その二
あれから一ヶ月が過ぎ、私はいまだ王城にいる。
現金なもので腸が煮えくりかえるような怒りはもうない。激高を維持するにも相当な体力や気力が必要なのだ。同様に、ぶり返しそうだった元の世界やそこに残してきた人たちへの未練もまた薄れたのには助かった。
喉元過ぎれば何とやらで、落ち着いて考えてみると、真実が明らかになったおかげで色んな精神的重荷から解放されていることに気がついた。
まず、今までお世話になった人への恩とか借とか、それに対する負い目だったり、恩返ししなきゃっていう気負いを一切考えなくていいと思ったら、だいぶ心が軽くなった。むしろ負い目を感じるのは、誘拐同然で私を召喚したこちらの世界の人間だろう。
それに、聖女様なんていう偉い立場になったことに感じていた引け目や申し訳なさも、なるべくして祭り上げられたのだから、何の負担に思うこともなかったのだ。
これらに気づいたときの清々しさといったら尋常じゃなかった。今まで、どれほど無自覚にストレスを溜めていたのかと。
でもだからといって、私は出奔を諦めた訳ではない。冷静に水面下で着実に準備を進めている。
それに、決行の日はもう決めた。今日から始まる現国王の即位十周年を祝う祭りの最終日だ。祭り日程の後半からは、終日王城の第七から第四外門が開門されて振舞い酒が配られるから、民衆の出入りが自由になる。私はその隙に選り取り見取りな脱出ルートで王城を抜けだし、翌朝旅立つ祭りのために上京した人たちの帰郷ラッシュにまぎれて王都を発つ予定だ。
庶民の旅装や必需品、細かいお金なんかはもう用意してある。
ただ、あの手引き書の存在を知らされていない末端の護衛の騎士や侍女さんたちには、ほんの少しだけ、裏切るような形になって申し訳ない気持ちもあった。彼らに限らず、純粋な敬意でもってただの迷い人から聖女になった異界の少女に接してくれた人には、感謝の気持ちすらある。この世界やそこに住む人すべてを恨む気持ちは今の私にはなかった。
それ故、今の私の行動目的は、復讐というより解放に近い。
ひとまずこれまでの三年間のことは忘れて、一旦すべての人間関係をリセットしようと思う。
所詮、私は違う世界の人間だ。何のしがらみにもとらわれることなく、自分の心の赴くままに生きてみたい。
で、そうとなったら、聖女という立場での最後の公式行事を存分に楽しもうと思う。
今私がいるのは、王都の旧市街にある円形闘技場の貴賓席だ。
ここでは、王国中から名のある騎士や腕に覚えのある剣士が集まって、御前試合を開催している。五日間の予選を経て、今日が決勝トーナメントの日だ。
開放された天井部分から晴天の覗く闘技場の貴賓席は日避けが施され、私の座っている席よりも一段上のボックス席には国王と王妃が臨席している。顎髭の似合うロマンスグレーな国王は、朗らかで親しみやすく、話の分かる賢王だと思っていたけれど、今となっては食えない人だ。
ちなみに、今の席次は王国内での地位を示していて、聖女である私には国王に次ぐ階級を示す左隣の一角が割り当てられていた。第一王子は国王の右隣り、私と同じ高さの席にいて、側室たちを侍らせて座っている。
そして私のボックス内では、左に第二王子、右に宮廷魔術師が私の隣をキープしていた。なぜに本来の自分たちの席に座らない……
もちろん、背後には紺色の髪の近衛騎士が護衛として立っている。
「この闘技場の舞台には、失われた古代魔法が現役で稼働していてね。致命的な攻撃が当たると五秒ほど時間が巻き戻るんだ」
ストロベリーブロンドに甘いマスクの魔術師が勝手に解説してくれる。
確かに先ほどから際どいシーンになると地面に魔方陣が現れて、発光が収まると寸止めの体勢で選手が固まっていた。
おかげで、多少の流血はあるものの、目を背けたくなるほどのグロい絵は見ないで済んでいる。
「それと、遠隔魔法や大規模魔法は自動的に解除される式も入ってる。だから、純粋に剣技が楽しめるんだよ」
「なるほど……」
「まあ、僕や君ほどの腕があれば、影響なく発動させられるレベルのモノなんだけどね」
この魔術師はとにかくしゃべり倒す。舌が何枚もついてるんじゃないかって密かに思ってる。彼といると私は終始相槌を打つ役目に徹していた。
反対に第二王子は静かで、だけども私の左手を勝手に取って握っている。あとは、合間合間にどこそこから取り寄せた花蜜の入った冷たい飲み物やら、街で人気のお菓子なんかを勧めてくる。これは餌付けというやつだろうか。
試合は二回戦がすべて終わって、ベスト16が出そろっていた。中には辺境伯領出身の赤髪の騎士の姿もある。
三回戦の一組目に出場する彼の視線が、私のいるボックスの方に向けられる。応援も兼ねてひらひらと手を振れば、彼は表情を引き締め胸に手を当て略式の礼を返した。
「健気だねー、彼」
魔術師が揶揄するような軽い口調で言う。
どういう意味だろう。問いかけるまでもなく、魔術師はべらべらと先を続けた。
「君の口づけを他の男に譲りたくないのだろう」
「は?」
「聖女が臨席する御前試合で優勝した者には、聖女様の口づけを受ける栄誉が与えられるのがこの国の伝統なんだ。なんでも、初代聖女の時代に、優勝の褒賞を辞退して聖女に口づけを強請った強者がいたらしい」
「……そのようなこと、私は聞いていませんが」
寝耳に水だ。
そんな大役、私でなく、大陸一の美姫と名高い第三王女にやってほしい。
「軽く頬にだ。それ以上は私が許さん」
第二王子が横から不機嫌そうな声音で言った。あんたは私のなんなのさ。
「今回は、陛下の節目の年ということもあるけれど、久々に見出された聖女様が居合わせる御前試合だからね。国中の騎士のみならず、大陸中の冒険者の参加も殺到したそうだよ」
「冒険者?」
「ほら、騎士以外の剣士は、だいたいがそう。特に今日の決勝まで勝ち残ったのは、どれも迷宮の深層に潜れるほどのトップチームの前衛さ」
魔術師が指さす先の何人かに視線を向ける。騎士の鎧ではなく、それぞれが個性的でいて実戦的な装備を纏っている剣士たちは、よくよく見れば独特のオーラを発している。
巷では有名人なのか、後援者やファンもいるようで、彼らの試合では力の入った声援が多く飛んでいた。なかには仰々しい二つ名をお持ちの人もいるようだ。
ちなみに、この世界の『冒険者』の定義は、大陸中の地下に張り巡らされている迷宮のこれまた無数にある出入り口を管理している組織、俗に言うギルドに登録して、迷宮に潜っている人たちのことだ。
その目的は、魔物討伐による報酬と迷宮内に眠る宝。
がしかし、なぜ彼らが御前試合に? 私は魔術師の説明に首をかしげた。
「彼らは、何のために?」
「そりゃあ、もちろん、聖女様の口づけを受けるためさ。聖女の口づけには神聖魔法の『祝福』が宿るからね」
「なるほど」
そう言えば、そんな魔法もあったかもしれない。確か、瘴気の濃い場所でもその負の力に影響されないバリアで対象者を守りつつ、生命力を活性化させて身体能力の向上や傷の治りを速めるとか。しかもそれが七日は続くというチートっぷりの、あれか。今まで使いどころが分からなかったけど、迷宮に潜る冒険者ならあったら嬉しい加護かもしれない。
「でしたら、四位くらいまでして――」
「駄目だ、姫」
祝福魔法なんて初歩の初歩だし、勿体ぶらなくてもいいんじゃないかなと思って言えば、左隣の銀髪の人に速攻で却下された。
「聖女の力を安売りしてはいけないよ」
右隣りからは怪しい流し目でたしなめられた。
でも、冒険者の迷宮探索が進めば、それだけ魔物の脅威が減る訳だし、トップチームがまだ誰も足を踏み入れたことのない最下層まで辿り着けば、迷宮の謎が解けるかも……
「現状でも彼らは十分に君の力の恩恵にあずかってる。君が瘴気を浄化するおかげで、常よりも深い階層に潜ることができてるんだ。現に、珍しい財宝を手に入れた者も出てきてる」
心の中での反論は、魔術師に見破られて諭されてしまった。
その後、少しだけ気まずくなった空気は、試合が始まってしまえばガラリと変わった。
再び魔術師はぺらぺらと解説しだし、昼休憩を挟んであっという間に決勝戦まで進む。
決勝戦の組み合わせは、赤髪の騎士と全身黒尽くめの剣士だ。
剣士の方は『凶星の申し子』なんて凄いんだか不吉なんだか悩ましい異名を持つ有名な冒険者らしい。かなり民衆に人気がある人のようで、彼への応援は野太い声から黄色い声まで幅広く聞こえてくる。まあ、黄色い声なら赤髪の彼も負けていないけども。
二人の試合は、決勝戦らしく見ごたえがあった。
赤髪の騎士は騎士らしく洗練され研ぎ澄まされた剣技によって正攻法で相手を追い詰め、片や黒尽くめの剣士は、対人というよりはあらゆる魔物の生態にあわせて柔軟に仕掛ける型にはまっていない剣技でもって騎士の攻撃を防ぐ。そして手数の多さで反撃する。
両者の見事な戦いに、私も手に汗握って惹きこまれた。観客席も今日一番の盛り上がりだ。
どちらが勝ってもおかしくない。そんな拮抗した試合をギリギリで制したのは赤髪の騎士だった。
体勢を崩した黒鎧の剣士の首筋に、赤髪の騎士の剣先が突きつけられる。
勝敗が決すると同時に、大歓声とともに色とりどりの花弁の雨が場内に降り注いだ。
私も立ち上がって拍手した。
騎士が再び私に向けて礼をする。
とそのとき、第一王子のボックス席から、第一王子その人が豪奢な衣装の裾を翻して場内へと飛び降りた。
三階分くらいの高さをものともせず場内に降り立った王子は、煌びやかな飾りが仰々しい剣を滑らかな動作でスッと抜くと、舞台俳優バリの魅せ方を意識した動きで赤髪の騎士へと剣先を向けた。
王子の登場に一瞬静まりかえった闘技場内は、次の瞬間、割れんばかりに沸いた。
私は堪らず耳を塞ぐ。
「兄上!」
「あれー? 殿下の乱入って、冒険者が優勝したときだけの予定でしたよね?」
「あの人は何をやっておられるのだ!?」
第一王子の登場に興奮の坩堝と化した会場で、かろうじて第二王子と魔術師の会話を拾う。
なるほど。騎士たちの面目を守るため、あらかじめ画策してあったようだ。
何を隠そう、この美貌の第一王子殿下は、戦闘能力も天才級だという。この御前試合で万一、王国の騎士以外が優勝した場合には、流派を同じくする第一王子が飛び入りで優勝者と戦って勝利し、体裁を保つ算段だったのだろう。
だとすると、赤髪の騎士が勝った今、なんで出張っちゃってんの?
考えても、あまりいい理由が思い浮かばず、私は鼻白むのを寸でのところで我慢した。
それにしても第一王子の民衆の人気は圧倒的だ。王子のハイスペックっぷりは、国民の知るところでもあるらしい。
そのカリスマ性で、登場しただけで心を鷲掴みにしている。これでは主役のはずの赤髪の騎士の立つ瀬がない。
流れ的にも立場的にも、赤髪の騎士が王子との試合を拒否できる訳もなく、結局なし崩し的にエキシビジョンマッチが始まってしまった。
あー、この人……モノホンのチートだ……
今までの試合は何だったのか。すっごく盛り上がってるから、お祭り行事としてはアリなのかもしれないけど、これまでに参加した騎士や剣士の皆さんのメンツが台無しにされた感じだ。
たぶん、王子が本気を出したら瞬殺できるはず。だけども、見世物的にも王国騎士団の権威のためにも長引かせる必要があるせいか、遊んでいる……。私にはそう見えた。
赤髪の騎士の方は、相手が護衛対象の王族であっても本気を出さなきゃ即死ってくらい追い込まれているというのに、王子は涼しいほどに余裕だった。
そして、予定調和のごとく、舞台の演出みたいに騎士の剣がキレイにふっ飛ばされて、喉元に王子の剣が向けられる。散々、王子に弄られた騎士は満身創痍だった。
再びの大歓声と王子への賛辞が闘技場の空気を震わす。興奮のあまり黄色い悲鳴を上げながら失神するお嬢さんもいる始末。
つーかさ、こんなに強いんだったら、王子が騎士団率いて迷宮踏破すればいいんじゃないかな。
民衆に応える美貌のドヤ顔を見ながら、私は思った。
そんな王子の影で奮闘した赤髪の騎士が膝をつく。ダメージが大きいのか取り繕うことなく肩で息をしているのが分かる。会場の空気に呑まれているようで、審判や救護班が駆けつける様子はない。
ああ、こんな予定ではなかったのに。
私は小さく溜息を吐くと、ボックス席の手摺に手をかけた。
『光臨』
絶対使わないだろうと思っていた聖女固有の神聖魔法を使う。高所から神々しいエフェクトを振りまきながら舞い降りるというシュールな魔法だ。
闘技場内の視線がいっせいに私に集まったけれど、『泰然』の魔法で平静を保つ。
歩み寄る私に会心の笑みを向ける第一王子。その綺麗な顔にグーパンチをかましたい衝動を何とか堪えて通り過ぎ、跪く騎士の元へ辿り着くと、自分も膝を折ってその手を握った。
「聖女殿下……」
切り傷が痛々しい端整な顔を不甲斐なさそうに歪ませ、赤髪の騎士が他人行儀な呼び名で呼んでくる。
私は何も答えずに、『乙女の癒し』っていうやたらキラキラしいオーラを放つ治癒魔法をかけて彼を立たせると、重ねて『疲労回復』『精神回復』『洗浄』をこれでもかと最大出力でかけた。
破損した防具まで復元することはできないけれど、光り輝くエフェクトが収まると、なんとか優勝者としての格好がつくほどに回復した騎士が佇んでいる。
場内の視線は、聖女固有の希有な魔法に釘付けだ。
極めつけにと、私は背の高い騎士の首筋に抱きつくと、盛大に『乙女の祝福』をほっぺにかました。
――終わってみれば、この日一番の喝采を浴びたのは、この瞬間の私だった。