その四
初めて迷宮に足を踏み入れて感じたのは、瘴気の嫌な気配だった。
天井の高い出入り口は荘厳とした造りになっていたけれど、地下から忍びよる不浄の気に私は顔をしかめて胸もとの聖珠を握りしめた。
それでも、地下一階に降りて五分もすると気にならないほどに順応できた。
そのタイミングで、初めての魔物と遭遇する。
天井の石の割れ目から落ちてきたスライムだ。
先頭を歩くレドが事もなげに剣を振るうと、スライムは真っ二つになって魔石のみが床に転がった。
魔法とかでなく、剣の太刀風で切ってしまったようだ。
そんな調子で、レドは次から次へと魔物を紙きれのように切り裂いていった。
進行方向にある十字路の三方から合計五体の狼のような魔物がくる気配がしたときには、すっと十字路の真ん中に立つと、剣筋が見えないほどの早さですべての魔物を倒してしまった。抜剣も一瞬なら、気がつくとすでに納剣してるほどだ。
これには、私たちの後ろをついてきていた他の冒険者からも感嘆の声が漏れる。
な、なんか私の想像していた迷宮探索と違う……
昨日受講したビギナー講習によると、一応迷宮探索のマナーとしては、他のパーティーとは距離をとるようにするものだけども、ここぐらい小規模な迷宮になると、どうしたって地下三階ぐらいまでは固まってしまうものらしく、現にこれ幸いとばかりに先行する私たちに引っ付いてくる者たちもいた。観光客を連れているパーティーや、深部を目指していて体力を温存したいパーティーなんかがそれだ。
まあ、いつまでも露払い役に甘んじている訳にもいかないので、私たちは当初の予定通り、最短ルートを行くためにショートカットすることにした。
『風啼きの竪穴』と呼ばれるそれは、地下一階から七階までの吹き抜け構造になっていて、細い階段と飛び石を使って一気に七階まで降りられる近道だ。
ここを使うとかなりの短縮になるものの、初心者はまず挑戦しない。
理由は三つあって、一つ目は下から吹き上げる強風。二つ目は一寸先も見えないほどの暗闇だ。通常、迷宮の表層では、壁や床が微妙に発光していて特に明かりを必要としないのだけど、ここは違う。だからといって明かりをつけると、地下七階にしてはかなり強力な蛾の魔物が寄ってくるらしい。これが三つ目の理由だ。
がしかし、しょせん私たちの敵ではない。
とりあえず、私が魔法で光の玉を一階の天井部分に浮遊させると、下から音をたて吹き上げる風に混じって大量の蛾(三十センチ大)がぶわっと湧き出てきて光に群がった。
だいぶ衝撃映像だけども、ようやくそれらしい雰囲気にはなってきた。
私たちは蛾の魔物が光に誘き寄せられているうちに、吹き抜けの壁に沿って造られた細い階段を降っていく。こちらに向かって飛んでくるモノも何匹かいたが、それらは全部レドが切り捨ててしまった。
途中階段が途切れて飛び石になっているところは、高さと強風に煽られるせいで多少怖かったけど、風の魔法を駆使して切り抜ける。抱き上げて渡ってあげるというレドの提案は丁重にお断りしたのだった。
そんなこんなで、あっという間に地下二十三階にある『癒しの泉』まで来てしまった。出発から二時間半という順調なペースだ。
私たちが深層挑戦者並みのスピードでやってきたために、泉のある大部屋にはいまだ団体の観光客の姿はなかった。今ちらほらといるパーティーは前日から潜っている冒険者たちだろう。
部屋の中央にある噴水型の泉へと歩を進める私たちに、先着組からの視線が集まる。心なしか女性の冒険者が多い気がした。
円形の広い部屋は天井もドーム状になっていて高く、金属製の装備が擦れる音を反響させている。一方で床の一面と壁の下部は苔むしていて、鈍い靴音を吸収していた。
不思議なことに、この部屋に入ってから瘴気を一切感じない。
泉からは清らかな水と共に清澄な気が溢れていた。
私たちは特に疲労も怪我もなかったけれど、各々が荷物から水筒を取り出して中身を入れ替えた。私もウエストバックに仕舞っていた水筒に泉の水を汲んでみた。
「微量の魔力を感じる……」
味の方はスッキリとした普通に美味しい水だった。少しだけ身体が軽くなったような気がする。
「なるほど」
飲んだ瞬間、癒しの泉周辺の地面の奥で何やら魔法式が展開したのが分かった。複雑に組まれた癒しの呪が冷たい水とともに全身に染み渡っていく。泉の水はスターターで、術の本体は地下にあるようだった。だから、ここで飲まなければ効果がないのだ。
「ここの水はお肌にもいいのよ。毎日ここで顔を洗うと若さを保てるって話。実際、ツルツルになるから試してみたら」
ヴィヴィはそう言うと自らも顔を洗い始める。女性の冒険者が多い訳だ。
ただし、地下の魔法式は人の体内の魔力と泉の水が混ざり合うことで発動するので、洗顔による効果は単純に水の質によるものだと思われた。
だけどもここは空気を読んで、私も顔を洗ってみた。
さっぱりとして気持ちよかった。
「どれどれ」
レドの手が伸びてきたので無言で振り払う。
あ、また悦ばせたかと、内心で焦ってレドを見れば、金色の長い睫毛を伏せて淋しそうに淡く微笑んでいた。その思いっきり余所行き用の態度のせいで、私に女性たちからの非難の視線が突き刺さる。
やられた……
ホントよくやるよ、と呆れた表情を向ければ、今度こそヤツは嬉しそうに破顔した。
そんなやりとりをして癒しの泉を後にすること三時間、私たちは三十八階フロアに到達して、三十九階に降りる階段の手前で昼食をとることにした。
エルムグレンの迷宮は、どこにでもギルドの管理が行き届いている。
各階段付近にはギルドによる魔物よけの結界が張ってあるし、ギルドカードの迷宮攻略に関する情報を更新することができる水晶球の嵌めこまれた台座も置いてあった。
ためしにカードを翳してみると、『挑戦回数:1 滞在日数:1 最深到達階:38』の表示が浮き出てきた。
「俺、こんなに短時間でここまできたの初めてです」
パーシーが黒パンのサンドイッチを食べながらぽつりと言った。
「俺もだ」
燻製肉を頬張るジョスはどこか遠い眼をしている。
ある種のテーマパークと化しているエルムグレンの迷宮でも、三十階以降は戦闘能力のない一見客の探索を禁止している。
なぜなら、三十階を過ぎたあたりから魔物の質が変わるからだ。より大きく凶悪で、肌を刺すような殺気を放って襲いかかってくるそれらは、明らかに上階の魔物よりも強くなっている。
けれども、規格外の某王子には、表層に出没する魔物の強さの違いなど瑣末なことらしい。相変わらず剣舞でも舞うような鮮やかな剣捌きで、死体の山を一人で築いていた。
「しかも、俺ら一度も戦闘に参加してないですし……深層に挑戦するにはこれくらいじゃなきゃいけないんでしょうかね」
「いいや。深層に潜ってる奴もピンキリだ。これだけの実力、メイズゲートの最前線でやってるパーティーにもそうそういないだろうよ」
ばりぼりとクラッカーを食べていたガッドが小ぶりの青リンゴを磨きながら、テンションの低いパーシーを慰めた。
そんな三人を横目に、私は宿の調理場で作ってもらった昼食をバックパックから取り出した。今日の昼食は笹みたいな葉っぱに包まれた粽のようなものだった。具がゴロゴロ入っている。
ちなみにバックパックは、迷宮の中ではジョスが持ってくれている。
粽にかぶりつく私のすぐ横では――
「ねえ、レド。この迷宮を攻略したら、すぐにメイズゲートに出発するの?」
心なしか浮ついた声音でそう訊ねるのは、地元組の中で唯一ご機嫌な様子のヴィヴィだった。
彼女はここまで、私たちがスムーズに進めるようにと、道案内や罠の解除を完璧にこなしてくれていた。一人で魔物と戦うレドの次に働いていたと思う。
今は昼食を食べるレドの隣をしっかり陣取っている。
「そのつもりだ」
「あのね。私も一度はメイズゲートの迷宮に挑戦した方が、この後の経験に生きてくると思うの」
「そうだな。一回ジョスに相談するといい」
「……」
平淡なレドの反応が思惑から外れたものだったようで、ヴィヴィはなぜか私に物言いたげな視線を投げかけてきた。
「そういえば、ミオさんって一度も魔物と戦ってないけど、本当に強いの?」
「……それなりに」
確かに今日私がやったことといえば、『風啼きの竪穴』の天井に光球を浮かべただけだった。
だけども、ここまで迷宮に潜ってみて、これくらいなら私でも一人でこれそうだと思っていた。チート級の気配察知と火力のある魔法を使えばなんてことはない。実際には万が一ということもあるので、フォローする人は必要になると思うけど。
「まあ、大した自信ね! レドと違って実戦経験もないのでしょ?」
「うん。でもここまでは余裕だと思う」
謙遜しすぎるのも失礼かと思って素直に答える。
「美桜は私が背中を預けられる数少ない人間だよ」
「それは言い過ぎ……」
「いずれ、そうなるよ」
表層では問題がなくとも、未知の深層でどれだけやれるかは分からない。やけに自信ありげなレドの言葉に、私は口ごもって視線を伏せた。
本当にそうなればいいなとは思う。無意識に迷宮の中にまで観光気分を引きずっていた私は、自分の目標が迷宮の攻略だったことを思い出して、改めて気を引き締めた。
「そうだね。頑張る」
「ああ」
満足そうにレドが頷く。
若干二人だけの世界に入ってしまったせいか、白けた様子でヴィヴィはジョスたちの方に合流してしまったのだった。
昼食後も私たちは難なく地下へと潜っていき、夕刻前には迷宮深部の最大の名所である『幽玄の階梯』へとやってきた。
ここは壁や床が水晶のような透明度の高い鉱石でできていて、高い天井から零れる光が幾重にも反射して、大変幻想的な風景を作り上げている。
階段自体の横幅も広いが、ステップの奥行きも広いので、階段というよりは段差のある坂が続いているという感じ。それがつづら折りになって地下五十二階から五十六階を繋いでいた。
その階段の途中で、私たちは見知った顔を見つけてしまった。
「よお。初日でここまでとは、飛ばしてるな、新人」
昨日ギルドで会った冒険者のフィルだ。
フィルは男ばかりの五人の仲間を引き連れて、階下から上ってくるところだった。ここ深部でも何組か他のパーティーを見かけたけども、フィルのパーティーはみな雰囲気があって一番強そうに見えた。
フィルの問いに、レドは鷹揚に頷くだけだったので、私は「こんにちわ」と挨拶をした。
「今日一日で最深部まで行く予定か?」
「はい。フィルさんはもう下まで行ってきたのですか?」
「そうだ。俺たちは昨日の午後から潜ってるからな」
思わず敬語になってしまった。
迷宮の中ということで戦闘モードに入っているのか、フィルから無視できないオーラのようなものを感じてしまって、私は背筋を伸ばした。どうして、この人は表層しかないこの迷宮にいるのだろう。
「なんだ。フィルと知り合いだったのか?」
後ろからガッドが出てくる。
「おお。ガッド。昨日たまたまギルドで会ったんだ」
どうやら二人は知り合いだったようだ。エルムグレンの街と迷宮の規模からいって、古参の冒険者はほとんどの冒険者と顔見知りでもおかしくはない。
「なあ、ガッド。今日は普段より迷宮の瘴気が薄いと思わないか?」
「ん? なんだよ。いきなり。まー、言われてみればそうかもな」
「不思議なこともあるもんだよな」
ぐるりと周囲を見渡すフィルの視線が私のところで止まりそうだったので、誤魔化すように、私も水晶が織りなすプリズムを眺めてみた。
「なあ、お嬢ちゃん。俺は普段メイズゲートの方で迷宮に潜ってるんだが、今度あっちで俺のパーティーに加わらないか?」
「え?」
いきなりの勧誘に私は目を瞬かせた。
隣りのレドから不穏な空気が滲み出てきてハラハラしたが、いきなり直情的な態度で出ることはないだろう。
「もちろん。そちらの色男なお兄さんも一緒に」
「私は彼女のついでということかな?」
「まさかまさか。あんただったら、メイズゲートの最前線でも十分やっていけるはずだぜ」
「せっかくのお誘いだが、私たちにも予定があるのでね」
レドは対外向けの笑みを絶やさずに、爽やかに断った。
「そうか。ま、無理にとは言わないさ。俺は嫁さんの出産で里帰り中なんだが、あと半年はこっちにいることになるだろう。もし、メイズゲートで会うことがあったら、また考えてみてくれ」
フィルはガイドのときと同じようにあっさりと引きさがって、「じゃあ、またな」と仲間を伴い階上へと上がっていった。
その隙のない後ろ姿を見送りながら、やはり彼には正体がバレているのではと考えた。
こんなに簡単に見破られるのはまずい。ただでさえ絶世の美貌の持ち主と行動を共にしていれば目立つというのに。
メイズゲートに着く前に、何か対策を講じなければ。
焦ってレドの方を見れば、彼も思うところがあるのか、涼しげな顔で思案しているみたいだった。
「そんな顔しないで、美桜。全部任せてくれればいいから」
そう言って艶然と微笑むレド。
「……しかし彼奴、私の美桜に目をつけるとは」
美麗な容貌をわずかにしかめて続いた独り言が、水晶の壁に反響する。
あんたのじゃないから、っていうツッコミは、背筋がぞぞっとするので自重した。