爪猫は思った。
爪猫の手当てがひと段落ついた時、すでに夕日は沈み、辺りはすっかり闇に覆われていた。
「・・・骨が折れていなくてよかったですね。簡単な手当だけですみました。あなたは魔物なのですから、傷の治りも早い。この程度であれば、明日にはもう完治していると思いますよ!」
ラトはにこにこと笑った。
そして、何か思いだしたらしく、頬に手をあてて悩み始めた。
「・・・お代はどうしよう?」
お代をもらうまでが薬師の仕事である。ところが、爪猫は魔物である。
対価として支払える物理的な何かを、持っているとは思えない。
少し考えた後、アオをちらりと見遣ったラトは、パン!と手を叩いて笑顔を深めた。
「それじゃあこうしましょう!アオと同じにしよう!」
そういうとラトは屈み、爪猫の目を覗きこんだ。
爛々と輝く美しい赤い瞳を間近で見て、爪猫は息をのむ。
「・・・クロ」
人間の少女は、何事かつぶやいた。爪猫は首をかしげた。
「あなたの名前は、今日からクロです。体が黒色だからクロです。わかりましたね?」
うむを言わさず少女はそう言った。
爪猫も、青毛狼と同じくらいには賢い魔物である。人間の言葉を完全に理解できているわけではないが、この少女が言う“クロ”とは、自分のことなのだろうということは、少女の身振り手振りからすぐにわかった。
「クロは、私に助けてもらいました。だから、クロも私を助けてください。・・・私に何か危ない事があれば、アオと一緒に戦って、私を守ってください。わかりましたね?」
少女はそう言うと、爪猫の・・・クロの頭をなでた。
クロはラトのこの言葉を、理解したわけではなかった。
しかし結果として、この約束は果たされる。
クロはもはや、ラトの虜となっていた。




