朝練の見学へ
ピンポーン……ピンポーン……。
どこか遠いところで、高い音が鳴っている。その音が、呼び鈴だと理解するのに、体感では十分くらい、しかし、実際には十秒も経たなかっただろう。
僕は、布団から頭を持ち上げて、時計を探す。いつも通り、鳴ればすぐ目覚めるように枕元に置いてあったはずだ。身体を捻り、無理やり視界に時計を入れる。
時計の針は六時半を示しており、自分が寝坊したわけではないことを知る。いや、寝坊すれば呼び鈴が鳴る仕掛けにしているわけでもないが。
なら、この呼び鈴は僕には関係ない。そう思い、二度寝しようと再び安眠体制に入ったところで
「遥希!小唄君が来てるよ!!もうっ、朝練があるならなんで言わんの!?」
邪魔が入った。
・・・朝練?
「昨日、サックスの先輩から連絡来てな。『サックスの練習が見たいなら、朝練はいるからおいで』だってよ。こりゃあ行くしかねぇってことで、じゃあ何時にあるのか聞いたら、七時半からって言うから慌てて起こしに来たんだよ。」
「電話って知らないのかな…」
「はーちゃん、スマホ持ってないじゃん。」
「いや、家にかけてよ。」
おかげで二度寝が出来なかったばかりか、異例の時間から登校を始めるという事態になってしまった。しかも帰ったら、小唄から朝練の存在を聞きつけた母の折檻が待っているかと思うと、朝日の眩しさとは真逆の真っ黒な憂鬱な気分になってしまう。
いや、朝練をサボろうとしていたわけではないんです、お母様。そもそも、朝練の存在すら僕は知らなかったし、話を聞くとどうやら楽器も決まってない一年生の時期から、朝練に合流しようなんて新入部員は僕達だけみたいなんです。
現在時刻は、七時二十分。日本人の大半が起き始める時間帯である。
当たり前だが、車はほとんどない。歩道にも歩いているのは、僕と小唄だけだ。(より厳密にいうのなら、歩いているのは小唄だけで、僕は自転車だ。)
「そんな不満そうな顔するなよ。お前もサックスやるつもりなら、練習は早いうちから見てた方がいいって。」
「……別に不満なわけじゃないよ。小唄君が行くなら僕も行くし。けど、行くつもりなら早めに伝えてくれると嬉しいな。」
「早めに伝えたろ?」
…。
小唄が伝えに来た時間は、六時半。確かに早いがそういうことではない。しかしそれを言ったところで小唄もそれは分かっていることで、意地悪に笑う表情が彼の内心を如実に表していた。
「せめて前日には伝えてくれると、僕もこんな寝ぼけ眼をこすりながら、登校せずにすむから。」
「おぉ、確かに頭もボサボサだな。慌てて準備したことがすぐに分かる。俺は嬉しいよ。」
「もし前日に伝えてくれてたら、ちゃんとした頭で登校出来たんだけどね。」
「いや、さっきも言ったかもしれんが、はーちゃんはスマホをもってないじゃん。どうやって伝えればいいんだよ。っていうか、スマホ買ってもらえよ。」
「さっきも言ったかもしれないけど、家に掛ければいいと思うよ。スマホは…まぁ、そのうち。まだ、そんなに買いたいって思わないんだ。したいゲームもないし。」
「スマホはゲーム機じゃねぇよ。……と、学校見えてきたな。」
顔を前に向けると、小唄の言う通りちょうど学校が見えてきた。学校の周りが田んぼのおかげで、結構遠くからでも見えるのだが、それでもあと三分もすれば校内だろう。
僕はさらに学校の4階にある音楽室に焦点を合わせる。確かに、人影がある。ならば、そろそろ音が聞こえてくるのだろうか、と耳を澄ませてみれば、ちょうど楽器の吹き始めのようで、聞き覚えのある音が聞こえてきた。
「朝からラッパの音を聞くことになるなんてね。まるで、自衛隊みたいだ。」
「軍隊ラッパなぁ。俺、目覚ましがまさにそれだから、特別違和感ねぇや。」
軍隊ラッパ??
トランペットの音、という意味でラッパの音と言った僕だったが、自衛隊のラッパと僕の想像しているトランペットは違うものなのだろうか。軍隊ラッパという名称すら初耳である。
今僕の頭の中にあるトランペットは、円筒状の金管楽器で、片方が外に向かって広がっており、もう片方から息を吹き込んで出す楽器だ。円筒状の中腹にはピストンが三つ並んでおり、様々な組み合わせでピストンを押し込むことで音を変えることができるらしい。
軍隊ラッパはそんなトランペットではないのだろうか。
そんな僕の思考はお見通しらしく、小唄は
「ちなみに、今聞こえてるのはトランペットの音で、軍隊ラッパとは違うからな」
と捕捉をしてくれた。
昔、某動画サイトで聞いた自衛隊の起床ラッパの音と、今聞こえているトランペットの音は同じもののように聞こえるが何がちがうのだろうか。楽器が違えば、構造が違い、構造が違えば、音も大きく変わると思うのだが。
「トランペットの種類的な話?」
「いや、ラッパはトランペットではあるけど、トランペットはラッパではないといううんちく話。簡単にいうと、出せる音に差があるんだよ。」
まぁ、詳しいことは帰りにでも教えてやるよ、と言い残して、小唄は下駄箱に走って行った。
結局のところ、構造の違いまでは教えてくれなかったが、もともと興味があるわけではないので、あまり気せず僕は駐輪場に向かった。
やはりというか、止めてある自転車は数える程度しかなかった。さらに言えば、一年生に割り振られた駐輪スペースには自転車は一台もなかった。
当たり前である。小唄が連絡を取っている先輩いわく朝練が始まるのは七時半であり、今はまだ七時二十五分である。本来、来る必要がない一年生がいる時間ではない。
うるさく五分前行動を心掛けるように言う僕の担任にこのことを話せば、褒められるのではないか。いや、話すつもりはないけれど。
僕は、乗り気ではない心に身をまかせ、ノロノロと自転車を止め、ノロノロと下駄箱に向かう。すでに、小唄は音楽室まで行ったようで、小唄の姿はない。このまま教室で寝てしまおうかという考えが一瞬よぎったが、小唄が行っている以上僕が行かないわけにはいかない。小唄にやる気がないと思われる。
小唄に見捨てられる。
僕は、階段を一段飛ばしで駆け上がる。今一瞬だけ冷えた心に熱を取り戻させるかのように激しく動き、体温を上げようとする。三階に辿り着くころには、足が重くなり、息も少し乱れ始めた。
後、一階だ。と、階段に足をかけたところで止まる。
背後の教室で、楽器の音がしたからだ。この音は聞いたことがある。6の字型の楽器、サックスの音だ。
朝聞いたトランペットのような力強く明るい音とは違う、どこか品を感じさせる、しっとりとした音。何処か喫茶店に入ったときおしゃれなBGMとして聞こえてきそうな音が、階段を上がろうとしていた僕の後ろから聞こえてきたのだ。
僕は方向転換して、音が聞こえる教室に進んでいく。理科実験室とプレートがかかっており、黒いカーテンのようなものがかかっているせいで、外から中の様子を見ることが出来なかった。
自然と、扉に手がかかる。なるだけ聞こえてくる音の邪魔をしないようにゆっくりと横にスライドさせていく。
人一人が入れる広さまで開くと、カーテンをくぐり、中に入った。
中にいたのは、女の人が一人だけだった。リボンの色を見るに多分二年生だろう。特徴的な赤色の髪の毛を、耳の上あたりでまとめている。まだまだ幼さを残した顔立ちだが、それが逆にプラスに働いており、楽器を吹いている凛とした姿は、格好良く一枚の絵を見ているかのようだった。
女性は、僕に気付いていないのか、あるいは集中しているのか女性の視界に入る形で立っているだろう僕に対して無反応で、楽器を吹き続けていた。
彼女の吹く楽器の音は、小唄のそれと、もちろん僕のそれともまるで違った。 体験入部の時、小唄のそばで最も聞き続けた楽器の音だったが、音の持つ重みがまるで違った。目を閉じ、ただその音だけを聞いていたいと思うほどに、女性の音はきれいで、落ち着く音だ。
ふと、彼女は演奏を止まった。
なんだろうと思う間もなく、彼女は僕の背後を指さし扉を閉めるようにジェスチャーした。
僕は慌てて扉を閉める。
「初めまして、アルトサックス担当の二年、依辺奏よ。あなた新入部員よね?」
僕は慌てて何度も頷く。
その様子に彼女はケラケラと笑う。
「緊張しないでいいのよ。ごめんね、昨日はいなくて。私も四月も夜具先輩も、それぞれ別の用事があって来れなくてね。今日から一年生も練習が始まるし、見学できる時間も限られてくるだろうから、高槻君経由で呼んじゃった。って、アレ、その高槻君は?」
「わ、分からない……です。」
「あー、そっか。まぁ、そのうち音を聞きつけてくるでしょ。君は名前なんて言うの?」
「日頼遥希、です…」
無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ。
小唄も言っていた通り、緊張しいの僕である。勿論、人見知りもする。そんな僕が、この人のことを何も知らない僕が、初対面でしかも年上の人と二人っきりで会話するなんて無理だ。今にも、心の中一杯に広がっている不安を吐いてしまいそうである。
小唄は何やってるの…ッ!!
そんな僕のことなどお構いなしで、目の前の先輩は話を進める。
「そっか、日頼君ね。じゃあ日頼君、見学しに来たついでにちょっと練習に付き合ってくれないかな?」
そう言って、先輩はスティックを二本差しだしてくる。僕は、これまた慌てて足を動かして先輩の傍まで来て、スティックを受け取る。
受け取ったスティックは、太鼓やドラムを叩くときに使ったものとなんら変わらない。棒状に整えられ、先に行くほど細くなり、小さな豆が先端に付けられたかのような形をしている。
先輩は僕にスティックを渡すと、今度は机の上に置いてある青色のゲーム機のような機械を見せた。
「これはメトロノームって言ってね、一定のテンポを音で示してくれるものなの。今から、私はロングトーンっていう練習をやるから、日頼君にはこのメトロノームから出る音に合わせてスティックを叩いてほしいの。」
こんなふうにね、と先輩は僕のスティックが握られた手を握り、スティック同士をぶつけて見せた。
なるほど、分かりやすい説明だ。
しかし、僕の頭の中には、吐き出しそうな不安と緊張と、何の躊躇もなしに触れてきた手に対する困惑だけだった。手の甲から伝わる先輩の手の柔らかさや体温が何かいけないことをしているような気持ちになる。そんな気持ちは恥ずかしさにつながり、顔の熱へと変化していった。
耐えられなくなり、僕はなかば先輩の手を振り払う形で、身体ごと手を引っ込めた。
「わ、分かりましたから。練習っ、するんでしょう…。」
噛み噛みである。
先輩は面白そうに笑っていたが、それ以上何も言わず、楽器を構えた。
僕は言われた通りに、メトロノームから出る音に合わせて、スティックをぶつけ始める。
数秒後、先輩のサックス音が理科室に響いた。
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