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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

なっちゃんは奥歯で飴を噛む

作者: 室外機
掲載日:2026/07/01

たまに食器を洗ってくれるのは嬉しい。けれど、洗剤を大きく、大胆に二プッシュも押し出すのはやめてほしい。


半プッシュで十分。いや、もっと繊細に刻める。三分の一プッシュでも足りるはずだ。

ポンプが押し返してくるわずかな抵抗を、指の腹の感覚だけで制御し、貴重な一滴を慎重に抽出する。その少量でも、泡は正しく、そして豊かに生まれてくれる。


私は自作の目盛りを貼り付けたボトルを使っている。一日に何ミリリットル減るのがこの暮らしの「正解」なのか、目盛りの線を指でなぞりながら確かめている。

彼は普段、自分でお皿一枚洗ったことがないのだろう。無自覚な指先ひとつで、私が積み上げてきた均衡バランスが、静かに崩れていく。


そういえば、彼はハンドソープやシャンプーが、魔法か何かでボトルの底から湧き出してくるとでも思っているようだ。

「シャンプー切れてるんだけど、新しいのはないの?」

そうじゃない、不正解。切れる前に、やるべき手順があるでしょう。


少量のお湯を入れ、ポンプを振って最後の一回分を捻り出す。あるいは、そうなる前に詰め替え用を買ってきて、封を切り、口に差し込み、隅々まで残らないようギュンと搾り出して補充する。

彼は消耗品の「中身」を使い果たすことしか知らない。その中身を維持するために、私がどれだけの慈しみを注いでいるのか、ひと欠片も想像もしていないのだ。


それに、「新しいのはないの?」という言葉が妙に引っかかる。

彼は、棚に詰め替え用のストックがあることすら知らないのだろうか。それとも、私が新しいボトルの封を切って差し出すのを、当然の権利として要求しているのだろうか。

あるいは。

知らないふりをして、私が動くのを試しているのだろうか。


このままだと、今月の消耗品費をまた計算し直さなくてはいけない。彼は私の均衡を乱している自覚が一切ないのだ。


胸の奥が、ずんと沈んだ。私が神経質すぎるのだろうか。

ふと視線を落とすと、ソファの隅で相棒のクマのぬいぐるみ「ヌル」が、漆黒の瞳を震わせてこちらを見ていた。

いつもより、口元の縫い目が下がっているように見える。


「……そうだよね、ヌル。これは悲しむべき状況なんだよね」


私は小さく息を吐いた。胸の苦しみの重さが、きちんと形を持ったように思えた。

そんな私の沈黙を置き去りにして、泡だらけになったシンクの向こう側から、また無邪気な要求が飛んでくる。


「ねえ、なっちゃん。麦茶の瓶が空っぽだよ。何か飲むものない? 喉乾いたー」

「ごめん、あとで沸かすから。今は水道水を飲んでおいて。氷は切らしてないからさ」

「えっ、水道水? 冗談だよね、そんなもん飲めないよ。じゃあ沸くまで待ってる。ていうかさ、お茶なんてペットボトルでまとめ買いした方が安上がりじゃない? なっちゃんって、変なところでケチだよね」


……安い? ペットボトルが?

一リットルの茶葉が数円で済むのに、百円以上の金を払って、さらには「ゴミ」まで買い取るのが安いというのか。

彼には圧倒的に、価値の算定が欠落している。そして、その欠損が私にどれほどのコストを強いているかを理解していない。


私は水道水をコップに注ぎ、彼に背を向けたまま、氷がカチリ!と悲鳴のような音を立てて割れるのを聴いていた。


私はどうして、こんな気の合わない人と一緒にいるのだろうか。

もちろん、それにはきちんとした理由がある。彼の名は村井秀明。秀ちゃんと交際を始めて半年が経つ。

お互いにまだ大学生で、ただ日々を浪費して楽しむ彼に対し、私は一滴の洗剤、一円の硬貨にすら自分の生存を懸けている。

恵まれた実家暮らしの彼に対し、私は定期的な親からの仕送りもない下宿の身だ。

一滴の洗剤、一円の硬貨にすら重要な意味を求める私と、無自覚にそれを浪費する彼。

今思えば、同じ大学に通い、同じ時間を過ごしていても、私たちの価値観は、その頃から既に、修復不可能なほどに崩壊していたのだ。けれど、出会った当時はその亀裂すら、若さが放つ輝きの陰にすっぽりと隠れていた。


互いの欠落を「違い」と呼び、浪費を「余裕」と履き違える。

それがおそらく、私が初めて体験した恋愛というものの正体だったのだろう。


秀ちゃんは、とにかくお喋りの上手な人だった。

初めて出会ったのは軽音サークルの見学会だ。新入生だというのに、彼は部室の中でエレキギターからベース、ドラム、果てはトランペットやビブラフォンまで、あらゆる楽器を軽快に操ってみせ、先輩たちを沸かせていた。


「君も軽音の見学? 見ての通り、僕はどんな楽器でも演奏できる。一緒ににセッションしようよ!」


彼は一切の躊躇もなく、私の領域に踏み込んできた。

その屈託のない笑顔と突き抜けるような明るい声は、まるで、私の中で常に重く渦巻いている、ほの暗い影をすべて消し去ってしまうほどに眩しかった。


「あの、私、アコギしか弾けないんです」

消え入りそうな声で伝えると、彼は迷いなく近くにあったアコギを掴み、私の手にぐいっと押し付けた。そのまま私の肩をガシッと強く掴んで、「なんでもいいから演奏してみて! 僕が上手く合わせるから」と、きらきらした笑顔で、至近距離から迫ってくるのだった。


異性からこれほど強引に領域テリトリーを侵されたのは、初めての経験で、驚きを追い越して、体の内側からほくほくとした、芯まで熱を帯びるような喜びが込み上げてくる。

まるで、甘ったるい石焼き芋にでもなったような気分だった。


共働きの両親が転勤族だった影響で、転校を繰り返していた子供時代。人に心を開くことができず、いつしか極端な人見知りになっていた私は、自分のペースへ強引に巻き込んでいく秀ちゃんに、あっという間に心を奪われてしまった。


本当に、嬉しかったのだ。


その日から、秀ちゃんとは一緒に登校したり、お昼ご飯を食べるようになった。

毎朝「おはよう」と笑顔で声をかけてくれること。大して弾けないアコギを褒めてくれたり、「スタンド・バイ・ミー」を合奏したり。

「孤独であることは当然」として、受け入れて育った私にとって、それは、どこまでも守り続けたいと思える、温かな時間だった。


好きだとか、恋だとか、そんな言葉だけでは到底量ることができない。秀ちゃんが作り出してくれるぽかぽかとした空気の中にいることは、私の救いだった。

それはこれまで経験したことのない喜びと、初めて目の当たりにする「新しい自分の姿」だった。


この人と過ごすことで、もしかすると私は「普通の女の子」に生まれ変わることができるかもしれない。自分自身を厳しく拘束してきたルールを捨て、自由でほがらかで、健康的な女の子になれる――。

そんな漠然とした救済を、私は心から信じることができたのだった。


――ピチャリ。

古びた蛇口の先から落ちた水滴が、張り詰めた私の思考を現実へと引き戻した。


やっぱり、だめだ。甘えは許されない。

私が自身を拘束してきた「鎖」は今、彼から自分を守るための「自衛」へとその意味を変えつつある。

濡れた手をエプロンで丁寧に拭き上げ、私は心のスイッチを冷徹に切り替えて、彼を見た。


「秀ちゃん、喉乾いたんでしょ。お水飲まないの? お茶は今、沸かしているところだから」


「仕方ない、水道水で我慢するしかないか……。なっちゃんのアパートって辺鄙な場所にあって、コンビニもスーパーも遠いもんな。買い物だって気軽に行けない。今日は雨も降っていて、ダルいし。なんだかここに居ると、行動する気力を削がれる感じがあるよね」


「そうだね。大学からも遠くて不便だし、六部屋のうち私を含めて二部屋しか埋まっていないみたい。お風呂もバランス釜で設備も古いけれど、ここはとにかく家賃が安いからね。私は秀ちゃんみたいに恵まれた実家暮らしじゃないし、贅沢を言える身分じゃないの」


私はそう言いながら、コンロにかけたやかんの火を少しだけ強めて気持ちを落ち着けた。


少し棘を剥き出してしまったな。私の言葉に対し、秀ちゃんは特に応答することなくテレビをつけ、水を飲み始めた。水道水だと文句を言いながらも、一気に飲み干す姿を見ると、相当に喉が渇いているようだった。

安物のグラスの中で、カラカラと鳴る氷の音色が虚しく響いていた。

けれど、秀ちゃんという存在を透過して届くその乾いた響きが、今の私には妙に心地よく聴こえたのだった。 


「それにしてもさ、このニュース怖すぎるよね。N町内で通り魔事件が今月でもう二件目だって。まだ犯人が捕まってないなんてありえないよな。警察は一体何をしてるんだか。この辺りは街灯も少なくて暗いし、なっちゃんも本当に気をつけなよ」


「そうだね、心配してくれてありがとう。普段から防犯ブザーを持ち歩いているし、いざとなったらすぐ110番できるように、夜道では携帯を握りしめて歩いているから。大丈夫だよ。それに……」


 私はそこで言葉を切り、喉を鳴らして笑った。


「うちは両親が共働きでおじいちゃん子だったんだけどね、おじいちゃんが身の守り方を教えてくれたの。だから、自分の身はちゃんと自分で守れるよ」


私はおどけながら、空を切る俊敏な動作で護身術の型をやってみせた。その指先が激しく、秀ちゃんの鼻先をわずかにかすめる。


だが、秀ちゃんは、避けることもしなかった。テレビの青白い光に照らされた彼は、瞬きもせず、ただ無表情に私の動きを追っている。その瞳の奥に、さっきまであったはずの「親しみ」の欠片を見つけることはできなくなっていた。


秀ちゃんはテレビのニュースに憤慨してみせているが、私は全てを知っている。


彼が最も憤るべきなのは、自分自身の浅ましい「手癖」なのだ。


ここ数週間、私の部屋からは少しずつ、けれど確実に「資産」が消失している。普通の感覚を持った人間であれば、確実に見落とすような、ごく僅かな空白。けれど、一滴の洗剤の量まで事細かに把握している私を、彼が欺けるはずもなかった。


はじまりは、祖父から譲り受けた大切なレコードが突如消失したことだった。

私は基本的に、無駄を嫌い、合理性を重んじる性格だが、守るべきものへの投資は絶対に惜しまない。

レコードの日焼けや劣化を防ぐため、定期的に除湿剤を替え、専用のカバーで保護し、指紋ひとつつけぬよう細心の注意を払ってきた。


お風呂上がりにひとり、針を落としてビートルズの『イエスタデイ』を聴く。それが私の、欠かすことのできない、遠く離れた家族を想うための、神聖な愛の儀式だった。


だから、いつもの場所にあるべきものが無い、抜け落ちそうな闇、に変わっていたとき、私はすぐに悟った。

大切な物が消えるのは、決まって秀ちゃんが部屋に来る日だということを。


祖父が最も愛していたのはビートルズのレコード、『イエスタデイ・アンド・トゥデイ』のブッチャーカバーだった。一九六六年の夏、アメリカで発売されるやいなや、わずか数日で店頭から消え去った伝説のオリジナル盤だ。

ジャケットのなかでは、昨日まで世界を熱狂させていたはずの四人が、その期待を嘲笑うかのように、バラバラにされた赤ん坊の人形と、生々しい獣の肉片を抱えて微笑んでいる。

初めてそれを見たとき、私は言いようのない高揚を覚えた。これまでにない倒錯したイメージと、露悪的なまでの猟奇性。その「剥き出しの真実」に、私の胸は熱くなり、激しく高鳴った。


祖父がよく、この不気味なジャケットを愛おしそうに眺めながら珈琲を飲んでいたことを思い出す。  

私は根っからのおじいちゃん子だった。揺り椅子の隣に小さな椅子を置いて座り、珈琲とタバコの煙が漂う香りのなかで、おじいちゃんの語る昔話や趣味の断片を静かに聞き入る時間が、何よりも大好きだった。


「夏実、このレコードの表紙はね。無理やり行儀良く貼り付けられた『蓋』を剥ぎ取った、真実の姿なんだよ」


おじいちゃんは愛おしそうに、その露悪的なジャケットを指でなぞった。


「これは『ブッチャー・カバー』と呼ばれていてね、世界で一番美しくて、醜いレコードなんだ。

かつて、この血生臭い真実の上には、トランクを囲んだ四人の、無難で退屈な写真が貼り付けられていた。……残酷なものから目を逸らしたい臆病者たちが、無理やり蓋をしたのさ。くだらんね、実にくだらない。」


おじいちゃんは、まるで秘め事を教えるように声を潜めた。


「夏実、綺麗な上っ面には一切の価値などない。熱心なコレクター達はね、薬品やナイフを上手に使い、何日もかけて慎重にその表紙を剥ぎ取ったんだ。そうしてようやく現れたのが、この『サード・ステート』さ」


――サード・ステート。

それはコレクターの間で、上貼りを剥がして元の絵を露わにした希少な盤を指す。

市場に出れば極めて高い価値がつく代物だ。

けれど私にとって最も重要なのは、その端々に残る剥がし跡に、おじいちゃんの指の熱や執念が、今も「血の通った形見」として宿っていることだったのだ。


おじいちゃんの話はいつも一方的で、幼い私にはすぐには理解できないような話ばかりした。この時も、言葉の本当の意味なんてほとんど分からなかったけれど、私は自分が「子供」として扱われていないことが、妙に誇らしく、嬉しかったことを覚えている。


「人間も同じなんだ、誰もが表面には、一見、行儀のいい“綺麗な顔”を貼り付けて生きている。しかし、それを一枚剥がしてみれば、その奥には忌まわしい表情と本性が隠れているものなんだ。それを、見抜く力を身につけるんだぞ、夏実。」


おじいちゃんの瞳に、濁った光が宿る。


「覚えておきなさい。一度全てを剥がしてしまったら、もう二度と、元の綺麗な顔には戻せない。」


私は、おじいちゃんが呪文のように呟く不気味な教えを、自分だけが授かった特別な魔法のように、大切に胸の奥にしまってきた。

おじいちゃん、今になってようやく分かった。あなたが伝えようとしていた真実が。


一切替えの効かない大事なレコード。大切な宝物を、秀ちゃんは私の部屋から平然と盗み出し、あろうことか売り払ってしまったのだ。  

私という人間を構成する大切な、血肉とも言える一部を、おじいちゃんの宿る魂を、彼はただの「お金」へと変え、どこかへ散じさせてしまったのだ。


私が秀ちゃんと一緒にいる、本当の理由。

それは、彼という歪な人間を、私の手で正し、きちんと「整理」するためだ。


レコードを失ってから、私は秀ちゃんの背後を探るようになった。


同級生だと思い込んでいた彼は、実際には二つ年上の大学OBだった。新入部員が激減した軽音サークルのために、彼は「何でも演奏できる器用な新入生」という配役を演じ、新入生を釣り上げるための餌として一役買っていたのだ。


伝統として受け継がれるその卑しい嘘に、私は嗚咽を催すほどの不快感と苛立ちを覚えた。


ある日の昼食後、厚いレンズの眼鏡をかけた真面目そうな女性――並河さんという先輩に声をかけられたのは、あらゆる疑念が確信へ変わりかけていた頃のことだった。


「すごく言いづらいことなんだけど。あなた、村井秀明と仲良くしてるでしょう? ……あの人とは、少し距離を置いたほうがいいと思う」


彼女は、厚いレンズの奥の瞳を微かに揺らしながら、言葉を選ぶように続けた。


「面倒なことになるだけじゃないの。……私も、うまく説明できないんだけど。気づいたら、少しずつ、いろんなものが減っていく、そんな感じがして、苦しかったの」


並河さんは、かつて彼と交際していたらしい。けれど、その話し方はどこか曖昧で、確信と躊躇いのあいだを揺れているように見えた。


きっかけは、長い時間をかけて積み上げてきた貯金の通帳が、ある日、ぱったりと見当たらなくなったことだったという。午前中に記帳し、引き出しに戻したはずなのに、彼が部屋を訪れて帰ったあと、見つからなくなった――そう彼女は言った。


「……私の勘違いだったのかもしれないんだけどね、今も見つからないの」

彼女は戸惑ったように小さく笑った。

何かを言いかけては息苦しく飲み込むような間が、何度も続いた。


「他にも、似たような話を聞いたことがあるの。彼と出会ってから、大切なものを奪われるという話。だから、私だけじゃないと思う」

並河さんは、それ以上は言わなかった。

それだけで十分だと、私は思った。

具体的な女性の名前も、どれくらいの人数なのかも聞いていない。

それなのに、いくつもの輪郭だけがパズルのように静かに揃っていく気がした。


時折、声を震わせながら語られるその断片は、整った物語というより、形になりきらない、異常、違和感の集まりだった。


ターゲットは、決して派手で華やかな女性ではない。決まって、地方から単身で出てきたばかりの、孤独で物静かな、「私」のような少女たちだった。

かつて、サークルの飲み会で彼はこんなことをうそぶいていたらしい。


「田舎から進学してきた、野暮ったくて孤独な娘ってさ、周囲と交流がないだろ? そもそも、会話のキャッチボールすらままならない。だから、何をやっても『悪い噂』が立たないんだよね。そういう子と親しくなって、家に上がり込んで、貴重品を拝借する。それを売った金で食う飯は最高だよ。これ、僕のちょっとした趣味なんだ」


石橋を叩いて渡るような慎重な性分だったはずの私が、あろうことか、これほど底知れない化け物を、自らの聖域に招き入れてしまっていたなんて。


盗みの手口は巧妙だった。彼が愛用しているダウンジャケットの背中側、その内側には、不自然な位置にファスナーが隠されていたのだ。


――それは、LP盤が袋のまま、すっぽりと収まるサイズの空洞。細工された巨大なポケット。

私の大切な記憶を背負って持ち去るための、袋状の闇。


いつも手ぶらに近い格好で現れる彼が、大きなレコードを盗めるはずがない。そう信じ切っていた私は、文字通り彼の「背後」に張り付いていた、巨大で黒い悪意を見逃していたのだった。


あれほど自分の目と信念を信じていた私が、なぜ、こんな稚拙な嘘を見抜けなかったのか。自問自答する暇もないほど、私は彼の偽りの、薄っぺらな表紙に舞い上がり、偽りの愛情に歓喜し、いわゆる「恋」という体験の中にいたのだ。


今となっては、その事実が何よりも、反吐が出るほどに忌々しい。


秀ちゃんは、出会った頃からずっと、私が物静かでか弱く、田舎から出てきたばかりで頼れる友人もいない、寂しくて愚かな女の子だと思い込んでいるのだろう。優しくされればすぐに舞い上がり、簡単に懐に入り込める、そんな扱いやすい人間だと。


私の物静かで地味な外見や所作、話し方。そのすべてが、これまでの彼の「統計」に合致した、懐柔しやすい個体に過ぎなかったというわけだ。


だから、私がここまで秀ちゃんのことを調べ上げているという事実を知らない。調べ上げるだけの気力と行動力、そして、人間を「鑑定」し、整理するという傲慢さを持った人間であるとは、端から思ってもいないのだ。

人間を「雰囲気」という曖昧な輪郭でしか捉えられない、浅はかな感覚の落とし穴だ。

そして、私もあのレコードジャケットと同じ、一枚剥がしてみれば、別の顔がある、ということだ。


現に、秀ちゃんは今も私に背中を向けたまま、呑気にテレビを見ている。その無防備な背中は、私に対して完全に安心しきっている証拠であり、同時に、致命的なまでに危機感が欠如している――救いようのない、「生粋の盗っ人」の証明でもあった。


そりゃそうだ。彼は、私が自分の家の中をどれほど引っ掻き回されても気が付かない、鈍感で情弱な人間だと今も思い込んでいるのだから。


秀ちゃんは無防備に背中を向けている。あまりにも、気持ちが良いくらい無防備だ。


彼がテレビのリモコンを手に持ち、あくびをしながらチャンネルを変えようとした瞬間、私は背後から彼に飛びついた。


「おいおい、急にどうしたんだよ? 抱きついてくるなんて珍しい、なっちゃんらしくないじゃんか。びっくりするだろ」


秀ちゃんの声には、まだ私を「扱いやすい女」だと侮る甘えが色濃く混じっていた。


その隙を逃さず、私は彼の両手首を無理やり背後で合わせ、金属製の冷たい輪を噛み合わせて施錠した。


――カチリ、と。


逃れようのない硬質な音が、テレビから流れる笑い声と秀ちゃんの穏やかな日常を、強引かつ、静かに切り裂いた。


「マジか、なっちゃんて、結構積極的な一面があったんだ。“結婚するまで、そういうことはしたくない”って僕を何度も拒んでたくせに。もしかして、こういう拘束系ならOKだったってこと? 面白いじゃん。で、次は何をしてくれるの?」


「そうだよ、秀ちゃんの言う通り。私は、こういう『固定』や『整理整頓』に関しては、少しだけ積極的かもしれない」


私は彼の誤解を否定しなかった。その方が作業が捗るからだ。


余裕の笑みを浮かべたまま、事態を飲み込めずに呆然とする彼を尻目に、粘着剤が剥がれる不快な音を立ててガムテープを引き出した。


まずは両足を、次にその上からロープで、肉が食い込むまで「正しく」勢いよく縛り上げる。


そして仕上げに、彼の鼻の穴をガムテープで隙間なく、みっちりと塞いだ。


呼吸の逃げ道をひとつに限定された彼は、そこでようやく、異常事態が起きていることを理解したようだった。


手足の自由を奪われ、鼻を塞がれた人間は哀れである。

自分の置かれた状況に驚愕し、ほんの一瞬、死の予感が脳をかすめて冷静になった途端――恐怖の波が狂ったように押し寄せる。

鼻を鳴らすことさえ許されず、口だけでこの世の空気を貪るその姿は、あらゆる楽器を自在に操っていた器用なあの頃の彼とは、全く別の生き物のように見えた。


不意に、ソファに座るクマのぬいぐるみ「ヌル」の鋭い視線を感じた。漆黒の眼球の奥をじっと覗き込むと、ヌルがにっこりと笑っているのが見えた。


その瞬間、私の胸に喜びと温もりが広がる。

「そうだよね、ヌル。こうするのが、一番正しい整理整頓なんだよね」


「……なっちゃん、さすがにやりすぎじゃね? ここまでがっつりやられるとは思ってなかった。参った、降参。痛いし、息苦しい、とりあえず解いてよ、俺、こういうのは無理」


秀ちゃんからいつもの軽薄な声色は消えていた。その声に含まれた怯えの成分を、私は一滴も漏らさぬよう、耳と胸に刻みつける。


これから、サード・ステートを始める。

秀ちゃんの表紙を丁寧かつ緩やかに剥がして、その下に隠している腐り切った肉片を直視する。

巨大な柱と化していた怒りは、いつの間にか、指先が震えるほどの熱い期待と興奮へと変質していた。


「なっちゃん、早く解いて。この状況、意味わかんねえし、めちゃくちゃ苦しいから」


「あのさ、どうして私が、秀ちゃんにこんなことするのか……もう、察しはついてるよね?」


「なんだよ、そんなもん分かんねぇよ、いつも通り過ごしてただけだろ。気に入らないことがあるなら、はっきり言えよ!」


秀ちゃんの浅ましい叫びを、私は憐れみすら込めて聞き流す。


「じゃあ、今ここで見せてあげる。あなたが直視すべき、己の本当の姿を」


私は醜く膨らんだ秀ちゃんのダウンジャケットを手に取り、メインのファスナーを迷いなく下ろした。そして、背中側に不自然に潜んでいる「もう一つのファスナー」へ指をかける。じりじりと不快な音を立てて、それを完全に開いた。


「うわ、あーあ、なんだよ、レコード盗ったの、バレてたのかよ。知ってたんならなんで最初からさっさと言わねえの? 返してくれって言えばいいじゃねえか。めんどくせえ奴だな。はいはい、返してやるから、さっさとこの拘束を解けよ」


理不尽な開き直りからの逆ギレ。それが、追い詰められた彼の選んだ新しい「顔」のようだ。


「私が大切に保管していたビートルズのレコード、『イエスタデイ・アンド・トゥデイ』を盗ったよね。もう売り払っていることも知ってる。

レコードショップの店主さんに『もしかしたら、盗まれたレコードが買取に出されたかもしれない』と涙ながらに相談しながら、近隣の店を虱潰しに調べたの。そうしたら、あなたの署名が入った買取伝票が出てきた。

あれはね、おじいちゃんの形見なの。私にとって替えの効かない宝物で、家族の絆そのもの。――それを平気で換金したその口で、簡単に、『返す』なんて言わないで」


「なんだ、なっちゃん、そこまで調べ上げていたんだ。笑える、っていうか怖いんだけど。それで僕を捕まえて、こらしめようってこと? 探偵ごっこみたいなことしないでくれよ。気に入らないところがあるなら、最初から面と向かって話してくれたらいいじゃん、気が済むまで、殴ってくれても全然構わないよ」


鼻を塞がれ、身動きも取れず、命の鍵を握られている自覚を消失した状態で、彼はまだ私を「最終的には、言い負かすことのできる存在」として扱っている。

その謙虚さの欠片もない無謀な根性だけは認めたいし、その醜い熱量を電力だとか、何かの資源に役立てることはできないものかと、私は本気で考えた。


救いようのない傲慢さには、呆れを通り越して痺れた。

ああ、やっぱり。私の鋭い鑑定に間違いはなかったんだ。

彼は、私の手できっちりと整理されるべき、汚染された不純物。


私は、ふかふかとほかほかが交差する、恍惚とした心地で、ダウンジャケットの背中のファスナーの奥へ、改めて丁寧に指を滑り込ませた。


ダウンジャケットの巨大な隠しポケットから、新たに盗まれたレコードが顔を出す。引きずり出されたのは、不気味な色彩が歪む、あのジャケット。

ベルリオーズの『幻想交響曲』。アルヘンタ指揮、パリ音楽院管弦楽団のデッカ・オリジナル盤だった。


おじいちゃんが「このレコードには、空気の震えまで録音されている、ああ、たまらんのう」と顔を真っ赤にしながら自慢していた、我が家の家宝とも言える一枚。

レコードへ針を落とすたび、私はその凄まじい音圧と、ふいに訪れる静寂のギャップに、子供ながらに喉を詰まらせるような恐怖を覚えたものだ。


私が人生において、最も大切にしてきた聖域を、まるで嘲笑うかのように蹂躙した秀ちゃん。彼はもはや人間ではないのだろう。この世からきちんと整理されるべき、救いようのない異物である。


人の心を残酷に惑わし、汚染する――。そんな異物が、手のつけようがないほど巨大な怪物に膨れ上がる前に、人がひどく傷つき命を絶ってしまう前に、彼が人を殺めてしまう前に、私がこの手で成敗すべきなのだ。

この世の穏やかな秩序と、おじいちゃんが遺したあの美しい静謐を守り抜くこと。それこそが、私に課せられた使命なのだから。


「なっちゃんは何も分かってないんだよ、冷静になれば全部解決すること。今更盗みだとか、もう関係なくない? 押し入れに閉じ込めて聴いてもいないレコードの一枚や二枚くらい、いいだろ、ケチケチすんなよな」


その言葉を聴いた瞬間、私の中で最後の一滴まで、僅かに残っていた「情」が完全に、一滴も残らず勢いよく蒸発した。


「秀ちゃんにとって、これはただの換金材料……『古いプラスチックの円盤』に過ぎないんだね」


私の声は、自分でも驚くほど穏やかだった。 そして私は秀ちゃんが盗もうとしていた「幻想交響曲」のレコードを手に取り、優しくプレイヤーに乗せて静かに針を落とした。


「秀ちゃんは、ベルリオーズの幻想交響曲がどんな楽曲だか知ってる?どちらにしたって、このレコードを手に取るなんて、すごいよ。出会うべくして出会ったんだろうな、相性がぴったりなんだと思う。」


私はスピーカーから流れ出した不穏な低音に耳を傾けながら、優しく微笑んだ。


「マジでどうでもいい、くだらねえ、こんなことやめろよ、早く解放しろって言ってんだよ」


私は次第に荒くなる秀ちゃんの言葉に反応することなく話を続けた。


「このベルリオーズっていう作曲家はね、ひとりの女性を狂うほど愛したけれど、ひどく残酷に拒絶されたの。絶望した彼は、自らアヘンを煽った。……そのとき朦朧とした意識の中で見たのが、世にも恐ろしい悪夢。

『愛する人を自らの手で殺し、断頭台へ送られる』という夢よ。

この『幻想交響曲』はね、その夢の中で犯した罪の記録。――ねえ、素敵だと思わない? 私もある意味、大好きだった人とうまくいかず、その末に殺意を抱いたという点では、ベルリオーズと同じ状況かな」


「何が言いたいんだ、さっきからずっと気持ち悪い。お前ってもしかして、筋金入りの変態? 一体何者だよ? いい加減にしないと警察呼ぶぞ」


「あ、そっか、そういえば、秀ちゃんは私のこと何も知らないよね?そもそも、私に興味なんてなかったわけだし。せっかくだからここで、改めて、私の自己紹介しちゃおうかな。」


私は、これまでのどんな思い出よりも明るい、満面の笑みで秀ちゃんに答えた。


「今すぐに解放しないと、大声出して助けを呼ぶぞ?いいんだな?」


私はさらに秀ちゃんの言葉を無視して話を続ける。


「じゃあ、自己紹介するね。十年前、X県のT町で起きた未解決事件、覚えてる? 山奥の崖下で、棚橋守っていうおじさんが死体で見つかった事件。あのおじさんを殺したのは、私。当時、小学生だった私が殺したの。

あの人はね、表向きは完璧に『善人』を装っていたわ。子供にお菓子を配って、夏祭りの会長までして。でも、その仮面の下で『迷子の子猫を助けて』なんて嘘を吐いて、女の子を山奥へ連れ込んでいた。……そこで、口にするのも汚らわしい不純な行為を繰り返していたの。

私の親友だった彩ちゃんは、おじさんに壊された。私はね、その現場を、この目でずっと見ていたの。……彩ちゃんは十歳で死んだわ。おじさんは証拠を消すのが上手で、警察には捕まらなかった。

だから、私がおじさんを綺麗に『整理』してあげたのよ」


「……それ、本気で言ってるのか? 人を殺したって……。まさか、冗談だよな? おい、やめてくれよ。気持ち悪い、吐きそうだ……」


秀ちゃんは口から生唾のようなものをどろりと垂れ流しながら、青ざめていた。

私は少しだけ焦りを感じる。秀ちゃんは思ったよりタフじゃなかったんだ。なんだか少し寂しい。

彼が力尽きてしまう前に、伝えておかなくてはならないことがまだ山ほどあるのだ。


「小学生の私が、どうやって大人のおじさんを整理したかって?知りたいよね。実はね、簡単だよ」


私は、まるで授業で体験した簡単な理科の実験結果を淡々と報告するような口調で、言葉を重ねた。


「十年前のあの日、私は棚橋のおじさんに選ばれたの。

『子猫を助けるのを手伝ってほしい』なんていう、薄っぺらい嘘に誘われて山を登ったの。思っていた以上に遠くまで。

おじさんに手を引かれながら、私はずっと考えていたわ。……どうすれば、この不純物を一番効率よく片付けられるかって。


ちょうど、足場の悪い崖の淵に差し掛かったとき。私は顔を赤らめ、消え入りそうな声でおじさんにお願いしたの。

『……あの、私、お漏らしをしてしまいそう、どうしよう』


おじさんは、嬉しそうに言った『我慢はいけないね、ここでしなさい、思い切り』と言ってきた。その後、私が用を足そうとするのを執拗に覗き込もうとしてくるから、『向こう側を向いていてほしい』と伝えたの。するとおじさんは、妙な笑顔を浮かべながらくるりと背を向けたわ。


――その瞬間、私は、力一杯におじさんを突き飛ばしたの。


油断して脱力した大人なんて、子供の私の力であっけなくバランスを崩す。

ころころ、ざざざーって。

重力に従って、あるべき場所へ落ちていく塊を見届けたとき、私は確信した。

ああ、私は、こうして世界を正しく『整理』していく人間にならなくちゃって」


ふいに秀ちゃんを見ると、ぶるぶると膝を震わせていた。血走った目を見開き、口元からは糸を引くような涎がどろりと垂れている。

私と対等に渡り合える、鋭い牙を持った狼だと思っていたのに。これじゃあ毒を盛られた小動物と変わらない。

大きな声を出すと息巻いていた気力は、どこへ行ったのだろう。今の彼は、叫ぶための呼吸を整えることさえできなくなっているようだった。さみしさが加速した。


「私ね、ベルリオーズの幻想交響曲で一番好きなのは、今まさに、この部屋で流れている第四楽章なの、恋人を殺害した主人公が、死刑を宣告されて断頭台へ向かう行進曲。最終的にはギロチンでスパッとあっけなく首が切断されてね、ころころ〜っと地面を転がる描写までが、完璧に音で表現されているの。ここまで表現できることに、美しさを感じるよね。その描写を音楽に落とし込もうという発想が、心から素晴らしいと思わない?その機微を想像しながら聴いているだけで、うっとりする」


「幻想交響曲」がいよいよ、逃げ場のない狂乱へと加速していく。

軽快に、けれど重苦しく刻まれるティンパニの連打。この曲を知らない人からすれば、この第四楽章は“歓喜”や“祝福”の響きに聞こえるのかもしれない。

けれど、その無知こそが悲劇。

秀ちゃんとの出会いで、無知とは悲しいものだと、私は重々思い知った、もしかすると秀ちゃんも同じ気持ちでいるかもしれない。ゾンビのように蘇る僅かな「情」にうんざりする。


「悪かった、俺が悪かったから許してくれ、助けて、助けてくれ、お願いだ、お願いします」


細い声を絞り出し、秀ちゃんは泣いていた。

私はその全てを聞き流しながら、彼の涎で汚れたソファを除菌シートで拭った。

秀ちゃんの言葉数は次第に減り、瞼が半開きになっていく、意識の混濁に逆らうように、彼は体を左右に揺らしていた。

「喉が乾いた」と言ったときに渡した水道水。そこへ仕込んであった睡眠薬が、ようやくじっくりと、確実に効力を発揮しはじめたのだ。


「さっきから、まるで秀ちゃんが被害者みたいな顔をして。……助けてほしいのは、私のほうだよ。

私の均衡を、一滴の洗剤の重みも知らないあなたの手で、こんなに滅茶苦茶にされた。

秀ちゃんには、もう『助け』なんて必要ないでしょう?

息をするように嘘をつき、他人の大切な想い出を売り飛ばし、それでも明日には何事もなかったように笑っていられる。

そんな、何も痛みを感じない無敵な身体を持っていて、これ以上何を望む?

だから、私が正しく整理してあげる。それが唯一、あなたを綺麗に浄化する方法なんだから」


「……お前、バカじゃないのか。僕なんかより、お前の方がよっぽど、バケモノ。……いや、違う。もう手のつけようがない、巨大なモンスターだよ。嫌だ、ありえない。ここで終わるのかよ、死ぬ?いや、殺されるのか?ありえない、頼むから、助けてくれよ」


薬によってもたらされた圧倒的な睡魔に、秀ちゃんの身体がずっしりとソファへ沈んでいく。

抵抗する意志を失った肉体は、もはや生き物というより、ただの重たい荷物のようだった。


「睡眠薬が効いてきたみたいだね。……ねえ、秀ちゃん。が深い眠りへ落ちる前に、まだ、伝えたい真実があるの。

今日テレビのニュースになってたN町の通り魔事件、あれはね、私が実行したの。

刺し殺したのは、結婚詐欺師の島田賢治。知ってる? SNSって本当に便利でさ。島田はすでに有名人だったから、特定するのなんて簡単だった。

彼に騙されて全財産を貢いだ女性が自殺しても、警察はまともに動かない。

そんな卑劣な人間が、平然と生きていていいわけないじゃない。

これ以上、この世界を汚さないために、悲しむ人が生まれないように、私が成敗してあげた。――だって私は、正義の味方だから」


朦朧としている秀ちゃんは、だんだん赤ん坊のように退化しているように見えて、私は思わず抱きしめたくなった。


「……頼む、助けてくれ、解放してくれ、お願いだ、謝るから」


私は秀ちゃんの震える言葉を遮って、ささやいた。


「それじゃあ、答え合わせ。結婚詐欺師の島田賢治をどうやって成敗したか、教えてあげる。……すれ違いざまに、胸をひと突き。実は、これも案外簡単なことなの。私みたいに目立たない、地味な田舎娘が、自分の心臓を目掛けて突然走ってくるなんて、誰も想像しないでしょ? そんなこと頭の片隅にも想像できてない。

だから、あとは迷いなく、急所を狙うだけ。事前に勉強と訓練をしていれば簡単。

なんていうのかな、あの感覚……。そう、六段の跳び箱を飛ぶ時に似ているわ。『いける。飛べる』って、グッと手を前に出して、勢いよく飛び込むの。あの瞬間、世界がふっと軽くなるの」


秀ちゃんは、逃れられない睡魔に侵食されながら、赤ん坊のような細い声を漏らして泣き続けた。


「秀ちゃん、眠いよね? でも頑張って聞いて。二人目の被害者は、桑元怜。一人暮らしのお年寄りを騙して、家宝や思い出を二束三文で奪い取る、とんでもなく不潔な男だった。

全財産を搾り取られた老夫婦は路上生活者になって、そのまま亡くなったの。私、おじいちゃん子だったから許せなかった。……ああ、今思い出しても、あの不純物を細かく切り刻んでやりたいくらい、腹が立つ。

……ねえ、そんなことよりさぁ、秀ちゃん。人間にとって『排泄』って、本当に危険な行為だと思わない?

だって、私がトイレに入って用を足していた、たった数分。その無防備な隙に、あなたは私の大切なレコードを盗んで、その薄汚れたダウンジャケットに隠したんでしょ。

私にとって『おしっこ』はね、これからの人生で一生、油断できない致命的な欠陥になっちゃった。……あーあ、最悪。完全なトラウマ。どう責任取ってくれるの?」


その問いかけに答えるように、『第四楽章・断頭台への行進』がフィナーレを迎える。

オーボエが奏でる、甘い走馬灯のような一瞬の静寂。直後、それを嘲笑うようにギロチンの刃が落ちる鋭い衝撃。

切断された首が転がり落ちるさまを、弦楽器のピチカートが鮮やかかつ残酷に、そして軽やかに描き出した。

間髪入れず、狂乱のファンファーレが狭い部屋中に鳴り響く。ティンパニの凄まじい連打とともに、絶叫に似た全合奏トゥッティが、鮮やかに幕を引き取った。


気がつくと、部屋は不気味なほどの静寂に包まれていた。

私は沸かしたばかりの麦茶をマグカップに注ぎ、いちごみるくの飴を二つ、口に放り込む。

奥歯でバリバリと噛み締めると、破砕音が脳内へ鮮やかに響き渡った。

じわっと広がる甘さが脳天を侵食していく。その快感に、全身が震えるほど熱くなった。

にっこりと微笑む私の相棒、クマのぬいぐるみのヌルを抱きしめると、さらに胸が高鳴る。


「ねえ、ヌル。ようやく、静かになったね」


私は仏壇の前で静かに手を合わせた。

「……おじいちゃん、ごめんね。私、やっぱり正義の味方をやめられない」


今から十年前のこと。末期の癌に侵され、枯れ木のように痩せ細ったおじいちゃんは、震える手で私の手を握りしめて言った。


『おじいちゃんはな、正しい治療を受ければ癌を退治して、完治することも可能だった。でもな、拒否したんだ。……それはな、儂が天罰をすべて引き受けて死に、この世から消えることで、夏実の犯した罪を帳消しにするためなんだよ。

だから夏実。これからは自分の幸せだけを考えて生きなさい。もう、あんなことは繰り返すんじゃない。普通の女の子になるんだよ』


おじいちゃんは、私が棚橋のおじさんを崖から突き飛ばして殺したことを知っていた。きっと私が当時書いていた日記を読んだのだろう。

日記には、どのようにして棚橋のおじさんを殺したか、その感触まで事細かに綴っていた。


おじいちゃん。あなたは自分の命を懸けて、私を「正そう」としてくれた。

でも、ごめんなさい。

私は、おじいちゃんが命懸けで私を愛してくれたように、この世界に増殖し続ける悪意を、確実に正したいの。

おじいちゃんが私の罪を食べてくれたように、私も命を懸けて、この世界の悪意を食べ、全てを「整理」しなければならないの。

それが、おじいちゃんの愛に応える、唯一の方法だと信じているから。


でもね、


今ならわかる。あの時のおじいちゃんの言葉は、悲しい矛盾に満ちていたということが。

「普通の女の子になるんだよ」という言葉は、きっとおじいちゃんの精一杯の「やさしい嘘」だったのだ。

おじいちゃんの四十九日が過ぎ、遺品整理をしていた時のこと。

押し入れの奥から、見慣れないエメラルド色の箱を見つけた。それはマトリョーシカのように幾重にも重なり、ようやく辿り着いた最後の一箱には、震えるような達筆で「猛毒」と記されていた。

中には、小瓶がずらりと整列していた。

それぞれのラベルには、毒の名称。そして丁寧な筆致で、一つの間違いも許さないと言わんばかりに「致死量」が書き込まれていた。


その瞬間、私はすべてを察した。

おじいちゃんも、私と同じ側の人間だったのだ。


箱の二重底には、一冊のスクラップブックが隠されていた。

そこには未解決事件の新聞記事がびっしりと貼り付けられている。幼児を手にかけた連続殺人犯や、一家を惨殺した強盗犯が、法の手を逃れた後に「謎の死」を遂げたという記事の数々。

その見出しの横には、まるで子供のテストの採点のように、真っ赤なインクで大きな「花丸」がつけられていた。


おじいちゃんは、ただの温厚で優しいおじいちゃんでいることを、懸命に自分へ強いていたのだろう。どこにでもいる、「普通の優しいおじいちゃん」になりたかった。でもなれなかった。

この真実を、偽物の表紙で隠し通すことができなかったのだから。


最後の手紙のようなあの言葉「普通の女の子になりなさい」という願い。

それは、癌に侵され、判断力も思考も濁っていく中で、彼が最期に絞り出した本音だったのだと思う。

自分が一生かけてもなれなかった「普通のおじいちゃん」なら、愛する孫にこう言うはずだという、混濁した意識の中での必死な、あまりにも切実な祈り。


「大丈夫だよ、おじいちゃん。私、ちゃんと普通の女の子になるから。愛してくれてありがとう」


だから私は、あの日のおじいちゃんに、「やさしい嘘」をつくことができて良かったと思う。


そう伝えた時の、おじいちゃんの安らかな顔。

私は今でも、あの嘘は、私がこれまでの人生で行ったどの「整理」よりも美しかったと、今でも確信している。


私は両親に見つかる前に、おじいちゃんが大切にしていたエメラルドの箱を、大急ぎで自分の部屋へ隠した。

おじいちゃんは「普通の女の子になりなさい」と孫娘に言い聞かせながら、死が刻一刻と迫る日々のなかで、この毒薬に満ちた箱だけは、どうしても処分できずに残したのだ。


それは、確信犯、おじいちゃんは、私に見つけてほしかったのだ。

自分の生きてきた証を、その「正義」を。血の繋がりのある私にだけは、本当の自分を肯定してほしかったのだ。


「おじいちゃん。あなたは優しいだけじゃなくて、本当にかっこいいよ」


その気持ちを、生きているうちに伝えてあげられなかったことだけが、私の唯一の後悔だった。


だから私は、もう二度と後悔しない。

おじいちゃんの生きた証を、その血を、私の「整理」で肯定し続ける。

それが、世界で私一人だけが知っている、おじいちゃんへの最高の供養なのだから。


私はマグカップに残り、冷めた始めた麦茶を飲み干し、ゆっくりと立ち上がった。

エメラルド色の箱から、あの日おじいちゃんが遺した「答え」を取り出す。そして、丁寧に、正確に、致死量を測り取る。


睡眠薬で深い眠りの中にいる秀ちゃんの唇を優しく割り、その粉を舌の上へと流し込んだ。

この状況では飲み込めるかどうかもわからない。

そのまま唾液に溶けて死に至るか、あるいは奇跡的に嚥下して、生き長らえるのか。

それは、一度は本気で慈しんだ秀ちゃんに対する、私なりの、最後の愛情らしきものだった。


もし目を覚まして生きていたら、私を通報していい。その時は私の人生も一緒に整理されるだけ。そうなってもいい、そうなるべきだという覚悟で、私は今、この瞬間に挑んでいるのだから。

私は今、その『答え』の行方を、ただ静かに見つめて——深く、呼吸をした。


傍らでは、相棒のヌルが弾けるような笑顔で私を見つめていた。その漆黒の眼球の奥に、おじいちゃんがつけていたのと同じ、満点の、真っ赤な『花丸』が垣間見えたような気がした。


「おやすみ、秀ちゃん」


私は、次第に熱を失っていく秀ちゃんの体に、清潔なブランケットを優しく、端を揃えてかけた。


翌朝。インターホンの音で目が覚めた。

すべての「整理」を終えたあと、五百ミリリットルの缶ビールを一本空けた私は、泥のように眠っていたらしい。


「おはよう、なっちゃん! キャンプの場所取り、大変だろ? 迎えに来たよ」


アパートの大家、田畑さんの快活な声だ。

引っ越してきた時から、重たい家電を運んでくれたり、手作りコロッケを差し入れしてくれたりする、まるで親戚のように優しい人。

去年もこのアパートの学生の引越しを手伝ってやったんだと、彼は得意げに笑っている。


「大学生の付き合いも大変だね。先輩後輩をすぱっと束ねて盛り上げなきゃいけないなんてな、それで、キャンプの荷物はこれで全部かい?」


「はい。テントの袋が三つもあるので、結構な重さなんです。色々任されちゃって……すみません、重たいのに」


「任せとけって。じゃあ、サッと車に積んで、山頂まで行っちゃおうか」


田畑さんは私の荷物をひょいと肩に担ぎ上げた。


「おお、こりゃ思ったより重いな!最近のテントは頑丈なんだな」


秀ちゃんは華奢な体格だったから、テント専用の大きな収納袋にすっぽりと収まった。

それでも、田畑さんの背中で揺れるその袋はずっしりと重い。歩くたびに中の「質量」が不規則に揺れ、私は改めて、彼が「人間の肉の塊」になったのだと実感した。


山頂で荷物を下ろしてもらい、田畑さんを見送った。

「先輩・後輩たちとのキャンプ」という嘘に、何の疑いもなく協力してくれた田畑さんの優しさに、一瞬だけ胸がチクリと痛む。

でも、それは田畑さんを騙したことへの謝罪というより、私の「完璧な整理」に、無垢な善意を混ぜ込んでしまったことへの、潔癖な自己嫌悪に近かった。


早朝のキャンプ場は、ひんやりとした空気に満ちて、鬱蒼としている。ゴミ一つ落ちていない「まっさらな空間」は、どこまでも気持ちがいい。

訪れる人など誰もいないここは、世界で一番静かな、私だけの「心の焼却炉」なのだ。


私はひとりぼっちのキャンプ場で、儀式を執り行うようにテントを設営し始めた。

経験のない不慣れな作業に酷く体力を削られたけれど、秀ちゃんという不純物を完全に封じ込めるための「蓋」なのだと思うと、指先まで力が漲った。


綺麗にテントを立てたあと、大きな袋から秀ちゃんを取り出し、テントの真ん中に横たえた。


多くの人の心を土足で踏みにじり、汚い暴言を吐き散らしていた秀ちゃん。私の平穏をかき乱し、多くの女性の涙を「安い快楽」に換えてきた一人の男性が、今はこんなにも静かな姿で横たわっている。


肉体から澱みなく溢れ出す、完璧な「静寂」。

その美しさに触れたくて、私は彼の頬に口づけをした。

唇からは、ほんのり薬品の香りがした。


正義と悪は表裏一体。この世の道徳に反した人間を、私は道徳に反した方法で『整理』する。

それが、おじいちゃんから受け継いだ私だけの、唯一の『誠実さ』なのだから。


最後にテントの入り口をきっちりと閉め、一ミリの緩みもないようにジッパーを合わせた。

リュックサックの底で、ずっと出番を待ってくれていたヌルを取り出す。

私はこの愛しい相棒と共に、静まり返った秀ちゃんへ最後のお別れを告げた。


いちごみるくの飴を二つ、口に放り込む。奥歯でバリバリと噛み砕く。

今日はなぜか、喉の奥まで焼けるように甘く感じる。

なのに、舌の根元には、精神が濾過ろかしきれなかったわずかな苦さが、静かに残った。


山頂から見下ろす街はとても小さく、手のひらで簡単にパチンと潰せてしまいそうで、心が震えた。


私はもっと、もっと、大きくならなくちゃ。

大きくなって、この世界の悪い空気をすべて吸い込み、綺麗に浄化して吐き出して、均衡を保つの。


それが私の使命なんだから。ねえ、おじいちゃん。


湿気を孕んだ山の空気を鼻から深く吸って、口からゆっくりと吐き出した。しっとりとした空気が私の臓器を優しく抱きしめるように包み込み、満たしてくれる。


体の中に僅かに残り、ゆるやかに巡っていた秀ちゃんの欠片が、すうっと霧散していくのを感じた。


——次に吸い込んだ空気は、少しだけ軽くなっていた。

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