その三
存在感のある大きな青い月が西の空に輝いている。
この月が地平線に沈むころには、東の空が明るくなるだろう。
祭りの最終日、その余韻を楽しむ人たちが、日が昇るまでの僅かな時間を惜しみ、色とりどりのランタンの明かりの下、最後の酒盛りを楽しんでいた。
店の軒先から大幅に通りにはみ出して延長されたテーブル群の合間を縫うように、私は郊外へ抜ける大通りを行く。
陽気に盛り上がる一団のそばには、酔い潰れて暗がりで寝ている酔っ払いもいる。祝い事で浮かれている面もあるはずだけど、基本この街は治安がいいのだと思う。
女の一人旅でもなんとかいけそうな気がしてくる。もちろん、魔法がチート級に使えることが大前提だ。
通りには祭りを満喫して家路につく者の流れもあり、なかには私のように旅装している人間もチラホラ見かけた。
この世界に来て保護されてから初めての独り歩きということもあり、解放感で胸がいっぱいになって自然と足取りは軽い。
まずは最短ルートで国外へ脱出し、しばらくは色んなところを旅してみたい。機会があれば、迷宮にも挑戦してみようと思っていた。
そんなこれからの自由な生活を想像してわくわくしきりだったというのに、その気分は突如として現れた騎士の一団によって一瞬にして萎んでしまった。
しかも先頭に立つのは、あの人だ……
「いい夜だね。姫」
お忍び仕様の衣装でも隠しきれないド派手な雰囲気がダダ漏れの第一王子だ。
「ええ。お散歩にはうってつけ夜ですね」
「では、これから私と赤岩の丘まで遠駆けなどどうだろう? 今の時期、あそこからは素晴らしい朝日が見られる」
黙って王城を抜け出した私を咎めることなく、王子はその絶世の美貌に穏やかな笑みを浮かべ、断る方が心苦しく感じるような誠実な態度で誘ってきた。
「せっかくのお誘いですが、先を急ぎますので」
さすがに一年近く口説かれていれば、ヤツの申し出を拒否することにも慣れた。私はにこやかに対応しながら逃げ道を探した。
さっき通り過ぎたところに脇道があったはず。
なんて考えている間に、騎士たちに周囲を囲まれる。
だったら魔法で包囲網を抜けだそうかと式を展開する寸前のところで、相手に先手を打たれてしまった。
足元に騎士団総員で繰り出す魔方陣が広がっていく。これは転移?
次の瞬間には転移魔法特有の浮遊感に包まれて、目の前の景色が切り替わった。
「随分と強引ですこと」
私は開き直って目の前に立つ第一王子を詰った。
場所は、豪奢な邸宅の広々とした玄関ホールだ。魔方陣から読み取れた情報によると、王都の貴族街にある屋敷のはず。
「街で騒ぎを起こす訳にはいかなかったのでね」
王子は悪びれることなく余裕の笑みを見せる。
転移してきたのは私たち二人だけだった。
ホール内にも人の姿はなかったけれど、すぐに奥の扉から使用人が数人やってきた。そのなかの背筋のピンと伸びた白髪の老紳士に案内され、私たちは応接室へと通された。
窓の外はいまだ薄暗く、室内は効果的に配置されたいくつかの間接照明で、柔らかな暖色系の明かりに満たされていた。
「さて、姫。どちらにお出かけだったのだろうか」
ビロード張りの一人掛けのソファに腰掛けた王子は、供されたお茶を優雅に一口飲んで本題に入った。
ローテーブルの角を挟んで王子の斜め左に位置する二人掛けのソファに座った私は、薬物の混入を警戒して、芳しいお茶の香りを嗅ぐだけにとどめる。
「とりあえず、隣国へ」
「それはまた遠くに」
他人事のようなリアクションだ。
というか、全部バレている。この人に遭遇した時点で私はそう確信していた。
そして、よくよく考えてみると、自分の行動も含めてすべてが仕組まれたことだったのではないかとさえ思えてきた。
「図書室の隠し部屋に入れたのも、偶然ではなかった……?」
今思えば、あの隠し部屋は隠してあるようで隠してなかった。むしろ導かれるようにすんなりと入ってしまって、焦ったことを覚えている。
「よく分かったね」
「……おかげ様で、人を疑うことを覚えたもので」
「それについては、全力で謝罪しよう」
形のよい眉を片方だけ跳ねあげて、王子はここにきて初めて申し訳なさそうに表情を歪めた。
「何の目的で、こんなことを?」
私は感情的になるのを避けるために、こっそりと『泰然』の魔法をかけた。この人と対峙するときには最早必須スキルとなっている。
「あの手引き書には続きがあってね」
「え?」
「それは、代々、第一王位継承者に受け継がれているものなんだが」
そう言って、王子は懐から革張りの古めかしい本を取り出した。それは図書室の地下で見たあの手引き書と似たような装丁だった。
「こちらには、召喚の事実を知った聖女への対応や贖罪の方法が書かれている」
「贖罪? 罪を犯している自覚があったのですね」
「ああ。……我々はこの世界の安寧のために、定期的に異世界から少女を攫っている。多くの人間の命や生活を守るためとはいえ、罪深い行為であることは認識している。ただ、信じてもらえないかもしれないが、姫の見た手引き書は、決して私たちの愚行を隠蔽するためだけのものではない。召喚された聖女の精神状態を考慮した結果、何も知らせないことこそが最良と判断したゆえの処置でもあるのだ」
「そんなの、詭弁です」
私は唇を噛みしめた。『泰然』の魔法をかけていなければ、怒りのままに怒鳴り散らしていたかもしれなかった。
「そうかもしれない。だからこそ、この二冊目の手引き書の存在がある」
「……どういうことです?」
罪を告白する立場だというのに、取り澄まして見える王子に不信感が募る。
「この手引書を持つ者には、聖女に真実を明かすかどうかの判断がゆだねられている。歴代の聖女の中には、最後まで知らされなかった者もいたらしいが、私は姫には知らせた方がいいと思ったのだ」
「勝手すぎる……」
聖女のためと言われても、結局は振り回されているだけのように思う。
「姫」
王子はおもむろに立ち上がると、私の足元まで来て跪いた。そのすべての所作が洗練されていて、思わず見入ってしまう。
「召喚に関わったすべての人間を代表して謝罪する」
私の目をまっすぐ見つめてそう言った王子は、次いで頭を下げた。艶めく絹糸のような金髪が、形のよい額にさらりと流れる。
――ずるい。
召喚されてから三年というこのタイミングは、ある意味絶妙だ。
この世界の生活に慣れて生活基盤を確立した今、理不尽な召喚に対する怒りは当時に知らされるよりは薄まり、嘘をついて騙していたことへの懺悔も致命的なほど遅くはない。
人によって感じ方に差はあるだろうが、私がそう感じたということは、上手く時機を見計らったということか。
だがしかし、はいそうですかと、すべての仕打ちをあっさり許せるはずもない。
だと言うのに、貴方が膝をつきますか……
王族の中の王族。いつも支配者然として余裕綽々で、これまで人に膝を折り頭を下げたことなどないであろう人が。
謝るのは当然だ。それだけのことをした。だけども、一方で見たくなかった気もしたのだ。
「殿下、頭を上げてください」
何とかそれだけは言った。彼に頭を下げさせたままにする訳にはいかない。
真摯に頭を垂れ瞳を閉じた王子は神々しくさえあったが、伏せられた金色の睫毛がゆっくりと持ちあがり、何もかも見透かすようなアイスブルーの瞳が表れる様には、自然と溜息が出そうになった。
「姫、謝罪はこれだけではない。賠償の品を用意している」
頭を上げて姿勢を正した王子は、はたまた想定外の話を振ってきた。
そして、それまで気配を完全に消して壁際に立っていた白髪の老紳士が、王子に螺鈿細工の箱を恭しく差し出した。
「王家に代々伝わる秘宝のひとつ。『隷属の首輪』だ」
「!」
パカッと開けられたそこには、シンプルなデザインの金色の首輪が鎮座していた。その表面にびっしりと刻まれた古代文字も異様だったけれど、何より『隷属』という言葉が物騒すぎる。
「この首輪には、嵌めた人間に主人への忠誠心を強制的に植え付ける古代魔法がかけられている。身も心も主人に捧げ、決して逆らわず、裏切らず、主人の危機には自分の命を惜しまないしもべに変える。この首輪の秀逸な点は、単なる操り人形を作り出すのではなく、しもべの自我を残したままにできることだ。より服従させている実感が味わえる仕様になっている」
「……」
予想通りのアブナイ一品だった。
そんなもの貰っても困るだけだし、得意げに語る王子もどうかと思う。
「そして、中身はこの私だ」
――はぁああ!?
驚きすぎで、顎が落っこちた。開いた口が塞がらない。
「ちょ、ちょっと、おっしゃっている意味が、分かりかねます!」
「私にこの首輪をつける権利を、姫に差し上げると言うことだ」
「そんな、王位は? 側室の方たちは?」
「もちろん、王位継承権は返上し、側室との婚姻関係も解消する。陛下にはすでにお許しを頂いているから、後は書類を提出するだけでいい。今日から私は、姫のしもべだ」
話がぶっ飛び過ぎだ。どうしてこうなった。
というか、しもべという割には態度がでかすぎる。しかも心なしかイキイキしてやいませんか。
「私には勿体ないお話で、とても受け入れることはできません」
人を隷属させるなんて倫理的に無理だし、何よりその相手が王子では普通に断る。
「そんなことはない。姫にはその価値がある」
でた。
何でも自分の思い通りに行くと思っている感じ。
遠慮しているんじゃない。不要なんだよ! 本当は声を大にして言いたい。
「殿下はこの国になくてはならないお方です。多くの人間が貴方に期待し、貴方の治世に夢を描いています。殿下は誰か一人が独占してよいお方ではありません。この国のさらなる発展と国民の幸せな暮らしのためにも、貴方は王になるべきです」
「姫、今でもこの国は大陸一安定し繁栄している国だ。陛下の御代はあと二十年は続くだろうし、第二王子も私に劣らない資質を持っている。何より姫が、溜まった瘴気を祓ってくれたのだ。私が王座につかずとも、今後五十年の隆盛は固い。何も心配はいらぬ」
「ですが、やはり受け取れません。賠償と言うのなら、このまま私の出奔を見逃していただくだけで結構です」
これ以上関わりたくない一心で畳みかけるように言う私とは正反対に、王子の涼しい顔は揺るぎない。
「初めに言い忘れていたが、もともと私は姫を止めに来たのではない。ここひと月の姫の頑張りで、瘴気の浄化については当初の目標を上回ったことを神殿も認めているし、陛下も姫の行動を尊重するようにと仰せだ。姫が旅に出るなら、私もお供しよう。女の一人旅は危険だ」
事態はますます嫌な方向へと進んでいく。
どうして国王まで許可を出しているのか。みんな第一王子の思う通りに動いているような気がして恐ろしい。
「しかし、私が殿下を独り占めしたら、多くの人たちに恨まれてしまいます」
「いや、聖女である貴女だからこそ、私を所有するにふさわしい」
暗に嵌めろとでも言うように差し出された金色の首輪が鈍く光る。
折れるつもりのない相手に攻めあぐねる私は、このとき、ピコンと思いついた。
「もし、どうしてもこの首輪をと言うのであれば、殿下でなく――」
赤髪の騎士に代えてほしい。
深く考えもせずに彼の人の名前を口にした瞬間、部屋中の空気に静電気が走って、すべての明かりがいっせいに消えた。
気がつけば窓の外は大分白んでいて、室内にも朝の光が差し込んでくる。まだ弱々しい陽光の視覚効果か、室内の温度が数度下がった心地がした。得体の知れない悪寒が背筋を駆け上がっていく。
目の前のアイスブルーの瞳が永久凍土の氷のように冷たい色をたたえて鋭くなった。
「それは駄目だ、姫」
「……」
私はシャチか白クマを前にした赤ちゃんアザラシのようにプルプルと震えた。
「この首輪の効果を維持するためには、定期的に主人からしもべに魔力の補充を行わなければならない。姫の場合は口移しになるが、本来は――」
眼前の美貌の口から零れる十八禁の内容に、私は思わず差し出されていた首輪を掴むと、続き部屋の向こうにブン投げた。