仕事してください、店長。
ちっ、またか……
駅構内の通路を歩きながら、前方約25メートル程の所に位置する、我がバイト先のカフェ店のシャッターが閉じているのを目視で確認し、私は目を細めた。
カフェ店のオープンは午前7時で、現在6時35分……のはずだが。
私はふぅ、と溜め息をつくと、くるりと踵を返し、先程通り過ぎた駅員室の扉をくぐった。
「おはようございま〜す。カフェ pausa で〜す。鍵お願いしま〜す」
駅員のおじ様が「ご苦労様」、と鍵を渡してくれるのを「ありがとうございます」と笑顔で愛想よく受け取り、私は早足で再びカフェ店を目指した。
私は シャッターの鍵穴に鍵を差し込み、ガラガラガラ〜とシャッターを上に上げると、現れた透明の自動ドアの下に着いている鍵穴にも鍵を差し込み、手動でヨイショと横に開いて、真っ暗な店内へ足を踏み入れた。
カウンター内のライトのみパチリ、と明かりを灯すと、立ち上がりに時間のかかるカフェマシーンの幾つかをオンにして、そのまま更衣室に向かい、カチャンとタイムカードを押す。とりあえず、制服を着用せねば、急いで。
私は着ていたパーカーと長袖Tシャツを脱いで、カフェの制服である水色ストライプの半袖シャツに袖を通した。下は紺色の膝上丈のタイトスカートを履く。ストッキングは既にジーパンの下に着用済みだったので靴下だけ脱いで、更衣室に置かせて貰っている黒のマイパンプスに履き替えて着替えは完了。およそ1分の早着替えですな。
私は脱いだお洋服と靴をバイトさん共用のロッカーにしまい、鏡の前に立つ。
色素薄めだね、なんてよく言われる私。
肌が白くて東北出身なの? と聞かれがちなんだけど、いや、江戸っ子です。
髪は染めてないんだけど、元々少し茶色がかっていて、細いからボリューム少なめで。腕や足もほっそりめで、ついでにお胸のサイズも小さめで。身長は158センチと普通めだけど、全体的に薄めな見た目、ということらしい。
私は鏡を見ながら、手首に付けていた白いシュシュで背中の真ん中位まであるロングストレートの髪を一つにくくった。チラリと壁にかかった時計を見ると、6時47分。おうっ、急がねば。
カチャリ、と更衣室のドアを開けると、カウンター内で本日6時半出勤のハズの男性がレジにお金をセットしているところであった。
やっと来たか……
私を見て男性はヘラリ、と笑う。
「明希ちゃん、おはよ〜」
私はニコリ、と微笑み返した。
おはよ〜、じゃねーよ。
私がお店の鍵を開ける、というこの状況を当たり前に毎朝標準化してんじゃねぇ。もっと悪びれろ。そして詫びろ。
私は7時出勤のバイトで、あなたはオープン準備担当の6時半出勤の社員、ていうかこのお店の店長さんですよね。確か。
「おはようございます、店長」
しかし、今はお店を無事に7時にオープンさせることが最優先事項。
私はカウンター内業務を店長に任せ、ホール内の清掃に手を付ける。
机をダスターでちゃちゃっと拭きながら椅子を整え、ざっとほうきで床を掃き、トイレをチェック。カウンター周りのナプキンやら灰皿やらを整え、ダスターよし。サービス用のお水よし。グラスよし。うん。
お店の外に看板を出し、自動ドアのスイッチを入れる。カウンター内の準備も良さそうだ。腕時計を見ると、7時2分前だった。セーフ……
「あとは私やりますんで、店長も着替えて来て下さい」
「は〜い」
店長はヒラヒラと手を振りながら更衣室の中に消えた。
ふぅ……。私は溜め息をついた。
私、長澤 明希は20歳の大学三年生。
ここ、カフェ pausa S駅店でアルバイトを始めてかれこれ一年になる。
この駅から急行で二駅下った所に私の通うS大学があり。自宅から大学に通う途中の駅構内にあるこのお店で、平日朝オープンの7時から10時まで働いて、10時40分から始まる大学の二限目の講義に出席する、という寸法だ。
朝起きる時間がすこぶる早くなってしまうが、慣れればなんてことは無く。まだラッシュ前で電車は空いてて座って来れるし、放課後はまるっと自由時間だし。私としてはこの勤務スタイルが気に入っている……のだが。
問題はこの四月から、この沿線に新しくオープンした新店舗に異動してしまった前店長に変わり、このお店に新しい店長として赴任して来た、山田 優 氏 28歳について、だ。
なんというか……チャラいというか緩いというか。
朝は毎回遅刻である。
早番は二人体制、つまり平日はほぼ店長と私の二人で回さなきゃいけないのだが。山田が……失礼、店長が当たり前のように遅刻するので、本来7時出勤の私は少し早く来て、鍵を開けたりオープン準備もしたり……が日常化しつつある。なんでだっ。
この一年で定着していた私の朝の平和な日常が山田……失礼、店長によって、最近若干乱されがちだ。
はっ。
私が我にかえり時計を見ると、7時ジャストだったので、カウンター内のみ明かりを付け薄暗かった店内の、全ての電気のスイッチをオンにした。一気に店内がパアッと明るくなり、外で待っていらっしゃったお客様が次々と自動ドアをくぐり、カウンター前に列を成した。
「いらっしゃいませ〜」
私はニコニコ笑顔になると、次々と注文をさばいていった。
これから電車に乗り、様々な会社へと出勤して行くお客様。
駅構内にあるこのお店は、オープン直後は一時、そんなお客様で長蛇の列が出来てしまう。
しかし、慌てるなかれ。
ほとんどのお客様が注文するのはドリンクのみ。そしてその八割が、ホットならブレンド、アメリカン、エスプレッソ、カフェラテ……のいずれかであり、ボタン一つでマシンが抽出してくれるので、レジを打ってお客様とお金のやりとりをしている間に完了するのだ。
ちなみにコールド系ならアイスコーヒー、アイスティー、ジュース類……がほとんどで、こちらもグラスに氷を入れて注ぐだけなので、時間はかからない。
勤めたばかりの頃、この長蛇の列を見た時は怯みそうになっていたが。落ち着いて、一人一人対応すれば着実に長蛇の列はさばき終わり、店内の席が瞬く間に埋まっていく。
その後しばらくは返却棚に下げられた食器類を洗ったり、来店したお客様にその都度対応したり……が続くわけですな。
私がオープン後の列をさばき終わった頃、更衣室から店長が姿を現した。
私と同じ水色ストライプの半袖シャツに紺色のネクタイを締めた姿は、清潔感があふれ清々しく。紺色のスラックスを履いた足は、すらりと長く。
少し茶色がかった髪をツンツンとワックスで毛先を遊ばせ、垂れ目がちの目をした山田店長は、笑顔の可愛い今時垢抜け男子であり、何が言いたいかというと……
うん、まあ、カッコイイよね。
私が毎朝遅刻する彼の胸倉をつかんで奥歯ガタガタいわすのをなんとか踏み止まっているのは、ぶっちゃけこのルックスの良さが理由の一つである……ことは否定できない。
イケメンは、正義。……ある程度までは。
私も女子の端くれであるからして、そのように考えているんですよね。
でも、ある程度までは、だよ?
15分程度の遅刻ならイケメン貯金で許容としても、30分遅刻とかなら許さねーよ? お客様にもご迷惑だし。
あと、失礼の無い範囲で窘めさせて頂くことは言いますけど、それは仕方ないですよね?
「明希ちゃん、ありがと〜。今朝も鍵開けといてくれて。ホント助かっちゃう。フードメニューが立て込まなければお客様一人でさばけちゃうとかもホントさすが〜」
相変わらずヘラヘラしてますね、店長は。
私も相変わらずニコリ、と微笑み返すが。
「ありがとうございます。店長は社員でありながら、毎朝安定の遅刻ぶりと、更衣室でののんびりお着替えぶり。そのメンタルの強さには感動すら覚えます。さすがです」
「わーお。明希ちゃんの辛辣ぶりがしみる〜」
店長はいつも軽いですねえ。余裕ぶっこいてるヒマがあったら朝ちょっとは時間通りに出勤したらどうなんですかねえ。
……と、私なんかは思う訳だが。
私はふぅ、と息をついた。
しかし、このような人は、このままの特性を活かして生きていくのだろうな、とも思う。
私の今までの経験からすると、という独断と偏見であるが。時間に遅れる人というのは基本的に常に遅れる、と私は思う。
もっと早く起きればいいじゃん、とか。時計の針を10分進めておけばいいじゃん、とか。時間を守る側からすると、そんな提案をしたくなる訳なんだが。
どんな名案を提案しようと、私が出した結論はこうだ。
「遅刻する人というのは基本的に常に遅刻する」
なぜか、そうだ。私が知る限りの友人知人は皆そうだった。だから私は思った。これは価値観の違いなんだな、と。
あちらの人達からすれば10分前行動している我々を見て、何をそんなに急ぐことがあるのか? と不思議で仕方ないのかもしれない。どちらが正しいのか……とか論じ出したらキリが無いだけだ。
その人にとっては、それが正義。なんだから、そのスタイルで行けばいいんじゃないですかね。その代わり、何か困ることになっても、それは自己責任ですよ、と。
私は結局、そのように思っている。
つまり店長毎朝15分遅刻の件……については、とりあえずイケメンだから許す。お客様の迷惑にならない範囲ならな! ……と、私なりに折り合いをつけているわけであった。頭の中では色々叫んでいるけどね。もはや店長を山田呼ばわりする日は近そうだよ、うん。
黙々と返却棚に置かれたカップやお皿を食洗機にかけるためカチャカチャ整理している私を、店長が何やらジィッ……と見つめている。
なんだよ。距離もちょっと近めだぞ。離れなさい。
「明希ちゃんはさ……」
店長がポツリ、と言う。
「今まで俺に一回も、早く来いよ、とか。何いつもヘラヘラしてるんだよ、とか。言わないね」
え?
あれ。言ったこと無かったっけ?頭の中では何回も叫んでますけど。
「いや、思ってますよ? でも店長はそういう人だからな、って思ってるだけです。多分、今まで他人から何度も言われてきてるでしょう? 自分でもわかってるけど、変えられないんでしょう? じゃ、そのまま行くしかないじゃないですか。私がどうこう言う筋合いではありません」
私がカップやお皿を一通り食洗機の中に入れ終わり、バタンと扉を閉め、スイッチを押した、その後ろから。
突然、ギュウウッ、と。
抱きしめられた。店長に。
な、なにごと!?
私が固まっていると、後ろから、ポツリ、と店長のつぶやきが聞こえた。
「惚れた」
……
……
……
……ハイ?
あの、とりあえず、離れてください。
人目がありますから!
「ラ、ラウンド行ってきます!」
私は店長の腕から逃れるため、焦ってダスターを手に持つと、カウンター内からホールに出た。
なんだ、今のは!?
何を言いだした、山田!!
ももも、もはや山田呼ばわり決定!
私は動揺しながらも、空いている机の上をダスターで丁寧に拭き、椅子を整えたり、ナプキンを整えたり。そんなに広いわけでもない、50席程の店内のラウンドは、すぐに終わってしまうのだが。
出発前よりは、少しは、落ち着いたか? ……という状態でカウンターに帰宅。
「お帰りぃ。明希ちゃん」
ヘラリ。
表情を崩した山田が一瞬だけ。
キラリ、と瞳を光らせて鋭く私を見つめたのを。
私は見た。
ロック、オン…………?
この一年で定着していた私の朝の平和な日常が山田……失礼、店長によって、乱されようとしている……
いや、ちょっと、店長。
仕事、してくださいよ!!!