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ヨルベのない音  作者: 幸村 洋夏
12/16

初めての楽譜:試験前


 楽譜を見るのに集中していたので、僕は最初、福原先輩が僕を呼んでいることに気付かなかった。


「おい、はーちゃん。」


 横からの、小唄の声に反応して、ハッとしたように顔をあげる。

 目が合った福原先輩は、僕に、元々微笑んで見えるその小さな瞳をさらに萎めて、笑顔を作り、もう一度僕の名前を呼んだ。


「次は、日頼くんだよー。」


 いよいよ、僕の番だった。

 いつの間に小唄は終わったんだろう、楽譜に集中していて気が付かなかった。

 僕は、慌てて立ち上がると、集めてしまった注目を振り切るように駆け足で、楽器室に入っていく。

 前に、楽器室には一度入ったことがある。依辺先輩の楽器をここに仕舞うために、依辺先輩の連れ添いで入ったのだ。

 楽器が多い。いや、正確には、楽器ケースが多い。楽器そのままに置いてある楽器はひとつもなく、トランスケースのような長方形の形をした楽器ケースが多く、この場所に置かれている。チューバのような楽器ケースが特殊な形をしているものもあるが、おそらく僕には関係ないだろう。

 この二週間で、チューバになろうなんて一度も思ってないのだから。

 いや、何度か強引な先輩に連れて行かれそうになったけど。

 そんな、様々な楽器ケースに囲まれるような形で、水戸先生は座っていた。学習机と椅子が二組ずつ向かい合うように並べられ、水戸先生は楽器室に入ってくる僕と正面に向かい合うように座っていた。

 僕は、先生に促されるまま、先生の真向かいに座る。


「よろしくお願いします。では、お名前と第一希望楽器を教えてもらっても良いですか?」


水戸先生は、僕の書いた楽器希望記入用紙を見ながら、僕に言う。おそらく確認だろう。


「……日頼遥希、テナーサックスを第一希望にしています。」

「はい、では、先に木管の適性を見させてもらいます。リズム練習の楽譜を持ってきていますか?」


 僕は、先ほどファイルから出しておいた楽譜を机の上に置く。この二週間、ずっと練習していた楽譜だ。端の方が、少しだけ丸まっていた。


「日頼君は、なにか楽器を習っていましたか?」

「……習っていません。」

「では、どうでしたか?日頼君にとって、この楽譜が、初めて練習した楽譜になるわけですが、難しかったですか?」

「……難しかったです。」


 緊張で、口の中がやけに乾く。

 多くのことを口にすると、ボロが出てしまいそうで、僕は最小限の言葉で淡々と先生の質問に答えていく。


「そうですか。では、最後の質問になりますが、この二週間、日頼君はしっかり練習しましたか?自信はありますか?」


 自信はない。だから、迷っていた。たった一つになってしまった椅子を、僕は取れないと思っているから。絶対ではなく、勝ち取らなければならない権利を、争い、勝つ自信は今も正直言って、ない。

 しかし、それは断じて、練習をしていないということではなかった。それこそ、今まで楽譜を、小唄がピアノを弾くときの光景の一部としか捉えていなかった人間が、楽譜を読み取り、リズムを理解するようになるくらいには。


「…はい。」


 力強く、とはいかなかったけれど、緊張に震える声を押し殺して、なんとか返事をする。


「それはいいですね。練習の成果を見るのが、楽しみです。」


 水戸先生は、笑顔を浮かべながら、そう言った。

 少し、ゾクッとする。

 水戸先生の笑顔は、依辺先輩のケラケラとした楽しそうな無邪気な笑顔でも、福原先輩のおっとりとした笑顔でもなく、大人の綺麗な笑い方だった。ドキドキもするが、それより中学生の僕には分からない得体の知れなさが、背中に寒気を感じさせる。


「わかりました。では、時間も押しているようですし、そろそろ始めましょうか?」


 水戸先生は、そう言うと、手元にあるメトロノームを動かし始める。

 三角錐型のメトロノームだ。この二週間、一度の機会を除いて、音楽室で練習するときに使っていたものだ。振り子が左右に揺れ、一定のテンポで音が鳴る。

 内心、『やっと始まるのか』と、ほっっとしながらも、『ついに始まるのか』と、身体が安定を失うかのような浮遊感が身体を襲う。

 緊張するな、緊張するな、緊張するな、緊張するな、緊張するな、緊張するな、緊張するな、緊張するな、緊張するな、緊張するな。

 ただ、ひたすらに、念じる。


「準備はいいですか?」


 あっ、と口に出そうになりながらも、急いで、手拍子を打つ体勢を作る。

 緊張するなっ!

 ひたすらに念じるが、効力を薄く、緊張はどんどん高まっていく。

 

「私が、ワン、ツー、スリーとテンポに合わせて口にするので、その後に始めてください。それでは。」


 始まる。

 時間が止まってほしいと思うのは、こういう時だというのを僕は初めて知った。緊張から、解放されたいはずなのに、この先に進んでほしくないような矛盾した感情だった。

 自己紹介の時は、逃げる方法があった。最小限の自己紹介、余計なことは全く言わないというできるだけ早く解放される方法だ。

 今は逃げる方法はない。きちんと叩けなければ、小唄と同じパートにはなれない。


「ワン。」


 始まる。


「ツー。」


 始まる。


「スリー。」


 始まった。

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