退院
彼の髪の毛を切っているとき、私は彼の名前について尋ねた。
「ねぇ、院長先生のお孫さんなんでしょう? なぜホムラビなの?」
「母が、院長先生の娘である母が、父と駆け落ちしたから。きっと、父の名前なのかな」
「駆け落ちしちゃったの?」
「でも変なものだよ。弟を生んでから、俺と弟を置いて駆け落ちしてしまったんだ。弟はこの病院を継ぐために勉強している。俺は、見ての通りからだが弱いからこの病室で生かせて貰っている」
見たとおり、体が弱い。
相変わらず点滴は続いていたし、彼のベッドの周りには機械が増えているような気もした。
ただ体は起こせる程度には回復しているようで、私が髪を切っている間は落ち着いたものだった。
「はい、さっぱりしたでしょ」
「頭が軽い。ねぇ、俺は好きだよ。愛塚先生から話を聞いていたから」
「え?」
「君が、好きだよ。俺は君が好きだ。俺が生きていたら、結婚してよ。君が医者になったときに、結婚して」
「えっ、えぇ!?」
突然すぎると思った。私は混乱していたが、彼の視線は本気だったようだ。患者を大切にしなければならないと思ったのかもしれない。
私は彼に対する同情でイエスと返事をしてしまったのだ。
* * *
「まさか二年も続くとはね」
「何が?」
「いやいや、なんでもないわ、キセト。あぁ、そういえば今日は寒いから窓を開けないほうが――遅かったようね」
すでに窓を開けてキセトが冷風に当てられていた。私はくすくすと笑い、固まっているキセトの代わりに窓を閉めてやる。
彼、焔火希狭道は、今日生まれて初めて退院というものを経験する。
「荷物まとめた?」
「と言ってもそんなに量はないから」
「今来てる私服すら私が買ってきた奴だもんね。そういえば学校とかどうするの?」
「通信だとか、そういうものに頼る。義務教育すら終わってないし」
「あ、そうなの?」
「それにまだ通学できるほどではない」
そういって笑う彼の腕には注射痕が見える。彼は上着を着てもう一度笑った。大丈夫、と。
そして十八年を過ごした病院を彼は振り返ることもなく後にした。自分の居場所はそこではないと知っているかのようだった。