お話があります、店長。
「いらっしゃいま……明希?」
10時でバイトを上がりS駅店を出た後、私はその足でM駅店にやって来た。大学の二限はさぼり、である。精神状態が授業どころでは無かったので、止むを得ず。
入店した私は唇をとがらせ、頬を膨らませ、目をジトーーッと細め、カウンター内に居る須藤店長を睨んでいる。
「……お話があるので、須藤店長が空くまで待ちます。アイスコーヒーとBサンド、下さい」
「わかったから、その絵に描いたような不機嫌顔を止めなさい。可愛い顔が台無しデスヨ? 明希サン」
「不機嫌だから不機嫌な顔してるんですよっ。今はそこをイジらないで下さい!」
私がキイッ! と噛み付いたので須藤店長はそれ以上は私をつつかず、Bサンド用のパンをトースターに投入し、グラスに氷を入れてアイスコーヒーを注ぎ始めた。
レジ前に立っていた店員君が“誰?”と書いた顔で私を見ている。
はっ。
黒髪好青年! のイケメン!
私は反射的に笑顔になり、会釈した。
「お疲れ様です。S駅店に勤めております、長澤と申します」
黒髪好青年はパチパチと瞬きをした後、会釈を返してくれた。
「野口、です」
野口君、か。
見た感じ私と年同じ位だ。大学生かなぁ。
そこへ店長がトン、とアイスコーヒーを出してくれた。
「Bサンド作って持ってくから、どっか座ってな。野口、レジ打たなくていいよ。俺の驕り」
私は野口君に向けていたニッコリ笑顔をそのまま須藤店長の方に向けて「ご馳走様です」と頭を下げた。
***
「で、どうした?」
Bサンドを食べ終わり、アイスコーヒーをチビチビ飲んでいたところへ、須藤店長がやって来て向かいの席に腰をおろした。手には自分用のアイスコーヒーを持っている。
とりあえずお客様の波が落ち着いたので来てくれたようだ。
「今朝は山田、遅刻せずに来てたんだろ? 何か他に勤務態度に問題でもあったか?」
「仕事の方は問題ありませんが、道徳的には問題大ありです。営業中だというのに唇を奪われました」
ゴフッ!
須藤店長は口をつけていたアイスコーヒーを盛大に喉に詰まらせた。
「げほげほ! き、気管に入ったっ……」
「だ、大丈夫ですか!」
私は涙目で苦しそうに咳込んでいる須藤店長の背中をしばらくさすり続けた。
やがて落ち着きを取り戻した須藤店長が低いうめき声をあげる。
「山田の野郎……俺を殺す気か」
そして動揺の眼差しを私に向けた。
「明希……俺はお前をそんな娘に育てた覚えは……」
「待って下さい。私への好感度下げないで下さい。言っときますけど、お客様からは死角で誰にも気付かれてはいませんし、不意打ちで私は同意してませんから!」
「そ、そうなの……」
須藤店長は少しホッとしたように肩の力を抜いた。
同意はしていなかったし困ってはいるが、実はイヤでも無かった……ことは今は伏せておくことにしよう。うん。
須藤店長はふぅ〜、と溜め息を吐いた。
「明希スマン。俺が思っていたより山田の暴走レベルが高かったっぽい。まさかセクハラ駄目絶対、と昨日刺したばかりの釘を、今日速攻で抜かれるとは……」
「いえ。普通あんなことするとは誰も思わないので仕方ありません」
それに……
山田は、ちゃんとわかっているのだ。セクハラは駄目だということは。
おそらく、あの時山田は、一瞬で見極めたのだ。両肩を押さえ至近距離で覗き込んだ私が、驚いてはいたが、拒否反応は示していなかったことを。
だから、決行した。
つまり、見抜かれてしまったのだ。私が山田のことを憎からず思っていることを。故にセクハラにはならない、と。山田なりに判断しての行動なのだろう。
そうです。非常〜に不味い事態、なのです。
私がイヤがってないらしいと気付いた山田と二人で早番勤務なんて。
悪い予感しかしない……!
イヤではないと言っても、営業中にグイグイ来られるのは絶対ダメ! だし。私的にはできるだけ二人の関係も進めたくない! し。でもあの調子で来られては逃げ続けられる自信も無くて……
須藤店長に泣きつきに来てしまった、というわけだ。
「やっぱり、私、M駅店に避難した方が良いかな〜、と、思いまして」
「うーん……」
須藤店長は目を伏せて、しばし何か考え込んでいるようだった。
私はアイスコーヒーを飲み、そんな須藤店長の沈黙を、大人しく待っている。
やがて須藤店長は目を上げて「ひとつ、聞いてもいいか」と私を見つめた。
「明希、山田のこと、好きか」
静かに、仰った。
私は、咄嗟に何も答えることができず、しかし顔には熱が集まってしまうのは止められず。須藤店長の顔を見つめ返していた。
「そうか……」
須藤店長は再び目を伏せて、沈黙した。
さすがは須藤店長。私の生態など、まるっと全てお見通しなのですね。
おそらく、全てを察せられた。
私に芽生えた山田への好意も。
それを進めたくない葛藤も。
逃げる自信が無いことも。
全て。
それを踏まえての、しばしの沈黙。
「わかった」
須藤店長は、私を安心させるように、穏やかな声で仰った。そして「ちょっと俺に任せてくれるか?」と仰ったので「はい」とお答えして。
私は大分薄くなってしまったアイスコーヒーを全て飲み干す。
その後須藤店長は私や野口君に幾つか指示を出し。「それでは失礼します」と頭を下げてお店を出ようとした私を「明希」、と呼び止めた。
「ありがとう」
須藤店長は静かに微笑んで、言った。
何が、でしょうか。
須藤店長が一方的に私に託したやさぐれたチャラ男のやる気スイッチを、入れたことでしょうか。
ダメだと思っていたのに不意打ちでやる気を出したその男に、好意を持ったこと、でしょうか。
それとも、両方?
わからないけど、私もただ、静かに微笑んで。M駅店を後にした。
***
時刻は朝の6時30分。
本日も無事に遅刻せずに店にたどり着いた俺は、着々とオープン準備を進めていた。
カウンター内のマシンを立ち上げ、制服に着替え、ホール内の清掃、カウンター周り、出入口周りなどを整え。
カウンター内に入り、金庫からお金を出し、レジ内にセットする。
そろそろ明希ちゃんが、来る頃かな……
俺の顔が知らず知らず、ヘラリと緩んでしまう。
須藤さんの計らいで、四月からS駅店の店長に赴任した俺だが、正直やる気はナシナシだった。今すぐ辞めようと思っていた仕事を、あと三ヶ月やってみるだけ。そんなテンションだったから。
最低限のことしかやらず、ほぼ毎朝遅刻。我ながらひどい勤務態度だが、ここ数年かけてガッツリやさぐれていた俺のやる気スイッチは完全にオフになってしまっていて、自分でもどうしようもなかった。
そんな俺を見て、黙って早めに出勤してくれるようになった明希ちゃん。
思うところは色々とあるようだが、必ず笑顔で挨拶することは忘れず、俺に何か言うより先に、開店準備に精を出す。
それは店長という、立場が上の俺に下手に出ている訳では無く。男性としての俺に媚びている訳でも無く。そして「遅刻」「のんびり」などとやんわり窘めてくれる。彼女の側は、とても居心地が良かった。
そんな女の子に会ったのは、初めてだったので。二人で早番勤務を始めてから、かれこれ二週間程が過ぎた一昨日、思わず言ってみたのだ。俺が今までに親や、先生や、上司に散々言われてきた台詞を、君は俺に一回も言わないね、というような事を。
「いや、思ってますよ? でも店長はそういう人だからな、って思ってるだけです。多分、今まで他人から何度も言われてきてるでしょう? 自分でもわかってるけど、変えられないんでしょう? じゃ、そのまま行くしかないじゃないですか。私がどうこう言う筋合いではありません」
明希ちゃんのその答えに。
俺は衝撃を受けた。
変えたくても変えられなかった、俺なりの哀しさや。これが俺だから、わかって欲しい、という渇望のようなものを。明希ちゃんはこんなにもあっさりと、許容してくれていたのだ。誰かに「あなたはそのままでいいんだよ」と言ってもらえたことが、こんなにも心を照らすものだったとは。
その時の俺の感動を、きっと君は、わかっていないんだろうね。俺は、一瞬で君に、光を感じてしまった。好きだ、と思ったら堪え性の無い性質だから、君に近付きたい気持ちが抑えられなくて。
アレコレと大人げ無かった自覚はあるんだけど、ね。
でも、さすがにもうチョット抑えないといけないよなー、と、それなりに思っていた俺の理性も。明希ちゃんは容易く崩壊させてしまったのだ。
憧れている常連さんの登場に浮かれてしまった明希ちゃんは、満面の笑みを浮かべて自ら俺の耳元に唇を近づけるという、そんな隙だらけの様相を。俺に突然向けてきてしまって。
……いや、もう。可愛すぎて、抑えるとか無理なんですけど。
欲しい気持ちが止まらない。
明希ちゃんと会えるのは、一日の内店内での三時間だけだし。俺は大学という治外法権の中に入ることはできず、男だらけの巣の中に登校して行く明希ちゃんを止めることも出来ないのだから。
勤務中だという事はわかっているのだが、うかうかしていて何処かの男に持っていかれるのは御免だし、限られた時間の中で関係を詰めるしか無い。
明希ちゃんが、ホントに嫌がったら、止めるから。
それを肝に銘じながらも、かなり強引な手段に出てしまったのが、昨日のことだ。あの後明希ちゃんの俺に対する警戒心が一際上がってしまったのだが。
でも、嫌われてはいなくて……俺の勘が正しければ、むしろ憎からず思ってくれているような。
そんな風に見えたのは、俺の都合のいい、妄想なのだろうか。
と、そこへ。
「うい〜〜っす」
聴き覚えのある男性の声が聞こえたので、顔を上げた。
「す、須藤さん!?」
面食らっている俺に構うことなく須藤さんは歩みを進め、更衣室に消えた。が、すぐに顔を出す。制服姿だった。上に着ていた黒のスプリングコートを脱いで置いてきただけ、らしい。
「須藤さん? どうしてS駅店に? 明希ちゃんはー?」
「自分の胸に手を当てて考えてみれば?」
えーと。
俺はとりあえず胸に手を当てた。当てなくても、答えは既にわかっていたが。そして今、須藤さんがめちゃめちゃ怒っているのも、わかっちゃったなぁ……
「まさか、明希ちゃん、M駅店に持っていかれちゃったんすか」
俺が青ざめながら尋ねると、
「それは、これからのお前次第だ。返答によっては、一発殴る」
須藤さんがニコリ、と笑った。
顔は笑っているが、気配は微塵も笑っていない。
俺は気を引き締めた。殴られることが嫌だったからでは無く、ここで間違えてしまったら、もう明希ちゃんと一緒に働けなくなってしまうからだ。それは絶対に御免、だ。
「山田、お前。何してくれちゃってんの? セクハラ駄目、絶対。って俺忠告したよな? 守れなければM駅店に明希は引き抜くぞ、とも」
須藤さんは黒縁眼鏡の奥から険しい眼差しで俺を睨み付けた。
「須藤さんスミマセン。俺、明希ちゃんの言葉に救われたから、離れるとか、もう、絶対イヤで。どうしても、彼女との関係を進めたかったんす。俺、堪え性無いから、自分でも、止められなくて。抑えよう、って思ってても、明希ちゃん目の前にすると、可愛さのあまり、体が勝手に……スミマセン」
俺はひたすら頭を下げた。今は須藤父さんに嘘偽りの無い気持ちを話して全力で許しを請うしか、出来ることが無い。
「お前なぁ、明希がまだ20歳の女の子だ、ってこと忘れるなよ? 万が一初めてだったらどうするつもりだよ」
「え。初めてだったんすか」
「違うし。喜ぶとこじゃねえし。お前軽く犯罪だってこと、肝に銘じろよ」
俺は一瞬上がってしまったテンションを再びショボンと下げた。あれ、須藤さん明希ちゃんの初めてとか、なんでそんなこと知ってるの? という疑問も今は脇に置いておく。
「とにかく、営業中の店内でセクハラ行為とかマジで絶対、止めて。明希にとっても、お客様にとっても、我が社にとっても、色々駄目だから。お前の行為は百害あって一利が全くねえ。わかったか?」
俺は「はい。スミマセンでした」と丁寧に謝罪した。そんな俺の様子を確認して、須藤さんはようやく少し態度を和らげた。俺の目をジッ、と見つめる。
「お前さあ、明希のこと、真剣なの」
「……はい、真剣、です」
俺も須藤さんの目をジッ、と見つめて答えた。須藤さんはそんな俺を探るようにしばし見つめた後、ふっ……と微笑んだ。
「お前が明希に懐けばいいな、とは思っていたが。予想を超えてきやがってヤレヤレ、だな。お前が明希のことを大事にする気があるなら、応援はしてやる」
「大事に、したいですよ。昨日も、明希ちゃんが嫌がったら絶対、止めるつもりで」
「だからそこは嫌がるとか嫌がらないじゃなくて、本来絶対したら駄目、だ。まあ、でも……」
須藤さんは何かを思い出すようにしばし言葉を濁した後、「いや、なんでもないや」と自己完結し、改めて俺に告げた。
「とりあえず、今日は明希にはM駅店に早番で入ってもらってる。俺が替わりにこっちの早番入るから。……お前にこれからもここで店長やる資格があるかどうか。仕事ぶり、見させてもらうからな?」
そう言って須藤さんはニヤリ、と笑った。俺は望むところだ、というようにキラリと目を光らせながらヘラリ、と笑うと。
7時を向かえた店内の、全ての明かりのスイッチをオンにした。