16 爪猫
あの日ラトが失ったもの はじまり
時は遡り、時期は夏の終わり。ラトがカガラとの待ち合わせに姿を見せ無くなった、その前日のことである。
夕日が空を赤く染める中、ラトはサジャ大山中腹に広がる大きな裂け目、通称“竜の爪痕”のふちを、青毛狼のアオの背に乗り、上機嫌で駆けていた。
“竜の爪痕”はラトがかつて暮らしていたゼリ村から南西にしばらく進むとたどり着く、大きな崖だ。覗いても底が見えないほど深く、ゼリ村や、ゼリ村から見て“竜の爪痕”の反対側に位置するオード村には、この崖はかつてサジャ大山に潜む竜が怒り、暴れた際に出来た爪痕なのだという伝承が残っていた。
またこの“竜の爪痕”は、わかりやすく2つの村に住む狩人たちの縄張りの境界線であると取り決めされていた。
まぁ、それぞれの村からこの裂け目まではかなり距離がある。魔物のあふれるサジャ大山だ。こんなところまで獲物を追ってくる命知らずの狩人などそういるはずもなく、そんな取り決めにほとんど意味などなかったのだが、そういう事情があったので、ラトもこの裂け目の名前くらいは知っていたのだ。
「・・・きれいだよねぇ・・・」
夕日を受けて輝く崖の岩肌。雄大な自然が生み出す絶景を眺め、ラトは微笑みながらうっとりとつぶやいた。
・・・その服は鋭い爪で切り裂かれ、血まみれだ。ラトを背に乗せるアオは、彼女に怪我を負わせた魔物、“爪猫”から逃げきるため、全速力で駆けているのだ。
「ねぇ、アオ!あの鳥を見て!大きいよぉ!」
ラトは“竜の爪痕”を棲みかとする、これまでに見たことも無い生き物・・・おそらく魔物を見つけたらしく、興奮してアオに話しかけるが、アオとしてはそれどころではないのだ。
爪猫は恐ろしく凶暴で、執念深い。見た目は黒猫をそのまま子牛ほどに大きくしたような姿であるが、伸縮自在らしい爪は驚くほどの強度と殺傷能力を誇る。だから“爪猫”。大木すら容易く切り裂くその爪で、奴はラト達を引き裂き殺すため、追跡を続けているのだ。
・・・・・
薬草探索のため、爪猫の縄張りに入り込んでしまったのが運のつきだった。樹上から突然飛び降りてきた爪猫は、まずアオから離れ無防備をさらしていた弱そうな少女の腹を、その鋭い爪で切り裂いた。アオすら反応できない、あまりにも一瞬の出来事であった。盛大に血をまきちらし、ラトはその場に崩れ落ちた。
続いて爪猫はアオと戦い始めた。体格ではアオの方が若干大きく有利であるとは言え、ここは爪猫のテリトリーである。
アオの隙を見てその体を引き裂いては、近くの木に登り避難する爪猫。アオの牙や爪は、敵が樹上に逃げてしまうと届かない。手をこまねいているアオを嘲笑うかのように、爪猫は樹上を飛び跳ねながらアオの死角に移動し、再度強襲を行うのだ。
巧みに周囲の樹木を利用し攻撃と離脱を繰り返す爪猫に、アオは防戦一方である。
爪猫は勝利を確信していた。
狩りの興奮に酔い、慢心していた。
油断が生まれていた。
突如、爪猫の背中に鋭い痛みが走った。
驚き、飛び跳ねてその場から距離をとる爪猫。
もといた場所を見遣ると、そこには腹を引き裂いて殺したはずの人間の少女が立っていた。赤い瞳を爛々と輝かせながら、不気味に微笑んでいる。その手に持つ鉈からは血が滴っており、どうやら自分はその鉈で斬りつけられたらしいが・・・何故あれは死んでいないのか?確実に致命傷を与えたはずだ。何故、立ちあがれる?あの恐ろしい、赤い瞳は何なのか?
爪猫は怯む。
その隙を見逃すアオではなく、これまでのおかえしとばかりに勢いよく体当たりで爪猫を吹き飛ばしてから、ラトを背に乗せ全力で逃亡を開始した。
敵に地の利がある森の中で戦い続けることは得策ではない。アオは冷静に判断し、風の流れを読み、森が開けている場所に向けて走り出したのだ。
おもしろくないのは爪猫である。森の狩人としての誇りを大いに傷つけられ、先程一瞬感じた怖れは吹き飛び、怒りが彼の心の中を満たしていた。
断じて許すまじ。生かしては帰さない。
爪猫は追跡を開始した。




