長屋人情噺
「熊さん! 熊吉さん! 転んだりするんじゃないよ!」
「わぁってるよぁー」
熊吉は馴染みの呑み屋の女将に見送られ、おぼつかない足取りで家路についた。したたかどころか泥酔にも近い状態で、女将にした返事も呂律が回っていない。女将は呆れた様子で熊吉の後ろ姿を見つめ、その背中が見えなくなってから騒がしい店の中に戻って行った。
熊吉は気分が良かった。夜であることを考えもせず、音の外れた歌を歌うくらいには。先日、久しぶりにまとまった鋳掛の仕事が入り、今日はそれを納めてきた帰りである。纏まった金が入れば、呑みだしてしまうのが江戸っ子の性だ。例にも漏れず呑みだした熊吉は久方ぶりに口にした酒に気分を良くした。結果早い調子で徳利を五本空け、顔を真っ赤にし、他の客に絡み始める。それを見咎めた女将が彼を店から追い出したのだ。
未だ呑み足りないと思っている熊吉は家で続きを呑もうと歩調を速める。酔っていながら浮足立てば、当然足元に向く意識はおろそかになる。
長屋の木戸の前。くぐろうとしたその時、彼の足に何かが引っかかった。熊吉はそのまま受け身もとらずに前のめりに倒れる。額を地面に勢いよくぶつけ、酔いとは別に打ちつけたところは赤らんだ。
「ったく、何だってんだ、ちくしょう! 誰でぇ! こんなところに物置いた奴ぁ!」
熊吉はすぐに起き上がり足元を見た。足元には大きな物が転がっている。辺りにあるのは月明かりぐらいのもので、熊吉は提灯を持ってはいない。何かも分からず、とりあえず触ってみれば布の感触を指先に感じる。しかもほのかに温かい。思い切ってべたべたと触ってみればその大きな物から、うっ、と低い呻き声が聞こえてきた。
それは、生きた人間である。
「あんた、大丈夫か?」
熊吉は声をかけながら、その男の頬だと思われる場所を叩いてみた。べちべちと肌に手が当たる音がするのみで、返事は無い。
どうしようかと思考を巡らしてみたが、彼の頭は酔いでうまく回らない。先程までも酔っていたが、頭をぶつけた衝撃で更に酔いが回っていた。思考は停止寸前で、熊吉は今にもこの場に寝てしまいそうに頭を揺らす。しかし何とか頭を横に振って酔いを振り払い、その場に立ち上がる。
彼は入らない力を振り絞り、倒れている男を肩に担いで木戸をくぐった。いろいろな場所に男の体をぶつけていたが、男は未だ起きる気配もない。足で長屋の己の家の戸を開け、男を家に上げる。草履を脱がせるのも面倒だったのか、そのまま敷きっぱなしにしてある彼の布団に男を下ろした。下ろしたというより、落とした、だ。どかっ、という鈍い音がすると同時に男が再び呻き声をあげる。ゆっくり下ろしてやれるほど、熊吉の頭は起きてはいなかった。男を下ろして、彼も畳に腰を下ろす。草履を脱ごうとしたが、彼は既に舟をこぎ始め、瞼も下がり始めている。
対照的に落とされた衝撃で男が目を覚ました。
「ここは?」
「あー、俺ん家だ」
今にも眠りそうな熊吉は男の問いかけに何とか答えるも、瞼は開くことに逆らっている。男の腹の虫が鳴く。男の顔は羞恥心からたちまち赤くなった。
「腹が減っているのだが、何か食いものは無いか?」
男は懐を探り、何かないかと探してみる。しかし何もないのか頭を垂れる。熊吉は男の横に添うように転がった。
「悪ぃが、眠ぃんだ。明日にしてくれ」
「しかし、私もいい加減、何か口にしたいのだ」
「どっかに、野菜が。それでも、食ってろ」
熊吉は何とかそれだけ言い残すと、寝息を立て始める。そのまま深い眠りについてしまった。
熊吉が眠ってしまい、どうしたら良いか分からない男は何とか彼を起こそうと肩をゆするが、熊吉が起きる気配は一切ない。再び男の腹が音を立てる。
「腹が減った」
男は仕方なく起き上がると、土間に降りて野菜を探す。たいして探すこともなく野菜はすぐに見つかった。踏台に野菜の乗った笊が置いてあったのだ。男はそれをじっと見つめる。
「生で、いいのか?」
男は躊躇うも、空腹は収まらない。男は耐え切れず、貪るように野菜を口に入れていった。笊の中の野菜はほとんど食べつくされ、口のついていないものは一つも残っていない。男は満足したのか、草履を脱いで布団に戻る。そのまま我が物顔で、布団の上で眠りについた。
翌朝、熊吉の家から一つ空けて隣に住むお由が彼の家の前を通りかかった時、思わず足が止まった。熊吉の家の戸は開いており、長屋の路地から中を窺うことが出来る。開けっぱなしの戸から何の気なしに覗きこめば、一人暮らしの筈の熊吉の家に二人の男が眠っていた。しかも、布団の上の男は誰なのか見当がつかない。
お由は慌てて彼の家に上がり込み、布団の横で高いびきをかいている熊吉を思いっきり揺らす。だが、熊吉は一向に起きない。
「熊さん、ちょいと起きとくれよ」
そう声をかけながら熊吉の頬を叩けば、彼は、うー、と呻きながら目をこする。重い瞼を開ければ、彼の目の前には布団に横になっている男が穏やかに寝息を立てていた。寝返りを打って仰向けになれば、熊吉の眼前にお由の顔が迫っている。
「やっと起きたのね」
お由は熊吉から顔を離し、額を一度ぺちりと叩いた。
「お由さん、こんな朝早くにどうしたんでぇ? ここ、あんたの家か?」
体を起した熊吉は、眠り目をこすりながら尋ねる。すると彼女は何を言うのかと言わんばかりのあきれ顔を向けた。
「間違いなく熊さん、あんたの家だよ。どうしたって聞きたいのはこっちだって言うのに、あんたって人は」
「そうかい、俺の家か。よかった。」
安堵した表情で熊吉は家の中を見渡し、視線は再び隣で寝ている男に止まる。
「するってぇと、なんで俺の家に知らねぇ男が寝てんだ?」
「なんであんたが知らないんだい! 朝、あんたの家の前を通りかかったら戸が開きっぱなしで、しかたが無いねぇ、なんて思って中を覗けば、あんたは知らない男と二人並んで寝ているし。気になって起こしてみれば、あんたは知らないなんて言い出すし」
「知らねぇもんは知らねぇんだ!」
声を張り上げた途端に熊吉は頭を抱える。次いで口元に手を当て、気持ち悪りぃ、と呟く。完全なる二日酔いである。お由はやれやれと溜め息をついた。熊吉は立ち上がると、座っているお由の横をふらふらと抜け、土間の甕から柄杓で水を飲んだ。
「なんでその人がいるのか思い出せないのかい?」
熊吉は未だ働かない頭を何とか動かして思い出そうとする。暫く唸りながら頭をひねり、うっすらぼやける記憶をたどる。そうしてようやく、昨晩長屋の前で拾った男のことを思い出した。
「そうそう。昨日の夜長屋の前で倒れているのを、酔った勢いで拾って帰って来たんだった」
「酔った勢いって。何拾ってんだい。犬猫じゃあるまいし」
あきれた様子でお由は男の方を向いた。そうして男を頭の先から足の先までじっくり観察していく。
「この人、随分身なりがいいねぇ。本当に行き倒れてたのかい?」
「ああ、酔っちゃいたが間違いねぇよ」
そう答えたが、お由の言葉が気になったのか、熊吉もその男の傍らに戻る。勿論今度は草履を脱いで部屋に上がった。多少土汚れはついていたが、確かに男の身なりはよかった。着物にも袴にも破れたところ一つない。
「言われてみれば確かに、何でこんな身なりの奴が倒れてたんだ?」
この男は何者なのか。
疑問を持てば、答えを知りたくなるのは当然のこと。熊吉は男を起しにかかる。しかし、ゆすっても叩いてもなかなか起きない。苛立った彼は土間に降りると、甕の近くに掛けてあった手ぬぐいを水でぬらし、絞った。湿った手ぬぐいを広げ男のそばに戻ると、それをそのまま顔に掛ける。濡れた手ぬぐいが男の鼻と口を覆って張りつく。男は起きたのか苦しくなったのか、体を起こして手ぬぐいを顔からはがした。
「死ぬかと思った!」
男は肩を上下に動かしながら荒い呼吸をくり返す。涙目のまま二人を睨みつけた。
「お前たち! いきなり何をする!」
「起きて良かった。あのままあんたが起きないのかと思ったぜ」
「ふざけるな! だからと言って俺を殺す気か!」
「悪ぃ、悪ぃ」
熊吉は片目を閉じ、片手合掌の形で謝罪する。悪びれた様子は全く無い。男の眉間にしわが寄った。
男が視線を熊吉からお由に向く。何か言おうとして、男の視線がお由の更に後ろに向いた。
「そう言えば、昨日は馳走になった。かたじけない」
熊吉は一体何のことか見当が付かず首をかしげた。お由のほうを見るが、彼女は首を振る。心当たりが無いのだから当たり前である。二人、と言うよりは熊吉が何も察していないことに気が付いた男は、あれのことだ、と踏台にある笊を指差した。笊の上には無残に歯形のついた野菜が乗っている。かじった跡は変色し、食べられたものではない。
「なっ、何でこうなるんでぇ!」
「いや、野菜でも食えと言ったのはお主であろう」
「言ったか?」
「間違いなく言った。酩酊していたから、覚えていないのではないか?」
言われてみれば言ったような気が、しない事もない。しかし二日酔いするくらいに酒を呑んでいた頭では、はっきりと思い出すことは難しい。男の態度は堂々としたもので、とても嘘を言っている様にも見えない。熊吉は記憶にないが故に、言いくるめられそうになり何とか言い返そうと、だけど、という言葉が口を衝いて出る。
「だけどよ! 全部食うこたぁねえじゃねぇか!」
「腹が減っていたのだから仕方がないだろう!」
「まぁ、量の事ぁこの際言わねぇにしてもだ! もうちょっと、こう、食い方ってもんがあんだろ! いっぺん口付けたんなら、きちんと全部食い切りやがれ! 何で半端に残すんだよ! あれじゃあおらぁ、あんたの食い残しを食うしかねぇじゃねぇか!」
「それは、捨てればいいのではないか? 屑をどうするか、朝になったら聞こうと思っていたのだ」
「馬鹿野郎!」
落ち着いていた口調に対して声を荒げていた熊吉が、男の発言に更に語気を荒げて怒鳴り付ける。言葉と共に熊吉の右手は強く握り込まれ、畳に叩きつけられた。長屋の壁は薄い上に戸が開いていたのだから、三人の話し声は外に駄々漏れである。熊吉の怒号は長屋の外にまで響き、道行く人が思わず足を止めるほどだった。長屋の住人も何事かと声の中心地である熊吉の家の入口付近に集まり始める。
「食いもんを何だと思ってやがる! 身なりが多少いいからって、俺らのこと馬鹿にしてやがんのか?」
「馬鹿にはしていない。思ったことを」
「それを馬鹿にしてるって言ってんでぇ!」
熊吉は食い気味に男の言葉を遮る。叫びすぎた弊害か、二日酔いの頭痛がぶり返し頭を押さえる。それでもまだ何か言おうと顔を上げたのに合わせたようにお由が、とにかく! と無理矢理話を切上げにかかる。
「まずは朝飯にしな。話はそれからでも良いだろ?」
そう言われ、二人は未だ朝食をとっていない事を思い出した。空腹を思い出せば、二人の腹の虫は合唱を始める。
「とりあえず、うちから何か持ってきてあげるよ」
「いいのかい、お由さん? すまねぇなぁ」
「困った時は、って言うだろ? ちょいと待ってな」
お由は立ち上がり、草履に足をかける。その時、笊の上の無残な野菜が目に入った。
「これは駄賃代わりに貰っていくよ」
笊を持って出て行こうとすれば、戸の周りには長屋の住人が中の様子を見ようと窓や戸の周りに集まっている。彼女は、散った散った、と声をかけて追い払い、駆け足で自分の家に戻って行った。二人きりという状況を気まずく思い、熊吉はお由を見送った格好のまま男に背を向けている。そっと肩口から後ろを窺えば、男は俯いていた。顔が少し赤い。空腹の音を聞かれた事が恥ずかしく、男は顔を上げられずにいるのだろう。とりあえず箸でも用意しようかと熊吉は土間に降りる。探しても、箸は一膳しかなかった。
お由はすぐに戻ってきた。その手にあるお盆の上には二人分のご飯とみそ汁、男の分の箸が乗っていた。
「簡単なもので悪いけど勘弁しておくれよ。さっきの野菜は食べられるところだけ切ってそん中に入れてあるからね」
「おお、ありがてぇ。さっすがお由さんだ。いただきます」
熊吉はお由から茶碗を受け取ると勢いよく掻きこんだ。米が喉に詰まり、むせかえる。慌ててみそ汁を受け取り、それで何とか流し込んだ。
「お由さんの飯は、相変わらず美味いねぇ」
「おだてても何も出やしないよ」
お由は笑いながら彼の肩を叩く。その勢いで前に倒れかけた熊吉の手の椀から、わずかにみそ汁が畳へこぼれた。熊吉がすぐに雑巾で畳を拭いている間に、お由は家に上がりこむ。熊吉と男の間に腰を下ろすと、お盆ごと男の前に差し出した。お盆の上には一人分の食事がのっている。
「お口に合えばいいんだけど」
男はお盆からみそ汁を手に取ると、恐る恐る口をつけた。口に入れれば美味しいことが分かったのか、箸を手にとり、具も一緒に口の中に流し込む。
「いただきます、くらいねぇのかよ」
熊吉は男を睨み、不機嫌そうに言い放った。お由は、良いんだよ、と言うが、熊吉は気に入らなかった。当の男はきょとんとした表情で熊吉を見返している。そんな顔をする男のことこそ熊吉は信じられないと思った。
「いただきます、だよ。いただきます。飯の前にはそう言えって、母ちゃんに習わなかったのか?」
「どうだったか、覚えてはいないが、それが作法ならば従おう」
男は口の中にあるものを飲みこんでから返事をした。
箸とお椀を一度お盆に戻し、お由に、いただきます、と頭を下げた。これであっているのか、と熊吉に視線を向ける。なんでお由に頭を下げるのか熊吉には分からなかったが、言ったことには変わりない。きまりが悪そうに目線を逸らし、それでいいんだよ、と言い捨てる。男は満足そうにまた箸とお椀を取り、食事を頬張った。
最終的に熊吉と男合わせて飯を四杯、みそ汁を五杯食べた。ちなみにみそ汁三杯飲んだのは男の方だ。
「御馳走様でした」
「馳走になった」
「お粗末さま」
お由はお盆に空になったお椀を乗せ、部屋を出て行った。
お由がいなくなり、家には熊吉と男の二人きり。熊吉は男の方へ向き直った。男もそれに合わせて彼の方を向く。腹が膨れたからなのか、時間が立ったからなのか、熊吉の怒りはすっかりなりを潜めて落ち着いていた。
「で、あんた名前は? ちなみにおらぁ熊吉だ」
「俺は」
と、男はそこで一度言い淀んだ。熊吉はすんなりと答えない事に首をかしげる。男は躊躇いがちに口を開いた。
「俺は、ショウ、ジロウ。庄次郎という」
「で、昨日の晩、あんたはこの長屋の前の通りに倒れていた訳だが。なんで倒れてたんだ? 酔い潰れてたのか? いや、さっきあんた腹がすいてた、って言ってたな。まさか?」
熊吉が顔を窺えば男、庄次郎はまた先程のように顔を赤くする。俯き気味に何かぼそぼそと答えたようだが、熊吉の耳には届いていない。
「は?」
「腹がすいて、行き倒れていた」
何とか聞こえるくらい小さな声で告げられた答えに、熊吉は呆れたように額を手で覆う。
わざわざこの長屋の前に倒れることもないだろうに。
熊吉は思わずため息をこぼし、庄次郎の目は熊吉からそらされる。
「しっかし、そんな良い身なりで行き倒れって。ありえねぇだろう」
熊吉の言葉に、庄次郎の顔色が急に赤から青に変わった。突然の彼の変化に熊吉は慌てて取り繕う。
「悪ぃ。言いたくねぇなら別に良いんだ」
「すまない」
庄次郎は深々と頭を下げた。身なりの人に頭を下げられ複雑な気分になる。
だが、訳ありならばどうしたら良いものだろうか? と、言う疑問がわきだす。
「帰るところはあんのか?」
庄次郎は力なく首を横に振り、ない、と小さな声で答えた。
訳ありの宿なし。どうしたらいいのか分からないが、一度拾ってしまった手前、その辺に捨て置いてしまうのも後味が悪い。ひとまず身が落ち着くまで自分が面倒みてやるのが筋だろうか。
そう思い至って、熊吉はぱんっと膝を打つ。
「よし。先生に相談しよう」
そう言うと彼は立ち上がり、きょとんとする庄次郎を置いて家を出た。
長屋の路地をざっと見渡すが先生の姿は無い。と言うことは自分の部屋にいるはずである。そう思って熊吉は長屋の奥に足を進めた。
この長屋の一番奥の家が先生と呼ばれる先生の部屋である。先生と言うのは、この長屋に住む四十がらみの浪人のことだ。名前は青山清十郎。元はとある藩に勤めていたらしいが、今はこの長屋に流れ着き、代筆屋や手習いなどをしている。学のある人故に、長屋の人間は困ったら青山に相談しているのだ。
「先生、邪魔するよ」
戸を開ければ整理された部屋の隅で文机に向かっていた。机の上には二冊の本と文箱。青山は上半身だけで振り返り、熊吉の姿を捉える。
「熊吉殿か。何用でござるか? かように朝早くから」
熊吉が踏台に腰を降ろせば、青山もその傍に腰を下ろす。
「実は聞いてほしいことがありましてね」
「ほう。何でござるか?」
熊吉は青山に昨日の夜から先程庄次郎に聞いた話まで、一通り話した。纏まりのない長い話を青山は顎に生えた髭に触れながら静かに聞いていた。
「成程」
「俺が助けた手前、俺が面倒をみるのが筋だとは思ってるんですよ。でもよ、訳ありの面倒なんて見たこたぁねえし。おらぁどうしたらいいと思います?」
青山はふむ、と意味ありげに呟き、顎の髭を撫でながら考えにふける。その間、熊吉はじっと彼の顔を見つめていた。
「熊吉殿」
「なんですかい?」
「無理に一人でやろうとすることは無いでござるよ」
「え?」
予想外の答えに呆気にとられる熊吉に、青山は優しく笑いかけた。
「それがしが初めてここに来た時、何も分からないそれがしを長屋の皆は助けてくれた。それがしの時のように、その庄次郎という男のことを助けてやればよい。勿論、主に面倒をみるのは熊吉殿で、皆はそれを支える。これならば熊吉殿一人が悩む必要は無くなるでござろう?」
「だけどよ、先生」
不安げに熊吉の視線は落ち、手は握り込まれている。
「みんなは俺に手ぇ貸してくれると思いますかい?」
「きっと、貸してくれるでござるよ。義理と人情の厚いのが、江戸っ子なのでござろう?」
熊吉は勢いよく顔を上げた。青山は変わらず優しい笑みをたたえたままである。そのまま青山がゆっくりと頷けば熊吉は、そうだな、と呟いた。
「ありがとな、先生。話してよかった。俺、みんなに言ってきまさぁ」
「どういたしまして。またいつでも相談にのるでござるよ」
熊吉は意気揚々と青山の家を後にした。一人残された青山は、このあと呼ばれるまでに少しでも仕事を終わらせようと思い、再び文机と向かい合った。筆をとり、片方の本に書かれていることをもう一方の本に書きとっていく。写本の依頼はこの本で終わりである。これが終わればまとめて本屋に納めに行ける。いらぬ力が入らぬように、青山は大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
己の家に戻った熊吉はすぐに庄次郎を連れて長屋の井戸に向かった。何の説明もされていない庄次郎は戸惑い、何度も熊吉に声をかけるが、熊吉は、まあまあ、と取り合わない。
井戸端には長屋にいる女たちが集まっていた。朝の井戸端は特に人が多い。洗濯をする者、洗い物をする者。お由もその輪の中で洗濯をしていた。
「ちょいと良いかい」
熊吉が声をかければ女たちは一斉に二人の方を向く。見たことのない男に女たちは驚くが、顔の造形がいい庄次郎にすぐに色めきだす。男たちも井戸の周りに何事かと集まりだした。
「この人、庄次郎さんって言うんだが、行くとこなくて困っているんだと。で、面倒見ることにしたから、みんなにも気に掛けて欲しいんだ」
「住まいはどうする?」
人の垣根の奥からの問いかけに、全員の視線がそちらへ向く。そこには長屋の差配が立っていた。庄次郎は不安げに熊吉を見るが、彼は何も悩むことなく堂々としている。
「そらぁ、俺んちに住まわせるつもりだ」
「ただでさえ店賃溜めているのにか?」
「つい昨日全部払ったじゃねぇか。纏まった仕事が入りゃあ、払えねぇこともねぇよ」
熊吉の言うことに間違いは無い。今の段階では確かに彼の店賃は清算されている。あまり良いとは思っていない差配は、何とかその決意を砕けないかと思案する。
「それがしは良いと思うが、皆はどうでござるか?」
人垣を挟んで差配とは反対側からの声に、皆の首が一斉に半周まわる。言葉の主は青山だ。腕を組み、いつもの調子で全員を見つめる。誰も青山の問いかけには答えない。
「熊吉殿が面倒を見られるのでござろう? ならば、何かあっても責任は熊吉殿がとられる筈。我々はただ少し、いつものように手を貸すだけでござるよ」
「まぁ、先生がそう言うなら」
一人がそう呟けばそれは次第に広がっていき、皆の総意へと変わっていく。流石の差配も全員の意見を覆すことはできない。
「分かったよ。ただし、その人が何かしたら、分かっているね?」
「ありがとうごぜぇます」
熊吉が深々と頭を下げると、差配は自分の家へと戻って行った。
熊吉は頭を上げると庄次郎の背中を、ほらっ、と叩く。庄次郎は何事か分からず戸惑いの表情で熊吉の顔を見た。
「みんなに挨拶しねぇと」
庄次郎は、成程、と集まっている人を見渡した。向けられているのは好奇心をはらんだ視線。緊張からか、手のひらは強く握り込まれる。
「庄次郎と言う。これから」
続けて言おうとした言葉を呑みこむ。突然言葉を切った庄次郎を皆は窺い見る。熊吉は心配そうに彼の背中を見つめる。庄次郎は何と言うのか決めたのか、息を吸い込む。
「これから宜しくお願い致します」
そう言って頭を下げた。長屋の人達は口角を上げると、庄次郎に寄り集った。よろしくな。仲良くしよう。そんな声が聞こえてくる。
熊吉はその輪の中に入れずにいた。驚いて反応できずにいたのだ。それまで、自分の家で見ていた彼は、もっと傲慢な態度で一切頭を下げたりなどしなかった、気がする。身なり通りの偉ぶった人間だと思っていた熊吉は拍子抜けしていた。
本当のところ、彼は庄次郎を責任感だけで面倒見るつもりであった。しかし、皆にもみくちゃにされ、それでも笑顔の彼に対し、好感がわき始めているのだ。
穏やか気持ちで彼らを見つめていれば、自分と同じように輪に入らない人物に気が付いた。青山である。熊吉は彼の元へ行った。
「ありがとよ、先生。さっきは助かったぜ」
「礼には及ばぬ。ああして受け入れられたのはお主の人徳と人望、そしてあの男の人柄故のこと。何か困ったことがあればいつでも手を貸すでござるよ」
青山は家に戻って行った。丁度その時、ようやく解放された庄次郎が熊吉の元に戻って来た。相当もまれたのか、着物は着崩れている。
「戻るか」
熊吉の言葉に庄次郎は全力で頷き、二人は熊吉の家に戻った。後ろ手で戸を閉め、敷居を跨いですぐの位置で庄次郎は足を止める。
「お主にはこれから大層世話になると思う。宜しく頼む」
庄次郎は深く頭を下げる。先に家に入っていた熊吉は、思わず片足を踏台に置いたまま振り返った。自分の見ている光景に大層驚いたのか固まってしまう。
「あんた、さっきまでと違わねぇか?」
熊吉の問いかけの言葉で庄次郎は下げていた頭をやっと上げた。にやりと笑っている表情は、悪戯をする子供のようである。
「あれは、口喧嘩のようなものだったからな。口が悪くなるのは当然のことだ」
「にしても、なぁ」
「本当はな、あそこでああ頭を下げるつもりはなかった」
「そうなのか?」
「ああ。しかし、お主は私の為に『面倒を見る』と言ってくれた。『責任を持つ』と。昨晩会ったばかりの私を信用してくれた。言外に、ここにいていいと言われているのが嬉しかった。だからこそ、ああ言うべきだと思ったのだ」
「そうかい」
熊吉は顔を戻し、完全に家に上がる。しかし庄次郎はまだ動こうとしない。再び振り返れば、まっすぐと自分のことを見つめていた。気恥しくなり、熊吉はうなじの辺りを掻く。
「まだ、助けてもらった礼をしっかと伝えていなかった。ありがとう。改めて宜しく頼む」
「お、おう。せいぜい頑張れや」
熊吉は顔をそむけ、ぶっきらぼうに返事をした。照れくさそうに首の後ろをまだ掻いている。熊吉の様子に庄次郎は笑いをこぼし、口元を押さえて声が出るのを何とかこらえる。肩が震え、乱れる呼吸を押え、庄次郎も草履を脱いで家に上がった。
こうして、熊吉と庄次郎の生活が始まった。
庄次郎と言う男は、不思議な男であった。数日の長屋生活で、彼の無能っぷりが明らかになっていったのだ。
まず、料理が出来ない。料理以前に竈の火をつけることが出来ない。起こせても煙ばかりである。竈に触れたことがなかったのがすぐに分かった。次に、洗濯が出来ない。はじめて洗濯をさせてみても、汚れはほとんど落ちておらず、ぐっしょり濡れたまま部屋に持って入って来て、滴る水で畳までも濡らす始末。しっかり布を絞ることができないため、掃除もままならない。箒の扱いも手がおかしなことになっている。買出しに行かせても、迷子になる。それ以前に何処に行けば何が買えるのかを知らない。
庄次郎は普通ならできるはずのことができず、知っているはずのことを知らなかった。それは長屋の子供に笑われるくらいに。
しかし、彼は文字の読み書きができた。その字も綺麗なものである。食事の作法も上品さが漂う。
熊吉を含めた何人かの大人たちは、庄次郎が高い身分か金のある家の出であることを薄々察していた。だが、それを問い詰める者はだれもいない。
個人のことに深く踏み込んでこない彼らに対し、庄次郎は感謝していた。だからこそ、庄次郎は長屋の人たちの力になりたいと励んだ。彼の前向きな姿勢は、感じさせる身の上の差など忘れさせられる。知らない上での失敗は、その都度近くにいた者が彼に教えるようにした。
結果半月もすれば、掃除と洗濯くらいならしっかりとできるようになっていた。買出しは行ったことのある店にならば迷わず行ける。しかし知らない店にはまず辿り着けない。料理は、未だに任せられていない。竈の火が扱えるようになっても、根本的に料理が出来ないのだから仕方がないことである。
庄次郎の生活は、初めに言っていた通り熊吉が見ている。金はギリギリで酒を飲みに行く余裕はないが、お蔭で規則正しい生活を送れている。時折金のやりくりに苦心している姿を見て、庄次郎は心苦しく思った。
ある日、庄次郎は偶然熊吉の財布を見つけた。彼の財布は、明らかに軽い。鋳掛けの仕事が少なかったのは、薄々勘付いていた。
流石に見かねた庄次郎は、青山に頼んで写本の仕事を少し回してもらった。熊吉は面倒見ると言ったのは自分だと止めたが、庄次郎はそれを押しきった。
「世話になっていると言っても、熊吉ばかりに負担をかけられない」
彼の強い意思に熊吉が折れるしかなかったのだ。実際、自分から力になりたいと言われたことが、嬉しかったからなのかもしれない。
他にも駄賃を貰って長屋の人たちのお使い等もこなした。子守りはかなり喜ばれた。届け物や買い物は一度案内されなければ行けないのか難点だ。大工をしている一太に付いて行き、普請場の手伝いをしたこともある。何の不満も言わず棟梁や仲間の大工たちの小間使いのようなことをして、帰ってから一太に謝られる姿は何度か長屋で目撃されている光景であった。
長屋にも馴染み初めて一月が経った頃、棒手振をしている伊佐次が、一つの噂話を持ち帰ってきた。
どこぞの大名家の人たちが血眼になって人探しをしている。
そのような噂話自分達には関係のないことだと、長屋の人々は一笑に付した。しかし偉い人の話と言うのは、自分たちからは縁遠いからこそ好き勝手に話が出来るもの。長屋の井戸端では伊三次を中心に人が集まり、ああだこうだ話し出す。盗人が入ったのではないか。誰かが逃げたのではないか。都合の悪いことを知っている人間を捕まえるのではないか。仇打ちの相手を探しているのではないか。本当に様々、好き勝手に話をくり広げている。
だが、庄次郎の反応は違った。その輪から外れたところで息を呑み、身を固くしている。馴染んで来た彼が長屋連中の話の輪に入らなかったことはほとんどない。その場を通りかかったのであれば、無いに等しい。話をしながらも彼の様子が違うことに、わずかばかり気になった。
熊吉が噂話を知ったのは夕刻、仕事を終えて長屋に帰って来てからだった。その頃には庄次郎の様子もすっかりいつも通りに戻っていた。熊吉は彼が噂を聞いた時の様子を知ることは無かった。
人の噂も七十五日。噂などすぐにたち消える。それこそ己の生活に関わりなければ、十日もしない内に忘れてしまうものだ。長屋であの噂を聞くことは無くなった。
庄次郎はいつもと変わらず、井戸端で身支度を整える。井戸端で長屋の人たちと話す姿もすっかり堂に入っている。そんな風に話をしていると、長屋のくぐり戸から勢いよく誰かが駆けこんでいき、どこかの家に消えて行った。暫くすると何処からか庄次郎を呼ぶ声が聞こえてくる。皆が顔をその声のした方へ向ければ、一太が仕事に出るときの格好で駆けよって来た。
「庄さん、今日何か用があったりするかい?」
「いや、何もないが」
「なら丁度いい! また一緒に普請場に来ちゃあくれねぇか? 今日、人手が少し欲しいんだ。荷運びみたいな簡単な仕事しか頼みゃあしねぇし、駄賃も棟梁が弾むってよ。どうだい。引き受けちゃあくれねぇか?」
「熊に聞いてからでも良いか?」
「ああ。助かるぜ」
庄次郎はすぐに熊吉の家に戻る。熊吉は土間で鋳掛用の小さな火鉢に火をおこしていた。
「熊、俺は少し出る」
「なんだ庄さん。また頼まれごと引き受けたのか? 無理するこたぁねぇんだぜ」
「無理はしていない。こういった頼まれごとは、己の知らぬことを知れて楽しいのだ。駄賃はそのついでに過ぎん」
「さようで。で、どこに?」
「一太の棟梁の普請場だ。手が足りないらしい」
「あいよ。せいぜい気ぃつけな。怪我して帰ってこられると、薬代がかかるからな」
「ああ。気をつける」
話をしている間に庄次郎は普段の着流し姿から、袴を穿いた姿に着替えていた。着流しよりは安全だろうと庄次郎は穿いているが、周囲は袴を駄目にしないかと少し気が気でならなかったりする。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
熊吉が教え込んだ挨拶を交わして、庄次郎は一太と共に長屋を出た。一太の話では昨日から仕事場が変わったらしい。大工は依頼があればどこにでも行く。故に庄次郎はまだそれがどこなのか知らない。
棟梁はまだ家を出ていなかった。棟梁の許可をもらう為に一太はわざわざ早く家を出たのだ。棟梁に挨拶をすれば、彼は黙って羽織を渡した。認めると言うことなのだろう。揃いの紺地の羽織は庄次郎の格好にはいささか不釣り合いであった。それでも庄次郎は喜んでそれに袖を通す。
棟梁と一太と連れだって、この日の仕事場へ向かう。袴を穿いた大工などそういるものではない。道行く人は彼らを二度見していくのだった。
着いた先は、山川家の大名屋敷だった。庄次郎は門の前で思わず足を止めてしまう。棟梁は構わず中に入り、一太は庄次郎を急かす。一度引き受けた以上引き返せないと、渋々中へ入った。屋敷の武士たちは、大工などいないかのように過ごしていた。町民と武士が口をきくなど、そうあることでもない。それが大名屋敷の人間であれば尚のこと。武士たちが関わりあってこない事に庄次郎は安堵した。
仕事は老朽化が進んでいる塀の修繕である。
棟梁が屋敷側の責任者と話をしてから、仕事が始まった。一太は木材を切ったり削ったりと、仕事を任せられている。庄次郎はというと、やれ道具をとれ、やれ木材をとれ、とあちこちから上がる声に対応して物を運ぶ。羽織の下の着物の袖は襷掛けをして邪魔にならないようにしている。袖からのぞく肌は白く、力仕事をする人間の腕では明らかに無い。それでもこういった仕事を何度か引き受けているだけあって、目立たない小さな傷が腕のあちこちについていた。顔をしかめ、ふらつきそうになる足を何とか踏ん張りながら荷を運ぶ。一刻もすれば、庄次郎を含めた大工たちは額に汗を滲ませていた。庄次郎の着物の首周りはすっかり色が変わっていた。
九つを告げる寺の鐘の音が遠くから聞こえ一旦休憩に入る。各々持ってきた弁当を広げ昼食にあり付く。庄次郎は弁当の用意をしてはいなかったが、一太の嫁であるお由が庄次郎の分も用意していた。それを一太から受け取り包みを広げる。中は握り飯と沢庵と簡素なものである。握り飯の塩は多めで、力仕事をした体にしみ込んでくるおいしさがあった。
大工たちが歓談しながら昼げをとっていると、屋敷の武士が二人、近くの廊下を通りがかった。棟梁はすぐに気が付き、その武士たちに頭を下げる。棟梁の行動に気が付いた他の大工たちも急いで頭を下げた。庄次郎も例外ではない。先頭を歩いていた者が、すぐに直るように告げる。棟梁が話をしている間に、大工たちは急いで片付けに入った。武家屋敷にいて屋敷の人に見られながら食事が出来るほど、彼らの神経は図太くない。
通りがかった武士の身なりは、控えめに言っても上等なものであった。家紋の入った裃で、先頭の男に至っては羽織に刺繍が入っている。藩の中でもかなりの身分にあることは、一目見ただけで誰もが分かった。
後ろを歩いていた男が大工たちに目を向ける。それは、何の気なしに、気まぐれに向けたものであった。敷いて目的を上げるならば、大工たちの様子を見る為だろうか。大工たちを見ていれば、明らかに大工らしからぬ男が一人混じっているのが分かった。大工用の羽織の下には袴を穿いている。地下足袋も履いていない。明らかに異質であった。足元から順に見ていき、頭に到達する。髷は明らかに町人ではなく武士のそれだった。
大方浪人が人足としてきたのだろう。自分はああはなりたくはない。
そんなことを思いながら観察していると、ずっと背をむいていた男の顔がようやく見えた。見て、驚愕した。知っている、見たことのある顔だった。
「昌之介、様?」
ぽつりとこぼれた声は誰の耳にも届かない。近くにいる江戸家老と棟梁は話に夢中で彼の呟きには気づかない。気づいてしまった事実に、どうしていいか分からず男は呆然としている。視線はいつしか庄次郎を追っていた。
ずっと向けられている視線に気が付いたのか、庄次郎は廊下の方に目を向ける。男がじっと自分を見つめている。最初は何故見られているのか分からなかった。少し考えて己の格好が気になるのかと思って、気にしない事にした。だが、一度気づいてしまえば、視線が気になって仕方ない。もう一度廊下に視線を向けると、未だ棟梁は話し中で、男はじっとこちらを見ている。男の顔を見ていて、はっとした。
自分はあの男を知っている。名前は知らないが、顔を見たことがある。しかも、家で。
そのことに気が付き、庄次郎は目を見開く。呼吸が震え、冷たい汗が背中を伝う。今すぐこの場から逃げ出したいと思ったが、今は仕事の最中だ。庄次郎はなんとか体を奮い立て、大工たちに紛れ、視線から逃れようとする。
庄次郎の態度に、男は自分の気が付いたことが間違いではない可能性が高まった。と同時に、庄次郎に気付いたことを気付かれたのも分かった。隣にいる上官にすぐに伝えたかったが、棟梁との話が終わらない。
漸く話が終わり、棟梁は仕事に戻って行った。男が庭に再び視線を向けるも、庄次郎の姿は見つからなかった。目の前の江戸家老は既に歩き始めている。男は慌てて追いかけた。
男たちの姿が見えなくなり、庄次郎はひとまず安堵する。あの距離ならば本当に本人か判断するのは難しい。声をかけてこないあたり、確信がないのかもしれないと思い、ひとまず仕事に集中しようとする。しかし不安はぬぐえない。
「おい、庄さん。大丈夫かい?」
一太が庄次郎を見てそう声をかけてしまうくらいに、顔色は悪くなっていた。だが、庄次郎は大丈夫の一点張りで、仕事を続けた。
夕刻になり、この日の仕事は終わった。皆帰り支度をしてそれぞれの家路につく。屋敷の門をくぐり、庄次郎は思わず詰めていた息を吐く。最後まで誰かに声をかけられて引き止められるようなことは無かった。帰りがけに棟梁から礼の言葉と共に庄次郎は金を受け取る。庄次郎は借りていた羽織を返し、一太と二人で長屋への帰路につく。その間、庄次郎は気落ちした様子であった。一太は何があったか聞こうとするも、答えは返ってこない。打ちひしがれた様子のまま庄次郎は一太と別れた。
「只今戻った」
「おう、お帰り」
家に入れば熊吉はいつも通りに庄次郎を出迎える。酷く落ち込んでいることには、すぐに気が付いた。庄次郎は熊吉の目の前に正座する。何か大事な話があるのかと熊吉も身を正した。
「一体どうしたんでぇ。そんなに気落ちして。普請場で、何かあったのか?」
その問いには答えず、庄次郎は懐に入れていた包みを取り出す。先程棟梁から受け取った金である。それを熊吉の目の前に置いた。
「熊、短い間ではあったが世話になった。俺はここを出ようと思う」
「はぁ? 何言ってやがんでぇ、いきなり!」
熊吉は思わず片膝を立てて身を乗り出す。庄次郎は相変わらず冷静で、ゆっくりと頭を下げる。
「相談しなかったのは、申し訳ないと思っている。だが、もう決めたのだ」
上げた顔に感情は一切こもっていない。冷静、なのではなく無感情なのだ。
「訳は一体何だってんでぇ。それくれぇ、聞かしてくれんだろう?」
「それは」
そこから先に言葉が詰まり、口籠る。庄次郎の表情がわずかに動き、渋くなった。言いにくそうに口をもごもごと動かし、その、あの、と言うばかりでなかなか言葉が続かない。
「そんなに言いにくいことなのか?」
「すまん」
熊吉は庄次郎の過去について、ほとんど何も聞いてこなかった。そういう機会があっても、言いたくなさげにしていれば熊吉が察してくれていた。だから、今回も一言謝ればそれ以上の追及は無い。
そう、思っていた。
「だけど今回ばかりはそうはいかねぇぞ」
熊吉の言葉に軽く下げていた頭を跳ね上げる。予想外のことに目を丸くする。何故、と思わず言葉がこぼれ落ちる。
「朝、一太と普請場に行く時は機嫌よかったじゃねぇか。少なくともここを出て行こうなんて考えてる奴の面じゃなかった。だが、帰って来てみたらどうだ。この世の終わり見てぇな面して。挙句ここを出て行くなんて言い出しやがるし。今日、普請場で何があった?」
庄次郎は未だ口籠るばかりで、答えようとしない。なかなか答えようとしない彼に熊吉は深いため息をつく。
「言わねぇんなら仕方ねぇ。一太んとこ行って今日の普請場の場所を聞いて、そこに行ってくらぁ。そしたら何か」
「やめてくれ!」
庄次郎は熊吉の言葉を遮る。その声には感情が乗っかっており、先程までの取り繕っていた彼とはすでに違っていた。膝の上で強く握られた拳は震え、頼むから、とかすれた声で続けられる。
「分かった。話そう。お前は話すまで、俺を離しはしないのだろう?」
「ったりめぇよ」
熊吉はどんっと胸を叩く。偉そうに威張る彼の態度に、庄次郎は思わず笑みをこぼす。だがどこか、苦しげであった。
二人は改めて居直る。二人の間には人が二人座れるくらいの距離しかない。手を伸ばせば届いてしまう距離だ。
「まずは、そうだな。俺の身の上を言わねばなるまいな」
庄次郎は目を閉じて一回深呼吸をする。気持ちを落ち着けてから目を開けば、目の前には熊吉が身を乗り出しそうになって座っていた。
「庄次郎と言うのは、偽りだ。あの時咄嗟についた嘘だ。すまん」
軽く頭を下げてから、正面の熊吉の目をしっかりと見据える。熊吉が息を呑む音が、二人の耳に届く。障子を揺らす風の音もなく、この部屋の中は無音である。
「真の名は昌之介。甲田昌之介と言う」
そう切り出して庄次郎、否、昌之介は語りだした。
昌之介は甲田家の長男として生を受けた。つまり嫡子である。幼いころから学問と剣術、君主として必要な教育を受けていた。学問も剣術も、彼は好きでも嫌いでもなかった。殿様である父親にやれと言われたならばやるしかない。ただそれだけの理由で日々を過ごしていた。
昌之介には五つ離れた弟がいる。弟は、母親に育てられていた。幼い頃から母親に甘えることのなかった昌之介にとって、それは見るには辛い光景であった。だがそんな光景を見せつけられたのは弟が幼い数年の間のことである。
毎日勉学に勤しまされている自分と、自由に過ごす弟。江戸に残らされる自分と、国許に帰ることのできる弟。
子供心に昌之介は、大きな寂しさを抱えていた。
弟が成長するにつれ彼が抱える感情は、寂しさでから惨めさへと変わっていく。
弟は何事においても、昌之介より優れていた。剣術も藩で五本の指に数えられるほどに上達し、学問も教えている僧を言い負かすくらいにまでになっている、らしい。性格もはつらつとし、人当たりも良い、そうだ。滅多に会うことはないが、噂話はしっかりと江戸にいる昌之介の耳に届いていた。
「兄のお前が弟より劣っていて何とする。いずれ城主となるのはお前なのだ。もう少し自覚を持て」
父親が参勤交代で江戸に来る時と江戸から帰って行く時、そう口にするのがお約束のようになったのはいつからだったか。昌之介も最早思い出すことが出来ない。それくらい毎度口にしているのだ。
「どうしてあなたが長男として生まれてしまったのか。弟の方が優れているなんて恥ずかしい。少しは弟を見習いなさい。一つ位秀でたものは無いのですか」
母親は顔を合わせる度にそんなことを口にする。耳にたこが出来るのではと思うくらいに同じことばかり聞かされ、昌之介は正直うんざりしていた。顔を合わせるのも嫌になり、彼が次第に母親を避けるようになったのは必然だろう。
「次の藩主は、弟君がなられた方が良いのではないだろうか」
そう陰で話す家臣たちの言葉も、何度聞いたか知れない。
親に甘えることもなく、日々努力をしてきた。その筈である。しかし優れた弟と比べられ、誰にも認められない。昌之介が江戸藩邸に、甲田の家に身を置けている理由など、もはや長子であること以外ない。そう、昌之介は思うようになった。その兄の威厳、長子の威厳などどこにもない。
昌之介が自分を追いつめる理由は、弟以外にもう一つあった。それが父親の存在である。
父親は歴代藩主の中で最も優れた名君であった。老中たちの権力闘争に決着をつけ、藩の政の暗部を自ら暴いた。最初こそ家臣たちからの反感も多かったが、今や皆に慕われている。領民にも気を配り、圧制を強いるようなことを極力避けた。名君と呼ばれるのは必然である。そんな父親の背中を、昌之介は近くで見ていない。結果ばかりで、その過程が分からない。真似をしようにもできない。
偉大な父だと、藩主だと、毎日のように聞かされた。幼い頃は、いずれ貴方様も、と言われていた。しかし今や、跡継ぎがこれか、と言うような目で見られる。
屋敷での生活は、本当に惨めさを感じる日々の繰り返し。乗馬や剣術の訓練の時以外、外に出ようとせず家の中に籠るようになった。屋敷の者との会話も挨拶も必要最低限交すだけになってゆき、弟との差はますます開いて行くばかり。父親となど、天と地も離れている。昌之介にはその自覚があった。必要とされていないのではないかと思うこともあるが、それでも屋敷に居続けたのは、もはや意地に近い。
だが昌之介の意地も長くは続かなかった。
この日、昌之介はいつにもまして気落ちしていた。前日に父親を含めた参勤の者たちが到着したのだ。例によって父親に小言をもらったばかりである。
気分は落ちていたが何とか身を奮い立て、部屋でまた一人学問に打ち込もうとしていた。そう思いながら廊下を歩いていれば、部屋の中から話し声が聞こえてきた。声に耳を済ませれば、昌之介の学術指南を引き受けている学者と両親の声である。一旦部屋の前を通り過ぎ、誰もいな隣の部屋に入った。二人のいる部屋に面する襖に忍びより聞き耳を立てる。
「そうか」
「左様でございます」
話の内容はよく分からないが話しているのは父親と教育係の家臣である。母親の相槌の声も聞こえる。もう少しきちんと内容を聞こうと、更に耳をすませた。
「あいつに嫡男は、荷が勝ちすぎだったのかもしれんな」
「いっそのこと、弟のあの子を嫡子としてしまうのはいかがでしょう」
「滅多なこと口にするな。世継ぎの座が揺らげば、再び政に争いを招く。そのようなこと有ってはならん」
「殿の申される通り、嫡男はそのままがよろしいかと」
「ですが、昌之介に殿様のような器があるとは思えません。藩主など務まる訳がございません」
そこまで聞いて、昌之介はその場を離れた。部屋に戻る廊下がいつもより長く感じる。
争いにならない為だけに、自分は嫡子としてここにいる。それが自分である必要性はない。
「いっそ、あいつが先に生まれていれば、こんな話すら上がらなかっただろうに」
誰に言う訳でもなく、昌之介の口からそんな言葉がこぼれた。
自分がいなくなれば、きっと全て丸く収まる。
一度そう思ってしまえば、もう歯止めは聞かない。財布と編み笠だけ持って部屋を出る。誰にも出くわさないように裏へ回り、屋敷を出た。何人かに見られたかもしれないが、気にするつもりもない。潜り戸を出るや否や、全速力で屋敷から離れた。周囲が武家屋敷の白い塀の続く街並みから、木を中心とした建物へと変わっていく。一旦足を止めて振り返るが、自分を追ってくるような人影は無い。
昌之介はしがらみを全て捨て去り、初めて自由になった様に思えた。心の底から解放感で満たされる。その気分のまま、かぶっていた編み笠も捨てた。
身一つで街を歩く。往来を歩き、門前町も見て回る。不慣れな人ごみに揉まれながらも、視線は店の方へと向く。子供たちが集まっている飴細工が気になり、飴売りの親父のところへ行く。飴を買おうと懐に手を入れ、気が付いた。財布がない。どこかに落としたのかとあたりを見渡すが、何処にも落ちてはいない。
「どうしたんだい?」
棒の先についた飴に鋏を入れながら、親父が声をかける。昌之介は懐や袖を何度も叩いてみた。しかしどこにも無い。
「財布が見つからんのだ」
「そりゃあ、掏られたね。ご愁傷さん」
飴屋の親父はそう言い残して立ち去って行った。子供らもそれについて行く。一人残された昌之介は、呆然とした。これでは何もできない。金がなければ、何か食べることも雨風をしのぐこともできない。だが、屋敷に戻る気はなかった。それだけはしたくなかった。
あてどなく歩き続け、腹は空腹を知らせ始める。それでも何かを口に入れることはできない。金がないのだから。
夕方になり、夜になり。体力が底を尽きて道に倒れた。いよいよ腹の虫もなくことを辞めたらしい。一歩も動く気力は湧かず、起き上がる元気もない。瞼は重くなり、視界がぼやけ始める。
このままここで死ねば、跡継ぎは弟になる。
意識が途切れる直前、昌之介はそんなことを考えた。
「そうして、その後に酔っぱらったお前が俺を拾ったという訳だ」
昌之介はそう話を一旦区切った。
熊吉は昌之介が自分語りをしている間、何も言えなかった。相槌すら挟めず、ただ黙って彼の言葉を聞いていた。
「気落ちして帰ってきたのは何でだったん、のですが?」
熊吉はそもそもの疑問を問いかける。話しながら相手が大名家の人間であることを思いだし、慌てて敬語に直す。昌之介は、これまでと同じように話してくれ、と苦笑混じりに頼んでから答えた。
「今日普請があった山川家は甲田家と親戚筋で、そここの江戸家老とは当然面識があってな。まぁ、俺に気付いたのは御側付だったのだが。声をかけられなかった辺り、確信が持てなかったのだろう」
「そうかい」
視線を落とした熊吉の目に、先程昌之介が置いた金子が目に入った。一日の労働で手に入る金などたかが知れている。目の前にいる男はそんな金の苦労などしたことは無かっただろう事をふと思った。この男には、帰る家がある。しかし昌之介の話を聞く限りでは、その意思は薄い気がした。
「なぁ、本当にここを出て行く気か?」
「ああ。これ以上迷惑はかけられない。ここへ屋敷の者が来るのも時間の問題だ」
「そうじゃなくってよ、庄さん。家のこととか俺らに迷惑とかそんなことは一旦忘れて、あんたはどうしたいのかって聞いてんだ。所詮長屋暮らしはお偉いお武家さまの肌には合わなかったってことか? ここの暮らしが嫌になったのか?」
「そんな訳がないだろう!」
昌之介は思わず叫んだ。熊吉は突然の声に怯んでしまう。
「ここの暮らしほど、良い暮らしを俺は知らない。甲田の家に俺の居場所など最早無い。要らないと言われたことはあっても、居てもいいと言われたことなどただの一度もなかった。だが、熊。お前は俺にここにいてもいいと言ってくれた。長屋の者たちも、俺を受け入れてくれた。初めてだったのだ。俺を認めてくれたのは。そんな場所を出て行きたいなど、本心から思っている訳が、無いだろう」
最初は強かった語気も、最後の言葉の頃にはすっかり弱くなっていた。俯き、肩を震わせ、今にも泣き出しそうである。感極まっている昌之介に熊吉はにやりと笑った。
「ほら、やっぱりな。居てぇなら居てぇって最初っから言やぁいいんだよ。変に気ぃ使いやがって」
熊吉は立ち上がると足音を立てずに戸へ近づいて行く。昌之介は顔を上げて、それを目で追った。
「庄さん。ここにいろよ。あんたもう、ここの人間だろ?」
戸の前へ立つと、勢いよくそれを開けた。勢い余って戸は柱にぶつかり跳ね返る。戸の前には、長屋の住人が集まていた。ずっと熊吉と昌之介の話を盗み聞いていたのだ。皆がそれぞれにそこにいた理由を言い訳しようと視線を泳がせる。家の外に人が集まっていたことなど一切気が付かなかった昌之介は目を見開いた。
「みんなあんたを心配してたんだぜ」
「ありがとう」
昌之介は素直に頭を下げた。だがその後暫くしても顔を上げようとしない。なかなか顔を上げない彼を皆が訝しむ。熊吉が何かに気が付いたのか、部屋に上がって昌之介の顔を見ようと傍らにしゃがみこんだ。しかし昌之介は熊吉に顔そむけて見せようとしない。
「もしかして泣いてんのか?」
「泣いてなどいない」
「いや、泣いてんだろ」
「泣いてない!」
このやり取りは、皆が耐えきれなくなり笑い出すまで続いた。
昌之介をこれからどうするのか。急遽熊吉の家で作戦会議が始まった。まずは、気付かれたかもしれない昌之介の正体をどうごまかすか、という所から議論が白熱し始める。熊吉の家には食事や酒、肴が揃い、半分宴会のような状態であった。
昌之介は当事者であるが、今は席をはずしている。先程泣き腫らした目を冷やそうと、井戸端に来ていた。外は既に夜の帳が下りている。
彼が一人でいると、背後から足音が近づいてきた。弾かれたように振り向けば暗闇の中、そこには青山が立っていた。
「先生? どうかなさいましたか?」
「少し、宜しいか?」
「構いませんよ」
昌之介は絞った手拭いを井戸の淵に掛けた。青山は、立ち話もなんだから、と井戸のそばに置いてある桶をひっくり返してそこへ座る。昌之介もそれに倣って腰を下ろした。
「庄次郎殿、いや昌之介殿はまことに家に戻る気は無いのでござるか?」
「はい」
「それがしは、帰った方が良いと思う。帰る家が、帰る場所があるのならば帰るべきでござる」
「あそこは、俺の帰る場所では、ありません」
昌之介はきっぱりと言い放った。先程まで帰る帰らないと逡巡していた男とは思えない、はっきりとした言葉であった。あまりに躊躇いのない言葉に、青山は膝についた片方の掌で頭を抱える。悩んだ青山は、少し間を置いてから話を切り出した。
「少し、それがしの話に付き合っては下さらぬか?」
思いもよらなかった申し出に昌之介は、はぁ、と締まらない返事を返す。青山は構わず続けた。
「それがしは元々、とある藩に仕えていた武士でござった。城に上がることのできるくらいには、立派なお役目を賜っていた。しかし、藩主のお家争いが苛烈を極め、遂に藩は改易と相成った」
改易とは、お家が断絶され領地を没収されることである。藩主・大名のお家が断絶されるということは、つまり藩が一つ消滅するということである。
「藩の者は散り散りとなり、禄を失い、皆路頭に迷った。それがしは流れ流れて江戸に辿り着き、今ここにおる。しかし先祖代々の土地も、家も、家族も失った。それがしには本当に帰る場所など、もはやどこにもないのでござるよ」
そこで言葉を一度切ると、細めた眼を昌之介に向けた。その目にはうっすらと憐みや物悲しさが混ざっている。
「だからこそ、もう一度申し上げる。お主は屋敷に戻るべきでござる。大名家の嫡子であるお主にはまだ帰る家も、守るべき家臣たちも、国もある。お主はまだそれらを持っているというのに、それらを自ら捨てるのでござるか?」
青山の言葉に昌之介は唇を噛んだ。青山の言葉は彼の胸に深く刺さる。上の勝手に巻き込まれ全てを失った青山の言葉は誰よりも重い。一瞬、昌之介の心が揺らいだ。しかし次の瞬間、彼の頭に母親の言葉が過ぎる。
昌之介は立ち上がると、青山に背を向けたまま熊吉の家へ歩を進めた。
「先生から見れば、俺は甘ったれた子供に見えるのでしょう。それでも俺は帰る気はありません」
「藩がどうなっても良いのでござるか?」
思わず青山も立ち上がった。カタリと桶が音を立てる。
「確かに、家臣たちに迷惑がかかるのやもしれません。しかし優秀な弟が跡目を継げば、すべてが丸く収まります」
昌之介は家の前で立ち止まり、肩越しに青山を振り返った。
「俺は、あの家で必要とされていない、ただの落ちこぼれですよ」
中から漏れる光と月の光によって浮かび上がった昌之介の表情は、酷く寂しそうに歪んでいた。青山は黙って昌之介が家の中に入るのを見送るしかなかった。
青山はそのまま自分の家へと戻っていく。彼らの輪に入る気は、どうしても湧かなかった。
昌之介の決意は固い。自分の言葉に揺るがぬ程に。
「手を貸すのは、明日からにさせてくれ」
未だ騒ぎ声のする熊吉の家の方にそう言葉をかけ、青山は光の灯らぬ己の家へと入って行った。
長屋の皆が寄り集まって考えた策は、実に簡単なものであった。昌之介は暫く長屋から出歩かず、世間には甲田昌之介は死んだという噂を流す、と言うものだった。こうすれば昌之介は一層帰りにくくなり、追う方も諦めるのではないかと考えたのである。妙案、と言う訳でもないが、彼ら町人にできる精一杯がこれだったのだ。
上手くいくかも分からない賭けではあるが、彼らは翌朝から行動に移した。買い物の際であったり、仕事先であったり。棒手振である伊佐次は噂を流すのに、特に活躍した。以前流れた人探しの噂話を交えて流したこの話は、またたく間に江戸中に流れた。
これで終われば、良かった。
だが噂を流し始めた五日後、二人連れの武士が長屋を訪れた。二人とも羽織袴に大小の刀を腰に帯びている。彼らが長屋に足を踏み入れた瞬間、長屋の空気が一気に張りつめた。彼らの目的が昌之介なのは簡単に察しがつくことである。
運悪く通路で子供らの面倒を見ていた昌之介は、武士二人を見るや否や目を逸らした。すぐに距離を取ろうと家の方へと踵を返す。
「昌之介様!」
二人のうち一方の武士の呼びかけに、昌之介の足は思わず止まってしまう。彼のよく知る声である。昌之介から遮るように壁のようになっている長屋の人々を掻き分け、男は昌之介の足元に縋るように身を屈めた。
「昌之介様、お探しいたしました。どうかお屋敷にお戻りください。今ならまだ殿もお許しくださいます」
「止めろ、佐伯。俺は戻るつもりなどない」
昌之介は足元の男にそう言うと、子供を家の中に帰らせた。佐伯と呼ばれた男は身を屈めたまま、どうか、と絞り出すように懇願する。地に額をつけたまま動こうとしない佐伯を見るに堪えかね、昌之介は彼の傍らにしゃがみ込み声をかけようとした。
その時、二人から離れた所にある長屋の住人に寄る壁から女の悲鳴が上がる。昌之介が顔を上げれば佐伯と共に来ていた男が人垣を掻きわけようとして、力技に出たところであった。
「止めろ!」
昌之介が男を諫める声を上げる。しかし男の耳に声は届いていない。一向に前に進めない事に痺れを切らし、男は腰の刀に手をかけた。人垣はざわめき、再び女たちの悲鳴が上がる。昌之介が止めようと立ち上がった時、すっとざわめきが止んだ。
「町人に対し容易に刀を抜くなど、それでも禄を食む侍でござるか。恥を知れ」
男の柄先を片手で押さえ、青山はそう言い放った。青山の眼光はいつもよりも鋭く、腰には刀を帯びている。男は抜くことのできない刀を何とか抜こうと力任せに動かすが、びくともしない。男は苦虫を噛みつぶしたように顔を歪め、傍らに立つ青山を睨みあげる。青山は動じることなく、男を見据えていた。
「止さんか、高瀬。剣を納めろ。甲田家の名に泥を塗るつもりか」
身を起こし事態を把握した佐伯が男を諫める。高瀬と言う男は苦々しく舌打ちをすると、渋々刀から手を引いた。青山も柄から手を離す。鋭かった気配は、既になりを潜めていた。
「申し訳ありませぬ。少々気性の荒い男でございまして、許してやってくださいませ」
佐伯は昌之介に深々と頭を下げた。人垣を抜けて佐伯の隣に来た高瀬も、倣って頭を下げる。昌之介は嫌そうに二人から視線を逸らす。侍二人に頭を下げさせる彼の姿を見て、長屋の人々は昌之介が身分の高い人物なのだと実感していた。
「話くらい聞いて差し上げたらどうでござるか? でなくば彼らも、屋敷に帰ることが出来ぬのではござらんか?」
長屋の者たちを庇うように前に出てきた青山がそう声をかける。人垣からは、話なんて聞くこたぁねぇ、なんて声も上がっているが、青山の意見はもっとものことであった。二人には藩士としての事情があるのだ。昌之介は渋々というように、分かった、と答えた。佐伯たちは嬉しそうに顔を上げる。
「ただし、長屋の皆に謝罪してからだ。それからでなくば話を聞く気は無い」
そう言うと昌之介は熊吉の家に入っていった。戸を閉めずにしておき、話を聞く意思を表す。高瀬は心底嫌そうではあったが、二人揃って長屋のみんなに頭を下げた。形ばかりの謝罪を終えるやいなや、すぐに頭を上げて昌之介の後を追った。
家の中では昌之介と熊吉が並んで二人が入ってくるのを待ち構えていた。佐伯たちは戸を閉めると草履を脱ぎ、二人の正面に座った。
「悪ぃな。何も無くってな」
「いえ、お構いなく」
熊吉は明らかに彼らを歓迎していない。あからさまな態度にどうにかしてやろうとする高瀬を抑えながら、佐伯は昌之介に向き直った。
「昌之介様。先程も申しあげました通り、どうぞお屋敷お戻りください」
「先程も言った通り、帰る気は無い」
「そう言う訳だ。さっさと帰ってもらおうか」
「貴様には最初から聞いちゃいねぇ」
獣のように喉の奥で唸りあう熊吉と高瀬の間に、火花が散るのではないかと思わせるくらいの睨み合いが勃発する。そちらを気に掛けながらも、佐伯は構わず話を続けた。
「何故に斯様なことを仰られるのですか?」
「俺がいなくても弟がいるだろう。俺が死んだことになっている方が、藩も都合が良いのではないか? 次代もまた優秀な藩主を得られるのだからな」
「そのようなことはございません。お家を継がれるのは昌之介様しかおられません」
「そうでなくば、教育係であったそなたの面子が立たないか?」
「昌之介様、私のことはよいのでございます。貴方様はどうしてそのようにご自分を卑下なさるのでございますか?」
佐伯の問いに昌之介の眉がわずかに動く。どうしてだと? と低く地を這うような声が発せられる。頭を下に向けていた佐伯が声に反応して顔を上げれば、眉間に皺が寄せて憤然とした顔の昌之介が目の前にいた。熊吉たちも睨み合いを止めて昌之介を見つめる。
「そのようなことを問うなど、どれだけ俺を惨めにさせるつもりだ! 父上が、母上が、お前たち家臣が、俺を要らぬと申したのではないか! 弟の方が良いと、お前たちが申したのだ! だからこちらから出て行ってやったのだ! それの何が悪い!」
憤りを見せ、肩を上下させながら荒い呼吸をくりかえす。ぶつけられた感情に佐伯は呆気にとられていた。目の前の方はこんなにも、己の感情を表に出す方だったか?
熊吉が落ち着けるように昌之介の背中をゆっくりさする。それに合わせて呼吸をくり返し、ようやく昌之介の呼吸が落ち着いた。疲れたように顔を下に向け、目元に手を当てて表情を隠す。
「もう、放っておいてくれ」
その声は先程と打って変わって、弱々しいものだった。佐伯はそんな昌之介に両手を脇につき身を低くする。
「残念ではございますが、そのような訳には参りません。貴方様には貴方様のお役目がございます。貴方様お一人の我儘を通す訳にはいかぬのでございます。どうぞご理解くださいませ」
彼の言葉は、まさに無情であった。
「昌之介様。他者を貶めず他者を心より慮るは、貴方様の長所。人の上に立つ者として大切なこと。そして、弟君には無いものにございます。その事を、どうぞお忘れになりませぬように。それでは明朝、お迎えにあがらせていただきますので、それまでにお心をお決めくださいませ」
佐伯は深々と頭を下げると立ち上がり、昌之介に背を向けた。高瀬もそれに続く。出て行く直前に佐伯は振り返り、折り目正しく深々と昌之介に頭を下げた。
「では、失礼いたします」
「おお、帰れ帰れ。二度と来んな」
熊吉は虫にするように二人の背中に向けて手で追い払う。高瀬は敷居を跨ぐ直前、熊吉の方を振り返った。
「町人の分際で邪魔立てしようなどと考えるなよ。どうなっても知らんぞ」
高瀬は鼻で笑うと家を出て行った。通路には家の中を覗いていた人たちがおり、二人が通れるように道の真ん中を開ける。高瀬はそこにいた者たちにも、お前らもだぞ、と言葉を吐き捨てて歩く。二人はそのまま長屋の人々の忌むような視線に晒されながら長屋を後にした。
高瀬の言葉は、強迫そのものであった。このまま昌之介を囲い込んでいれば、その内何かしらの力がこの長屋に加えられることなど想像に難くない。
昌之介の背中に嫌な汗が流れた。口で繰り返される呼吸は浅く、細かく震えている。
ぶつくさ文句をたれながら玄関先と長屋の木戸の前に塩を撒いてきた熊吉が家に戻れば、昌之介は顔面蒼白になっていた。
「おい! 大丈夫か!」
両肩を掴んで揺すれば、青い顔した昌之介がぼんやりと顔を上げる。熊吉の声に反応して何人かが熊吉の家の中を覗きこむ。
「俺は、やはり」
「出て行くなどと口にするなよ。武士に二言は無いものでござる。お主の決意は容易く曲げられるほど、弱いものだったのでござるか?」
喉から絞り出すように出た昌之介の言葉を遮ったのは青山であった。全員の視線が彼の方を向く。昌之介は床に手をつき上げていた顔を俯かせる。
「だが、このままでは、この長屋に迷惑がかかってしまう」
「今更だろ?」
昌之介は弾かれたように顔を上げる。目の前にいる熊吉はにやりと笑うと、事もなげに言葉を続けた。
「あんたが来たときからおらぁ、衣食住全部面倒見てんだ。それを迷惑なんて思ったこたぁねぇし、他の連中も思っちゃいねぇよ」
「だが、それとこれとは」
「一緒だよ。庄さんとこの長屋で一緒に暮らしていく。これまでもこれからも、何も変わんねぇよ」
熊吉の言葉に昌之介は目を潤ませ顔を歪めた。唇を噛みしめながら漏れ出そうになる嗚咽を何とかこらえる。今にも泣きだしそうになっているのに気が付いた熊吉は、何だよ、と笑ながら昌之介の頭をガシガシと撫でた。まるで子供にするように。
「お前、男のくせにまた泣いてんのか?」
「泣いてなど、いない!」
「その顔で強がんなよ」
昌之介が何とか強がりを見せようとしたが、熊吉は笑って相手にしない。頭の上の手は、変わらず頭を撫で続ける。熊吉の笑い声につられ、家の外にいた者たちも昌之介に飛びついて頭を撫でまわす。いつの間にか昌之介は笑顔に戻り、涙は止まっていた。
「しかしこれからどうするのか。何か策はあるのでござるか?」
和やかしくなった空気に、静かに青山は水を差す。彼の言葉に皆は動きを止めた。佐伯たちは明朝ここに来ると言っていたのだ。昌之介はまた下を向いてしまう。
「追い返しゃあいいんじゃねぇか?」
沈黙を破る一言。声の元に一斉に視線が集まる。視線の集まった先はきょとんとしている一太であった。視線は言葉の続きを催促しており、一太は躊躇いがちに続ける。
「いや、だってよ。乗るつもりのねぇ籠なんざ、追いか返しゃあいいんじゃねぇの? 普通に考えて」
一太の言葉に、確かに、そうだな、という声が口々に上がる。
「あんな連中追い返してやろうぜ!」
「いざとなったら長屋で籠城だ!」
「侍相手に戦だぜ!」
皆の気分は荒事に向かっていっている。気の短い江戸っ子たちにとって喧嘩など日常茶飯事、慣れたものである。喧嘩をするとなって男衆は俄然やる気に満ちていく。仕舞いには鬨の声まで上げ始めた。
「まぁ、そんなに気負うことは無いよ。庄さんを守るついでにお侍相手に憂さ晴らししようって言うだけなんだから」
盛り上がっている男たちに置いて行かれている昌之介に、お由が声をかけた。そのまま彼女は男たちを置いて出て行く。戸口にいたはずの青山の姿もいつの間にか消えていた。
熊吉の家の中は再び酒盛りとなった。英気を養うという名目ではあるが、皆どう考えても翌日に影響しそうなくらいに酒を口にしている。昌之介は回り始めた酒を抜こうと宴の輪から外れ、部屋の奥にある障子戸を開けて夜風にあたる。もみくちゃにされた頭は髪結が酔っぱらってしまう前に結い直してもらい、髪が風に揺れることは無い。
水を飲んで霞のかかる思考をどうにか直そうとする。二杯三杯と杯を重ねれば、徐々に靄は晴れて行く。
長屋の皆はああ言っていたが、実際はそう簡単は話ではない。拳と拳の単純な喧嘩ではない。武士である以上、甲田家から来る者たちは皆帯刀しているのだ。下手をすれば長屋の者に死者が出かねない。
そこまで考えて、昌之介の背筋に悪寒が走った。夜風の肌寒さなどではなく、恐れから来るものだ。長屋の者たちにも、甲田家の者たちにも死者も怪我人も出したくは無い。
だが、ここを出て行きたくもない。昌之介にとってここでの生活は、己を見てくれる者たちに囲まれた、離れ難いものである。だが下手をすれば勘当の上で脱藩者としての処罰を受け、長屋の者たちも共犯だと裁かれかねない。
帰ろうとも帰らずとも待っているのは地獄のように昌之介には思えた。
考えることを放棄しようと、持っていたぐい呑みに酒を注ぐ。一気に飲み干そうと煽った時に、ふと佐伯が去り際に言った言葉が頭をかすめた。弟には無いものが己にはある、と言っていた。世辞だったとしても、引き戻すための方便だったとしても、そんな言葉を甲田家の人間に言われたのは初めてのことである。
自分はどうしたいのか。どうするのが最良か。何度考えても答えはどうしても同じ所へ戻ってしまう。
杯に注がれた酒に映る己の顔を見て、昌之介は思わず笑みがこぼれた。映る表情に迷いなどほとんど混ざっていなかった。同じ答えに戻ってくるということは、己の意志は既に固まっているということ。
昌之介は酒に映る自分ごと、一気に飲みほした。
翌朝、昌之介は身なりを整え、井戸の縁に腰掛けていた。明六つは既に過ぎており、町木戸はとうの昔に開いている。佐伯たちはいつ来てもおかしくない。お蔭で長屋の皆、朝すべきことに手が付いていない状態である。
遠くから足が地をする音が聞こえてくる。揃った複数の足音は徐々に近づいてきているのが誰の耳にも明らかだ。長屋の中の緊張感が高まる。
木戸の正面にあんぽつと呼ばれる上等な町駕籠が停まり、その前後には数名の裃をつけた侍たち。腰には当然大小が差してある。男たちの中から佐伯と高瀬だけが木戸をくぐり、長屋へと足を踏み入れた。通路の見えるところに人影は無く、昌之介が井戸端に立っているだけである。長屋の者たちには家の中にいるように頼んでおいたのだ。しかし長屋の者たちも簡単には折れず、建物の陰に青山が控えている。
「おはようございます、昌之介様。朝早くから申し訳ございませぬ」
「いや、お前たちも役目とはいえ朝から大変だな」
昌之介の視線は頭を下げる佐伯たちを通り越し、木戸の外へと向いている。視線の先、籠の前後にいる者たちは片膝を立てた体制のまま微動だにせず、ただ黙して待機しているのが見えた。
「して、昌之介様。昨夜一晩のうちに、お覚悟はお決めになられましたか?」
「ああ。心は決めた」
昌之介の言葉に佐伯たちは顔を上げた。家の中から様子を窺っている者たちも、建物の陰にいる青山も固唾を飲んで昌之介の言葉に耳を傾ける。
昌之介はすっと目を細め、目の前にいる佐伯を見据えた。
「俺は」
細かな土を舞い上げるほどの風が路地を吹き抜け、長屋の戸をカタカタと揺らした。
【参考文献】
『イラスト・図説でよくわかる 江戸の用語辞典』 江戸人文研究会/編 廣済堂出版
『彩色 大江戸事典』 エディキューブ/編 双葉社
久方振りに短編を書きました。
一ヶ月くらい前にこの企画を知り、そこからプロットを練りつつ書き上げました。よく頑張った、自分。
書きながら、江戸っ子言葉ってどんなだったか、少しゲシュタルト崩壊してきそうになりました。
因みに、甲田家も山川家も創作した大名ですので、同じ名字の大名を見つけたとしても、そこは見逃していただきたく。自分は実在するのか調べていないので、そのあたり平にご容赦を。
最後までお読みいただきありがとうございました。