第四話 狂気の魔法使い
ランプに照らされた薄暗い空間に、ベッドが一つ置かれている。明かりが届かないのか、ランプのある場所しか見えない。そのベッドには赤いローブ姿の金髪の女性が寝かされていた。規則的に胸を上下させて深く眠っている。
その静かな空間にコツと靴の音が二つ同時に響く。痩せた男と太った男。二人の男の足音が、ベッドに寝かされている女性にゆっくりと近付いていった。
「随分と若いのだな」
太った男の、意外に高い声が空間に響く。
「カシルダ・メルカド。二十二歳です」
痩せた男が答えた。その男の頭にはあるはずの毛は無く、ランプの光は頭蓋の輪郭をそのまま出していた。
「私の娘と同じくらいか」
太った男は眠っているカシルダの額に手を添えた。ランプに照らされたその手は浅黒く、あまり見ない皮膚の色だった。
「侯爵様。あまり触れない方がよろしいですよ。起きてしまうと、我々の命も危ういですから」
痩せた男が注意を促すと、太った男はビクッと体を揺らした。ランプに照らされた浅黒い手はすぐに引込められた。
「この者がカテゴリーⅤ……信じられんな」
浅黒い男が唸り声を上げている。カシルダの見た目は若い女性だ。しかも可愛いとも言える外見だった。信じられないのは当然と言える。
「はい。生まれ持った強大過ぎる魔力に呑まれ我を失った、可哀想な女性です」
痩せた男は物悲しそうに伝えた。
「見た目は普通の女性ではないか」
凶悪な人物でも想像していたのか、浅黒い男は不平の声を上げた。
「ですが、一度事が起きると魔力が枯渇するまで暴れ続けます。彼女を鎮静するのにカテゴリーⅡが十人、Ⅲが五人、Ⅳが一人犠牲になりました。もっとも、怪我人を合わせれば倍では済みませんが」
痩せた男が抑揚のない声で説明すると、浅黒い男はブルッと体を震わせた。額に手をやり汗を拭いている。
「……痛ましい犠牲だな」
「その犠牲を無駄にしない為にも、侯爵様の為にも、もう一働きして貰いましょう」
痩せた男が初めて笑みを浮かべた。目を極限まで細めて見えているのか分らない線にしか見えないが、胸糞の悪くなる気味の悪いニタリとした笑みだ。
「くく、そうだな。伯爵は働き過ぎた。そろそろ引退しても良い頃だな」
太った男は体を揺らし含み笑いをしている。二人の下卑た笑みが空気を汚す。
「物事は、完璧を求めなければなりません」
痩せた男が懐から親指程の小さな赤い石を取り出した。気味の悪い笑みを貼り付けたままベッドに寝かされたカシルダに近付いていく。
「これには魔力を強制的に暴走させる魔法を閉じ込めてあります。他にも詰め込んでありますが、どれが有用なのかをついでに試させて貰いましょう」
そう言いながら痩せた男は寝ているカシルダの足元からローブの裾に腕を入れ込んだ。ローブが腕の形に盛り上がり、それは女性の下腹部に達した。
「うっ!」
寝ているカシルダが眉間にしわを寄せくぐもった声を上げたが、すぐに寝息は安定した。痩せた男が満足げにローブから腕を引き抜くが、その手に赤い石は、無かった。
「くくっ。くっくっく」
痩せた男が含み笑いを始めた。湧き上がる黒い感情を我慢できなくなったのか、彼は大きく仰け反って笑い始めた。次第その声は大きくなっていき、その空間を笑い声で満たした。
「ははっ。はははは! くははははっ!」
一頻り高笑いをすると痩せた男はピタっと笑いを止め、真顔になった。浅黒い男は額の汗を拭う事も忘れ、茫然と痩せた男を見ている事しか出来ない。
狂っている。
浅黒い男は、恐らくこう思ったのだろう。だが賽は振られてしまったのだ。毒は皿ごと食わねばならない。
侯爵と呼ばれた浅黒い男は、ごくりと唾と覚悟をのみ込んだ。
「侯爵様、急ぎましょう。一時間もすればここは火に包まれましょう」
「そ、そう、だな……」
二つの影は足早にその空間から逃げるように去って行った。この空間はまた静寂に包まれ、カシルダの静かな寝息だけが漂っていた。
『毒華』の最上階のあの部屋で、サイラスは準備をしていた。黒い剣に、いつもは装着していない防具類をエイラが持ってきていた。あの魔女がどうやって持ってきたかなど考えるだけ無意味だ。
綿の黒いシャツに、胸にはナイフを五本差せるホルダーを括り付け、剣と同じ材質と思われる黒い手甲とひざ当てを付けている。
「はい、こっちですよ」
「いま結ぶから、ちょっと待って下さい」
「はい、出来ましたよ」
脇ではヴァネサがネグリジェのまま、甲斐甲斐しく手伝っていた。終わるとパンパンと手を叩き、にこりと満足げな笑みを浮かべる。
こんな事が過去何回かあったり、意外にも慣れた手つきだ。もっともその時にエイラはいなかったようだが。
そのエイラはちょこんとソファに座り、そんな二人の様子を目を細めて見ていた。
「よし、こんなもんか」
立ち上がったサイラスは、背中に黒い剣を背負い、胸と足に複数のナイフを差し、腰には鞭を取付けてある、という出で立ちだ。防具らしき物は黒い手甲とひざ当てだ。
『殺られる前に殺れ』
非常に漢らしい出で立ちと言える。
「では行くかの」
いつの間にか窓脇に立っていたエイラは身の丈ほどの杖を持っていた。両端に丸い透明な石が埋め込まれた、黒く細い杖だ。魔女に、その杖はどこにあった、などと聞くのは無粋だ。機嫌を損ねた彼女に燃やされるのがオチだ。
「じゃあ行くぞ」
窓から出て行こうとする二人をヴァネサは手をぎゅっと握り、心配そうに見ていた。サイラスが戦う所など見たことのない彼女だが、彼が途方もなく強いという事は知っている。公都で裏稼業に手を染めている者ならば常識だ。
だが戦いに行く人をすんなりと送っていける程、彼女は強く無い。それが、ある感情を向ける異性なら尚更だ。
そんな彼女に気が付いたサイラスは、近づいて頭をぽんぽんと優しく叩いた。
「俺達が死ぬ訳ねえだろ。そんな事は心配するだけ無駄だ。朝までには帰ってくるから、ゆっくり寝てな」
振り返り去ろうとするサイラスの硬い手を、ヴァネサは、ぎゅっと掴んできた。 なんだ、という風にサイラスが首を捻ると、ヴァネサが手を下に向けしゃがめと命令してくる。頬を膨らませながら、何度も何度も手を下に向けて。
「なんだよ」と訳が分からんと言う顔で渋々しゃがむとサイラスに、ヴァネサは顔を近づけて頬に唇を落とし、そのまま首に手を回してぎゅっと抱き付いてきた。
表の喧騒しか聞こえない静寂の中、サイラスの体からヴァネサがゆっくりと身体を離していく。
「……御無事で」
ヴァネサが唇を噛みながらも、儚げなに微笑んでくる。
「女神様の祝福を、先払いで貰っちまったな」
神に祈るように手を合わせたヴァネサに見送られ、サイラスは凶悪な笑顔を浮かべ窓から出ていった。
「はぁ、はぁ、うぐっ。はぁ、はぁ」
薄暗い空間のにあるベッドに寝かされている、ローブを着た若い女性の寝息が乱れだした。苦しそうに呻き声を上げて、呼吸が荒く、速くなる。額に汗をかき、拳を硬く握りしめた。
「うあぁぁぁぁ!」
突然雄叫びを上げ、ギッと目が開かれた。その瞳孔は開き、焦点など合っていない。何か恐ろしい物でも見たかのように、カッと目は開かれている。
「があぁあぁぁぁ!」
彼女はベッドの上で苦しそうに喉を掻き始めた。息が苦しいのか、血が滲んでも止めようとはしない。
すると彼女の下腹部に不気味な赤い光が宿った。ローブの上からでもハッキリと分かる程に、禍々しい赤い光が瞬いている。
「ぐっ、ぎゃっ、がぁぁあぁぁ!」
彼女の身体全体が赤く光だし、そしてローブに火が灯った。灯された火は、瞬く間にローブを焼き尽くし、彼女を生まれた姿に戻してしまう。
だがそれでも焔は止まらなかった。彼女の身体を覆うように焔は蠢き始め、まるで蛇の様に、焔は彼女の身体を貪るように這いずり回る。そして四肢に絡みつくと、盛大な炎を吹き上げた。
「……きゃは」
彼女はニタリとした笑みを、その綺麗な顔に、張り付けた。ムクリと体を起こし、手を翳した。
「燃えちゃエ。ぜぇぇんぶ、燃えちゃエ!」
嬉しそうな声色の、カシルダの言葉が消えると同時に、薄暗い空間は轟音と爆炎に包まれた。
既に太陽は地平線の下に隠れて鼾を掻いている時間、薄暗い月明かりの中、屋根を駆け抜ける影が二つある。地上からの高さも違う、更には距離もある建物の上を、まるで平地を走るように疾走していく。
一つは人間ではありえない巨躯。もう一つは小さい、少女程の大きさだ。それぞれ長い物を携えて駆けている。
道行く人々は建物の上など気にはしないし、見ていたとしても、闇に動く影など見えない。
駆ける影の一つ、サイラスは屋根を駆け抜けながら前方を見つめた。
エイラの持ってきた情報とは、彼女が異常な魔力を感知したという物だった。
「標的のカテゴリーⅤの魔法使いはカシルダ・メルカド。二十二歳、女」
走ると言うにはおかしな歩幅で宙を滑るように移動しながら、もう一つの影、エイラが叫ぶ。
「そいつは美人か?」
顔は前を向いたままサイラスは聞いた。
「……何を考えてるんだい」
エイラが呆れて尋ねればサイラスは「俺みたいな筋肉馬鹿には狂気の魔法馬鹿がお似合いかな、って思っただけさ」と答える。
「ヴァネサがそれを聞いたら、泣いて寝込んじまうよ」
「……残念だが、俺はあいつの客の一人でしかねえんだ」
サイラスは屋根の上を走りながら器用に肩を竦めた。エイラはその言葉を聞いて額に手を当てた。
「はあぁぁぁ。サウロンも疎い甲斐性無だったが、息子のお前はそれ以下かい。頓痴気は血筋だねえ」
エイラは大きく頭を振り、体の中の空気を出し尽くす特大のため息をついた。
「何か言ったか?」
「馬鹿に付ける薬は無いと言ったんじゃ!」
「はは、良く知ってるじゃねえか!」
「お前の事じゃ、この戯けが!」
いま二人は、そのカテゴリーⅤの魔法使いの魔力を感知した場所に向かっているのだが、この先はスラムと隣り合っている、あまり上品ではない暴力が法律の役目をはたしている地区だ。ただし隠し事には持って来いの場所と言える。
目を凝らしていたサイラスが、遠くに燃え盛る炎を見つけた。
「ちっ、遅かったか」
夜空を赤く染め始めた焔は次第に近づき、それと共に悲鳴や怒号が聞こえ始めた。
「サイラス、急げ!」
「んなこたぁ分かってる!」
エイラの煽りにサイラスは大きく跳躍した。腰の鞭に手を掛け左手で振るう。人外の力で振り回された鞭はミチミチと悲鳴をあげ数軒前の屋根を掴む。
サイラスはグイと鞭を引き寄せると逆に自らの身体が前方に押し出される。走るよりも速く空を滑空していく。
だが遠方で爆発音が響き、追って衝撃波が襲い、肌を揺らした。
「派手にやってるな! 俺も混ぜてくれや!」
赤い野獣はそう叫び、鞭を振るった。
燃え盛るソコは阿鼻叫喚を具現化していた。木造の建物はどす黒い煙を吐き出しながら、赤く光って燃えていた。
「くそっ、なんであんな化け物がいるんだよ!」
這いつくばり、必死に何かから逃げようとしている男が叫んだ。そして上から落ちてくる焔に飲み込まれ、赤く燃えていった。
感情を逆なでする、吐き気を催す臭いがサイラスのいる少し離れた屋根にまで充満していた。
「た、たすけて! い、いやぁぁ!」
火に包まれた建物の中から劈くような女の声が聞こえてくる。逃げ遅れたのか閉じ込められてしまっているようだ。
だが火災で脆くなったのか、建物はぐしゃりと折れ畳まれるように崩れた。そして、静かになった。
「逃げろ、崩れる!」
崩れる落ちる建物から命からがら逃げ延びた男が、叫びながら走っていく。火の粉がその男と一緒に、竜巻のように回転しながら舞い上がり、遠くに火の雨を降らせているのが見えた。
「熱い! 助けて! 助けてぇ!」
赤く染まった空に女の悲鳴が高らかに響き渡る。幾つもの助けを求める泣き叫ぶ声が、恐怖に震える断末魔の雄叫びと共鳴していた。
地上では真っ赤な閃光と遅れてくる轟音が、夜空に命の終わりを映し出していた。
ただ一人、狂った魔法使いを除いては。
「きゃははは! 燃えちゃエ! きゃははは!」
災害の中心では、一糸纏わぬ裸の若い女が狂気に歪んだ顔で奇声を発し、焔を身に纏い操っていた。湧き上がる歓喜をそのまま顔に張り付けて、翳した手から人を包み込めるほどの火球を繰り出しながら周囲を火の海にしていた。
「ちっ、あいつか!」
周囲の建物には火が回っており、サイラスは咽るような熱気の中、地上に降りて駆けていた。炎に包まれた路地の先には狂気に嗤う裸の女が、喜びに打ち震えながら燃え盛る業火で殺戮をしていた。
既に悲鳴を上げられる人間は炭になってしまったようで、鼻を塞ぎたくなるような臭いを放っていた。
呼吸をするのにも苦労する灼熱の中、サイラスは背中の黒い剣に手をかけ、一気に引き抜いた。
「きゃはは! まだイタ!」
狂った女は向かって来るサイラスを見つけた。彼女はベロリと舌なめずりをしてゆっくり、狙いをつけるように右手を翳す。
「きゃはっ! 燃えちゃエ!」
翳した手の前に、狂気の女を呑み込めるほど巨大な火の玉が浮かび上がる。そして何の予兆もなく打ち出された。火花をまき散らしながら、巨大な火の塊が想定外の速度でサイラスに迫る。
サイラスは「ちっ」と舌打ちをした。斬るには相手がデカすぎた。斬ったところで巻き添えを喰らうのがオチだ。
「やられるかよ!」
サイラスは地を蹴り燃え盛る建物の壁に跳躍し、掠りながらも巨大な火の玉を躱すと、そのまま壁を蹴り破り炎に包まれた建物に突入していった。
避けられた火の玉は直ぐに炸裂音を響かせて周囲の建物を激しく揺らし、脆くなった建物はその衝撃で崩れていく。
「アハハ、自分から死にに行っタ! バカダ。きゃはは! きゃはははは!」
女は腹を抱え、狂った様に笑った。
お読みいただき有難う御座います。