17 六ツ腕熊
“竜の爪痕”のふちを走り抜け、ラトとアオは見通しの開けた地点まで到達していた。周囲には小石が転がるなだらかな斜面が広がっている。
「あっマヤリス草だ!」
ラトは爪猫に追われているこの状況下にも関わらず薬草探しはやめていなかったようで、真っ赤な葉をした貴重な薬草に向かって呑気に走り出そうとしたが、さすがにそれはアオが服をくわえて止めた。
現在、ラトとアオ、そして爪猫は向かい合って対峙している。それなりに距離があるように見えるが、この程度なら魔物と呼ばれる二匹にとっては一息につめることが出来る。
にも関わらず、ラトのせいで生じた隙をついて爪猫が跳びかかってこなかったのは、長距離の追跡のため彼がかなり消耗しているためだ。
アオも疲れてはいるが、もともと青毛狼は爪猫に比べると持久力がある。加えて、周囲に木が生えていないこの環境は、立体的な軌道で攻撃する事を得意とする爪猫にとってはかなり不利な戦場だ。分があるのはアオである。
・・・とは言っても、爪猫の本気の一撃は馬鹿に出来ない。先程森の中では、余裕があったためか嬲るように戦っていた爪猫だが、怒りに染まった今の彼にそんな慢心は期待できないだろう。一撃たりともくらってはならない。
お互いの出方を警戒し、唸り牽制しあう二匹を横目に、ラトはにこにこ笑いながら手持無沙汰にしていた。一応、いつもの異常な回復力によりすっかり傷は癒え、万全の体調だ。しかし完全に不意をついた先程の鉈の一撃でも爪猫には大したダメージを与えられなかったことを鑑みるに、今この場において戦闘の素人である自分ができることは何もないのだろう、と考えていたのだ。
(だからさ、アオの邪魔はしないからさ、アオが戦っている間に、私は薬草を採っていれば良いんじゃないのかな?)
ラトは未だ呑気にそんなことを考えていたが、アオがいつもラトのためを思って行動してくれているのは良く分かっているので、大人しくしていた。あの青毛狼はお互い殺しあった仲にも関わらず、何故だか本当によくラトに尽くしてくれるのだ。
・・・それでも、目の前の爪猫という危険な魔物よりも、魔力回復薬の原料となるマヤリス草の方が気になってしょうがないラトは、もう一度ちらりとマヤリス草の方を見遣った。
そして、その先・・・マヤリス草の向こうから、こちらに悠然と歩を進める存在があることに、気付いた。
「・・・アオ」
アオは目の前の爪猫に気をとられ、また風上に立っていたことから、こちらに近づいてくるその存在に全く気付いていなかった。
ラトは静かにアオに近づき背中を優しく叩いて、注意を促した。
「・・・!!」
その存在に気付いたアオの行動は迅速だった。
すぐにラトをくわえてその場から跳び離れ、大きな岩陰に身を隠した。
その場から逃げださなかったのは、アレが本気を出せばどうあがいても逃げ切れないことが、あまりにもはっきりわかってしまったからだ。
ラトに心配させないよう気丈に振舞ってはいるが、その尻尾はすっかり腹の下にまるまり、全身はかすかに震えている。
これまで戦ってきた相手が突然血相を変えてその身を隠したのを見て怪訝な顔をした爪猫も、ワンテンポ遅れてその存在に気付いた。
人間が建てる小屋などに比べると遥かに大きく、“山のような”と形容するにふさわしい巨体。夕日を浴びて輝く、赤茶色い毛並み。大木の丸太のように太い手足。ちらりとのぞく鋭い牙。短い尾。
言うなれば、“熊のような”魔物である。
熊の“ような”と表現されるのは、その体を支える手足が、4対・・・計8本あるためだ。
まっとうな熊であるとは言い難く、故に熊の“ような”と評される。
この魔物の名は、“六ツ腕熊”。
戦いの際、1対2本の後ろ脚で立ちあがり、残りの3対6本の前足をひろげ相手を威嚇する様から、こう名付けられた強大な魔物である。
間違いなくこの辺り・・・サジャ大山中腹の南東地域において生態系の頂点に君臨する、“主”と呼ばれる存在である。
・・・ラトは岩陰からじっと六ツ腕熊を見つめていた。
彼女は、この魔物を見た事があった。これほどの存在が、複数体いるはずもなし。以前ラトが見た六ツ腕熊は、間違いなくこの個体である。
以前この魔物は、ラトが暮らしていたゼリ村に現れ、多くの村人達を喰い殺した。
その際にラト最愛の父、フィドも命を落とした。
即ちこの魔物は、ラトにとっては父の仇である。




