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アシュフォード荘の空中回廊

作者: 秋月恒一
掲載日:2026/06/22

「アシュフォード荘の空中回廊」


ワトソン(手記)

本件については、長らく公にすることを控えてきた。

関係者の名誉に深く関わる問題であったためである。

しかしながら――主要な当事者はすでにこの世を去り、また関係各位の権利関係も整理された現在において、もはや記録として残すことに差し支えはないと判断した。

ここに、その一部始終を忠実に記すこととする。


ホームズ:

それで、いくら損をしたのかね、ワトソン?

ワトソン:

……いったい、なぜそれを? 私はまだ何も申し上げておりませんが。

ホームズ:

いや、すでに十分語っているよ。もっとも、君自身はそのことに気づいていないようだがね。

ワトソン:

まるで見当がつきません。どうかご説明願えますか。

ホームズ:

この新聞に目をやりたまえ。君には実に規則的な読み方の癖がある。まず下段右側から始め、次に上段へ移り、最後に左側へ――私は以前からそれを観察して知っていた。

ワトソン:

ええ、その通りです。

ホームズ:

だが今朝のそれは、下段右側を開いたまま止まっている。それ以上読み進めた形跡がない。すなわち、その箇所を目にした瞬間に、君は読む気を失ったのだ。

ワトソン:

……なるほど。

ホームズ:

しかも、その位置に載っているのは証券欄だ。君にとって看過し得ぬ、しかも望ましからぬ知らせがあったと考えるのが自然だろう。

ワトソン:

どうやら、その通りのようです。

ホームズ:

さらに言えば、

玄関には君のステッキが昨日と同じ角度で立てかけられている。

誰も触れていない証拠だ。

普段の君ならば持たずに出ることはまずあるまい。つまり君は、相当に急を要する事情に駆られて外出したわけだ。

ワトソン:

確かに、慌てて家を飛び出しました。

ホームズ:

証券欄で損失を知り、即座に対処に向かった――そして帰宅後もなお心穏やかならず、読みかけの新聞のことすら意に介していない。

――以上を合わせれば、結論は明白だよワトソン。

ワトソン:

見事というほかありません、ホームズ。お察しの通り、私は出版社株で相当の損失を被り、その大半を手放さねばなりませんでした。

ホームズ:

君の習慣と、その些細な乱れを見逃さぬこと――ただそれだけのことだよ。

ワトソン:

あなたに観察されていると思うと、いささか薄気味悪くもありますな。

ホームズ:

はは、なに。私にとってはごくささやかな気晴らしに過ぎんのだ、親愛なるワトソン。


(ホームズはそう言うと、不意に窓辺へ歩み寄り、外の通りに目を向けた。)


ホームズ(目を細めて):

おや……タウンコーチか。しかも、紋章入りとは。

ワトソン:

来客ですかな?

ホームズ:

そのようだ。しかも、ただの訪問者ではあるまい。

――こちらに向かって来る。

(彼はわずかに振り返り、口元に微かな笑みを浮かべた)

ホームズ:

ワトソン、どうやら君はその損失を、しばし忘れていてもよくなるかもしれんよ。

ワトソン(手記):

かくして私は、またしても彼の言葉に導かれるまま、新たな事件へと身を投じることになったのである。


呼び鈴が鳴る。


ホームズ:ハドソンさん、すぐにお通ししておくれ。

ハドソン夫人に促されるまま、一人の紳士が静かに部屋へ入ってきた。その物腰と装いから、相当な身分の人物であることは一目で知れた。

ホームズ(軽く一礼して):ようこそ。……お忍びでいらしたようですが――ヴァイカウント・アシュフォード卿とお見受けします。

アシュフォード:

……なぜ、私の名を?


ホームズ(微笑して):

ご安心を。特別な推理というほどのものではありません。


今しがた玄関先に停まっている馬車を拝見しましたが――

扉に刻まれた紋章、あれはアシュフォード家のものですな。


先日、先代の訃報を報じる新聞にその意匠が挿絵付きで掲載されておりましてね。

トネリコの木と水瓶を象った、なかなか印象的な図柄だ。ああした古い紋章を現在でも用いている家系は、そう多くはない。

加えて、その仕立ての良い外套……相当に由緒ある家の方だ。

――となれば、答えは自ずと絞られる。


アシュフォード(小さくため息をついて):

……見事だ。確かに私はアシュフォード家の者です。

アシュフォード:

実は、我が領内で少々厄介な事態が起こりまして……こうしてお伺いした次第です。

お話をお聞きいただくことは可能でしょうか。

(わずかに言い淀み)

ただ一点……お願いがございます。

本件は、我が家の名誉にも関わる問題でして……

できる限り、外部に漏れることは避けたいのです。

(そう言って、彼はちらりとワトソンの方へ視線を向けた。)

ワトソン(手記):

その視線の意味するところは明白であった。私は席を外すべきかと、わずかに身じろぎした。

しかし――

ホームズ(即座に、静かだがきっぱりと):

それはいけませんな、アシュフォード卿。

(室内の空気が、わずかに緊張する。)

ホームズ:

彼はジョン・H・ワトソン――医師であり、そして私の親友です。

これまで私の関わった数々の事件に立ち会ってきた、信頼できる人物でもある。

(ホームズは椅子の背にもたれ、穏やかに続けた。)

ホームズ:

もしワトソンを外すというのであれば――残念ながら、そのご依頼はお引き受けできません。

(しばしの沈黙)

ワトソン(手記):

私は思わず彼の横顔を見つめた。そこにはいつもの皮肉な軽さはなく、揺るぎない確信だけがあった。

アシュフォード(ゆっくりと息を吐き):

……失礼を。私の考えが浅はかでした。

ワトソン博士にも、ぜひ同席いただきたく思います。

ホームズ(軽くうなずいて):

賢明なご判断です、卿。

では――本題を伺いましょう。



アシュフォード:

……実は、我が一族の古き居城には、東館と西館を繋ぐ『空中回廊』がございます。

地上からかなりの高さに架けられており、その真下には深い人工池が広がっているのです。


さらに回廊の両端には――我が家の紋章にも用いられている――巨大な水瓶が設置されております。


亡くなった義父は、いささか風変わりな人物でして。

中世の城塞建築や、大がかりな機械仕掛けを狂信的に好んでおりました。

あの空中回廊も『いざという時の防衛用だ』と称し、莫大な費用を投じて増築させたものなのです。


ワトソン:

そこで、何かが起きたのですな?


アシュフォード:

はい。事件のあった日は、昼よりハンター仲間を連れ立って狩りに出ておりました。

ところが、にわかに天候が崩れまして――急いで屋敷へ引き返したのですが……


まさにバケツをひっくり返したような豪雨が、すぐさま降り出したのです。


その後、びしょ濡れになった我々は西館へ下がり、着替えを済ませてカードに興じておりました。

夜通し雨は続きましたが、大きな雷鳴の後には次第に小降りとなり……


やがて、明け方には完全に止んでおりました。


そして翌朝――

我が家の執事、ジェームズ・ハロウェイが……


回廊の真下、池のほとりの石畳で息絶えているのが発見されたのです。


ワトソン:

不運にも、嵐の中で足を滑らせて転落した……と?


アシュフォード:

警察はそう判断いたしました。

しかし、遺体の状態があまりにも不可解だったのです。


単なる転落にしては衝撃が激しすぎる。

まるで高所から――石壁に向かって力いっぱい叩きつけられたかのように、

片半身に凄まじい打撲が集中しておりました。


それだけではありません。

遺体は――文字通り、回廊の真下に中心に落ちていたのです。


ワトソン:

それは確かに妙ですな。

欄干から落ちたのなら、外側へ弧を描いて落下するはずです。

回廊下の中心に落ちるとは……いささか不自然だ。


アシュフォード:

おっしゃる通りです……


さらに奇妙なことに、

回廊の床を固定するための鉄の杭が――

なぜか引き抜かれ、近くに落ちていたのです。


(短い沈黙)


ホームズ(椅子の背から身を起こし、双眸が鋭く輝く):

ほう……石壁への打撲……


そして、引き抜かれた鉄の杭……


(わずかに口元が緩む)


ホームズ:

なるほど――実にもって興味深い。


ワトソン、これ以上ベーカー街で暖炉に当たっている理由はなくなったよ。

煤煙にまみれたロンドンを離れ、その奇妙な屋敷――アシュフォード荘へ赴くとしようじゃないか。




はたして、数刻ののちには我らは車上の人となり、アシュフォード荘へと向かった。

そしてその日の夕刻――我々はついに目的の地へと到着したのである。


ホームズ:

みたまえ、ワトソン。あれが紋章の由来となったトネリコの大木だ。

その傍らにそびえ立つ、あの城のごとき邸宅――あれがアシュフォード荘だな。


ワトソン(手記):

なるほど、実に壮観である。


トネリコの巨木に寄り添うようにして屹立するその邸宅は、

まるで古き時代の城塞をそのまま現代に繋ぎ留めたかのような威容を備えていた。


しかし私は、その圧倒的な存在感に目を奪われながらも――

なお拭いきれぬ奇妙な感覚に囚われていた。


それは、単なる歴史の重みとも、荒廃の気配とも異なる。

あたかもこの館そのものに、何者かの意図が刻み込まれているかのような――

言い知れぬ“作為”の気配であった。



邸宅にて我々を出迎えたのは、数人のメイドを従えた一人の貴婦人――

レディ・エレノア・アシュフォードであった。


エレノア:

まあ、あなた――どちらへお出かけでしたの?

お帰りなさいませ。


アシュフォード:

ただいま、エレノア。

客人をお連れした。

こちらはシャーロック・ホームズ氏と、そのご友人であるドクター・ワトソンだ。

しばらくのあいだ、この邸に滞在していただく予定でいる。


エレノア(わずかに眉を曇らせて):

……申し訳ございませんが、ただいまは来客をお迎えする余裕がございませんの。

少々体調もすぐれませんので、十分なおもてなしができかねますわ。


ホームズ(軽く頭を下げて):

いや、お気遣いには及びません、レディ・アシュフォード。

かえって、かような折にお邪魔したのは我々の方ですから。

用件が済み次第、速やかにお暇するつもりでおります。



ワトソン(手記):

そう言うと、レディ・アシュフォードは早々に会釈を残し、自室へと引き上げてしまった。

その蒼白な顔には、わずかに憂いの影が差しているように、私には思われた。


ホームズ:

それでは、卿。しばし使用人たちに話をうかがってもよろしいですかな?


アシュフォード:

ええ、構いませんとも。

私は自室におりますので、何かあればお呼びください。


ワトソン(手記):

かくしてホームズは、まず使用人部屋へと足を向け、居合わせた者への聞き取りを始めたのである。


ホームズ:

では、お嬢さん。

執事の亡くなった、当日の様子について伺いたい。


メアリー・コリンズ(メイド):

はい……あの日は、午前中の給仕を終えたのち、

昼過ぎには旦那様が外出なさいました。

奥様は西館二階の談話室で、お客様とお話しになっておられました。


そのお客様は、雨が降り出す前にはお帰りになりましたが……


やがて本降りとなった頃、旦那様がずぶ濡れでお戻りになりまして。

私どもはそのお世話に追われておりました。


ホームズ:

なるほど。では――ハロウェイは?


メアリー(わずかに顔を曇らせて):

……執事とは申しますが、あの方はあまり職務に関わろうとはなさいませんでした。

多くの時間を自室で過ごしておられ、何をなさっているのか、詳しくは存じません。


見た目は大変整っておられて、目を引くお方ではありましたが……

その……正直申して、あまり好ましくは思っておりませんでした。


ホームズ:

ほう……。

では、その日も普段と変わらぬ様子で?


メアリー:

ええ、概ねは。


ただ――一点だけ、気になることがございます。


ホームズ:

聞こう。


メアリー:

夕刻頃、ハロウェイ様が旦那様の居場所をお尋ねになりました。

西館一階で、お客様方とカードを楽しまれているとお答えしましたところ……


少し困ったような表情をなさって……

「そうか」とだけ仰って、再びご自室へお戻りになりました。



ホームズ:

ありがとう。参考になったよ、お嬢さん。

では――あなたにも当日のことを聞かせてもらえますかな、ブラッドリーさん。


トマス・ブラッドリー(庭師):

へい……あの日は昼から雨でしてな。

庭の仕事もできず、ずっと自室に引っ込んでおりました。


……すると、あの――ハロウェイの野郎が、わざわざ訪ねてきやしてね。

「レインコートを貸してくれ」なんて言い出したんです。


ホームズ:

ほう。


ブラッドリー(肩をすくめて):

まったく、虫のいい話でさぁ。

先代様の頃から仕えてるってのに、あの男ときたら

アシュフォード家に対して、これっぽっちも忠義なんざ感じられねえ。


最初は断ったんですが……しつこく食い下がられましてな。

仕方なく、貸してやったんでさぁ。


ホームズ:

……それで?


ブラッドリー:

そのコートを着たまま――

翌朝にゃ、そのまま死体で見つかったってわけです。


……縁起でもねえ話でさぁ。


ホームズ:

ほかに、気がついたことは?


ブラッドリー(鼻を鳴らして):

あの優男は、その見てくれで先代様に取り入ってやがりましたが……

この館じゃ鼻つまみ者でしたよ。


ほかの連中に聞いたところで、

ろくな話は出てこねえでしょうな。



ホームズ:

ブラッドリーさん、あなたはこの館に仕えてどれほどになりますかな?


トマス・ブラッドリー(庭師):

そうですね……もうかれこれ二十年になりますかね。


ホームズ:

では、この館の構造についても、ある程度はご存じと見てよさそうだ。


ブラッドリー:

ええ、わかる範囲でならお答えできますよ。


ホームズ:

では――東館と西館を繋ぐ、あの空中回廊についてだが。


ブラッドリー(苦い顔をして):

ああ……あれですか。

先代様の道楽でこしらえた代物ですよ。

なんであんなものを造ったのか、今でもさっぱり分かりませんが……

いやはや、あの熱の入れようは大したもんでした。


ホームズ:

ふむ……では、あの両端にある水瓶は?


ブラッドリー:

あれは昔、水不足のときに備えて貯水用に使われていたんです。

生活用水を溜めておくためのものでしたが……

最近じゃ、まったく使われておりませんな。


ホームズ:

その水を抜く場合は、どのように?


ブラッドリー:

底のところに支点がありまして。

私くらいの力があれば、瓶を傾けることができます。

少しずつ傾けて、水をこぼして空にする仕組みです。


(ホームズはわずかに目を細める)


ホームズ:

なるほど……実に興味深い。

よくわかりました、ありがとう。


(軽く振り返り)


ホームズ:

ではワトソン、次は現場を見てみるとしよう。

――ブラッドリーさん、恐縮だが、遺体の発見された場所へ案内していただけますかな?


ブラッドリー:

ええ、構いませんよ。こちらです。


ワトソン(手記):

私はブラッドリーの後に続き、例の回廊へと向かった。

やがてその全貌が視界に現れるにつれ――


私は、言い知れぬ威圧感に息を呑まずにはいられなかった。



空中回廊の真下付近まで来たところで、ふいにブラッドリーが手を上げ、ある一点を指し示した。


ブラッドリー:

……そのあたりです。

あの野郎が倒れていたのは。


ホームズ:

君が発見したのかね?


ブラッドリー:

ええ……。

最初に見つけたのは、他でもない、わたしでさぁ。


あの豪雨の翌朝でしてな。

庭の様子を確かめておこうと見回っていた最中に……見つけちまったんです。


ホームズ(静かにうなずいて):

なるほど。

そのとき、何か気づいたことは?


ブラッドリー(顔をしかめて):

……いや、正直なところ、詳しいことは覚えてねえんでさぁ。


見つけたときはもう、気が動転しちまって……

すぐに屋敷の連中を呼びに走っちまいました。


あの男の死に様についても――

どうにもはっきりした印象が残ってねえんです。


ほどなくして警察が来て、検分が始まりましてね。

それから先は……あっしの出る幕じゃありませんでした。



ホームズ:

ありがとう、ブラッドリーさん。大いに参考になったよ。

――ここから先は、我々だけで十分だ。


ブラッドリー:

へい、こんなことでよければいつでも。

では、あっしはこれで……。


(そう言って、庭師は静かにその場を離れていった。)



ワトソン(手記):

ブラッドリーの姿が庭の奥へと消えていくのを見届けたのち、

我々は現場の観察に取りかかった。


人工池は相当の深さを有しているようであったが、

一昨晩の豪雨の影響で、さらに水位が上昇しているらしい。

我々の立つ石畳の縁ぎりぎりまで水が迫り、

濁った水は近くの河へと流れ込んでいるように見受けられた。


その一方でホームズは、死体の発見された地点の周辺にしゃがみ込み、

鋭い眼差しで地面を丹念に調べていた。


石畳と土の境目を指先でなぞりながら、


ホームズ:

……この足跡は捜査員のものか。

――どうやら連中、現場をひととおり荒らしていったようだな。


と、低く独りごとをいう。


やがて彼は立ち上がり、ゆっくりと視線を上へ向け、

回廊全体を見渡すように観察し始めた。


――そのときである。


ホームズ(ふいに声を上げて):

おや……あれは何だね。


(振り返り)


ホームズ:

ワトソン、君の頭上だ。見てみたまえ。


ワトソン(手記):

私は言われるままに顔を上げた。


西館の壁面、地上から十五フィートほどの高さ。

そこに、わずかながら暗い染みが付着しているのが見えた。


雨に洗われ、すでに大半は滲んでいたが――


それが血痕であることに疑いの余地はなかった。


ワトソン:

警察は、この血痕に気づかなかったのかね?


ホームズ(静かに首を振って):

連中は誤った仮説のもとに、誤った調査をしているからだよ。


正しい推理に基づいて現場を見れば、

この位置に血痕が存在するのは、むしろ当然の帰結なのだ。


(わずかに間を置いて)


ホームズ:

転落事故であれば――この高さに血痕は残るまい。


ワトソン(考え込みながら):

なるほど……

確かに、いかに激しく落下したとしても、

遺体の位置からこの高さへ血が飛び散るとは考えにくい。


ホームズ(低く、しかし確信を帯びた声で):

……これで、また一つ――鍵となる手がかりが揃ったというわけだ。



ワトソン(手記):

我々は現場を離れると、そのまま執事ジェームズ・ハロウェイの自室へと向かった。

そこに、事件解明の手がかりがあるとホームズは踏んだのである。


室内は比較的よく整えられており、

その様子からは、彼の几帳面な性格がうかがえた。


ホームズ:

何かがあるはずだ、ワトソン。手分けして探そう。


ワトソン:

ああ、わかった。


ワトソン(手記):

しばらく捜索を続けるうち、私は鍵のかかった机の引き出しを見つけた。

そこで直ちにホームズを呼び、その存在を伝えた。


ホームズ(かすかに口元を緩め):

君は、私が鍵と鍵穴についての論文を発表しているのを知っているかい?


ワトソン(手記):

そう言うと彼は、内ポケットから細い針金のような道具を取り出し、

慣れた手つきで鍵穴へ差し入れた。


カチャリ――


小気味よい音とともに、引き出しはあっけなく開いた。


中は一見すると空のようであったが、

ホームズは底板のわずかな隙間に気づき、コインを差し込んでそれを持ち上げた。


するとその下には――


大量の書簡とともに、一冊の帳簿、そして日記が隠されていたのである。


ホームズは無言でそれらに目を通し、

やがて、低く呟くように言った。


ホームズ:

……見たまえ、ワトソン。


これらの内容は、いずれも胸の悪くなるものばかりだ。

私はこれまで数多くの犯罪者を見てきたが――

この男は、その中でも五指に入るかもしれん。


外見はさぞ整っていたのだろうが……

中身がこれほど腐りきっている人間は、そう多くはない。


ワトソン(手記):

私も内容の一部に目を通したが、

そこに記されていたのは、他人の弱みや醜聞、

そしてそれらを利用した執拗な金銭の要求――


目を覆いたくなるような記録ばかりであった。


ここまで他者に対して冷酷無比であれるものかと、

私は強い嫌悪と同時に、ある種の驚きを覚えたのである。


そして我々は――


ついに空中回廊へと捜査の矛先を向けたのだった。



(場面転換。アシュフォード荘、空中回廊にて)


ワトソン(手記):

初めてその回廊の上に立ったとき、私は思わず足を止めた。


眼下には深い人工池が広がり、その水面は重く濁っている。

左右には巨大な水瓶が据えられ、全体が不自然なほど均整の取れた構造を成していた。


――しかし、その静謐の中に、どこか均衡を欠いたような、

言い知れぬ不安定さが潜んでいるように感じられてならなかった。


空中回廊へ到着したホームズは、休む間もなく調査に取りかかった。

彼は両端を何度も往復し、床下の構造を虫眼鏡で覗き込んでいる。


ホームズ:

警察は「嵐による不幸な転落事故」と結論づけたようだが――


(静かに首を振る)


ホームズ:

ワトソン、この回廊はただの橋ではない。

中央の支点を軸として上下に作動する、巨大な“天秤”なのだよ。


ワトソン:

天秤だって!? 馬鹿な、ホームズ。

これほど巨大な石造りの構造物を、どうやって動かすというんだ。


ホームズ:

動力は――一昨夜の“あの豪雨”だよ。


この回廊の両端、その床下には重量の均衡を保つための水瓶が仕込まれている。

平時であれば左右の水量は等しく保たれ、いかなる重量にも耐える。


だが――もし片方の水瓶だけが空で、

もう一方にだけ水が蓄えられたとしたら、どうなるかね?


ワトソン(息を呑む):

……均衡が崩れる。


ホームズ:

その通りだ。


犯人はあらかじめ、東館側の水瓶の吸水口を密かに塞ぎ、

雨水が流れ込まぬよう細工していた。


私が床下から回収した油布の切れ端が、その証拠だ。


一方、西館側の水瓶には豪雨が容赦なく流れ込み、

回廊はすでに危険なほど不安定な状態となっていた。


――固定さえ外れれば、いつでも東館側の回廊は跳ね上がり得る状態に、だ。


ワトソン:

あの杭を引き抜けるとは思えんが……


ホームズ(静かに):

力は不要だ。


犯人は杭にロープを結び、その先にバケツを取り付けていた。

そしてそれを、回廊の縁ぎりぎりに据えていたのだ。


ワトソン:

では……雨水が溜まり、その重みで?


ホームズ:

いや、それだけではない。

そこがこの計画の肝だ。


確かに豪雨により、回廊はすでに不安定となり、

バケツにも杭を引き抜くに足る重量が備わっていた。


――しかし、それはあくまで“準備”に過ぎない。


ワトソン(息を詰めて):

では……決定的な瞬間は?


ホームズ:

犯人自身の手だよ。


被害者が回廊の適切な位置に差しかかった瞬間、

縁に置かれたバケツを――突き落としたのだ。


バケツは一気に落下し、

その重量が瞬時に杭を引き抜く。


ワトソン:

……つまり、狙った瞬間に発動できたというわけか。


ホームズ:

その通り。


嵐は舞台を整えただけに過ぎない。

決定的な一手は、人間の意志によって下された。


杭を失った回廊は一気に跳ね上がり、

あの非道な執事は成すすべもなく滑落――


対岸の石壁へと叩きつけられたのだ。



ワトソン(手記):

私はホームズの言葉の意味を理解したつもりではあったが――

到底、現実のものとして受け入れることはできなかった。


ホームズ:

無理もないさ。

推理し、説明してみせたこの私でさえ、にわかには信じ難いのだからね。


(わずかに口元を緩めて)


ホームズ:

こういうときは――実際に試してみるに限る。


ワトソン(手記):

我々はブラッドリーから借り受けたロープとバケツを用い、

人工池と水瓶の間で水を運び、

あの日の状況に可能な限り近づけた。


ホームズ(真剣な声で):

……この程度で十分だろう。


(わずかに間を置く)


ホームズ:

ワトソン、これから行うことは極めて危険だ。

決してその場所を動かぬように――いいね?


ワトソン(手記):

その言葉と同時に――


ホームズは欄干に置かれていたバケツを、静かに、しかし確かな力で押し出した。


――その瞬間である。


稲妻のごとき轟音が、空気を引き裂いた。


私の目の前から、回廊が消えた――そう錯覚したほどに、

それは一瞬のうちにその姿を変えたのだ。


次の刹那――


雷鳴にも似た凄絶な響きを伴いながら、

回廊は巨大な壁のごとく跳ね上がり、

我々の目前に立ちはだかった。


足元が揺らぐほどの衝撃に、私は思わず息を呑んだ。


そして――


再び、稲光が遠くで瞬いたかと思うと同時に、

轟音とともに回廊は元の位置へと叩きつけるように戻った。


すべては、ほんの十数秒にも満たぬ出来事だった。


やがて、何事もなかったかのように静寂が戻る。


ただ、先ほどまでとはまるで異なる、

不気味な沈黙だけがそこに残されていた。


ホームズ(興奮を抑えた声で):

見たかい、ワトソン!


今の現象――君の目にも、私と同じように映ったはずだ。

……驚くべき仕掛けだよ。




ワトソン(手記):

轟音を聞きつけて、館中の人々が次々と現場へと集まってきた。


我々は、外れた鉄杭を元の位置へと戻し、

ひとまず何事もなかったかのように装った。


そして、あくまで「仕組みの確認のための試みであった」と、

いささか苦しい説明でその場を取り繕い、

ようやく事態を鎮めるに至ったのである。


――その混乱の中で、ただ一人。


レディ・エレノア・アシュフォードの浮かべた、あの悲しげな眼差しだけは、

今なお私の記憶から消え去ることはない。


(エレノア自室にて)


エレノア:あの大きな雷が落ちたような音…すべてお見通しなのですね ホームズさん…


ホームズ:

「ええ レディ アシュフォード…先代の奇妙な遺産――この恐るべき城の秘密と、その権利を血筋として受け継いでいたのは……奥方、あなただけだ、レディ エレノア・アシュフォード」


(レディ・アシュフォードは、絹の手袋をはめた手で口元を覆い、その場に激しく崩れ落ちた。)


エレノア(涙を流しながら):

「……あの男は、夫を、この家を破滅させると脅してきたのです……。私には、こうするしか……この家を守る方法はなかったのです……!」


エレノア(静かに語り始める):

……すべては、あの男がこの館に来てからです。

ハロウェイは――最初こそ、ただの気の利く執事のように見えました。

礼儀正しく、物腰も柔らかく……父もすっかり気に入っておりました。

(わずかに顔を歪める)

けれど、それはすべて――仮面に過ぎなかった。

あの男は、館の記録や書簡、帳簿に目を通し、

やがて……この家の“過去”に行き着いたのです。

夫の……いえ、アシュフォード家そのものの――

決して外に出してはならない過去に。

(低く)

最初は、穏やかなものでした。

“秘密を守る代わりに、少しの便宜を”――そう言って。

ですが、それは少しずつ……確実にエスカレートしていきました。

そして、父が亡くなってからはそれは周りの目をはばかることはなくなり

金銭。

地位。

発言権。

ついには、夫の名誉そのものを盾に取り――

この館を、自分の掌の上に置こうとしたのです。

(拳を握る)

あの男は……待っていたのでしょう。

我々が抵抗できなくなる瞬間を。

そして私は、気づいてしまったのです。

――このままでは、すべて奪われる、と。

(間)

あの日……雨が降り始めたとき、

私は西館の窓辺から外を見ておりました。

回廊の向こう側は、すでに灰色の雨に霞んでいて……

その姿はまるで、世界から切り離された別の場所のように見えたのです。

そのとき、不意に思い出しました。

――あの“仕掛け”のことを。

(ゆっくりと語気が変わる)

父は、生前よく誇らしげに語っておりました。

「あの回廊は、ただの橋ではない」と。

外敵を退けるための――

“最後の砦”なのだと。

私は……その話を、ただの気まぐれだと笑っておりました。

けれど――

(顔を上げる)

あのとき初めて、それが現実に使われることを理解したのです。

……

(静かに、しかしはっきりと)

私は、東館側の水瓶に細工を施しました。

あらかじめ水が溜まらないよう――

雨は、すべて西側にだけ流れ込む。

やがて回廊は、目に見えぬほどの歪みを蓄えていく……

(わずかに震える)

同時に、杭にロープを結び――

その先にバケツを取り付け、縁に据えました。

あとは――

(言葉が詰まる)

あとは、機を待つだけでした。

(長い沈黙)

私に残されたのは――あの男を、あの場所へ導くことだけでした。

(わずかに息を整える)

ハロウェイは疑い深い男でした。

ですから、私から呼び出すなどと言えば、警戒するでしょう。

そこで私は――あえて“従う”ふりをしたのです。

(低く)

「要求を受け入れる用意がある」と。

これ以上問題を大きくしたくないこと、

そして……他言無用で話をしたいこと。

そう書いた手紙を、彼の部屋へ差し込んだのです。

(短い沈黙)

場所は――西館二階に指定しました。

……あの時間帯、

一階では夫が客人たちとカードに興じていることを、私は知っておりましたから。

(わずかに苦い笑み)

あの男は、決して卿の前を通ろうとはしなかったでしょう。

自らの正体を、あそこまで暴かれる危険は冒さない。

つまり――

西館二階へ向かうには、回廊を使うほかない。

(顔を上げる)

すべては、そこへ誘導するためでした。

……

あの夜、雨は激しく降りしきっておりました。

回廊へ続く窓の外は、灰色に滲み、

まるでこの館だけが閉ざされた世界であるかのように思えたのです。


西館の回廊の入り口付近の

暗闇の中で、ただ一人――待っていたのです。

やがて……足音がしました。

あの男が、約束どおり東館より現れたのです。

(わずかに声を震わせ)

濡れた外套をまとい、

何事も支配しているかのような顔で……

(低く)

そのとき、私は理解しました。

このままでは、この館は――

あの男に喰い尽くされる。

(間)

彼が回廊の中央へ差しかかった、その瞬間――

私は……

すでに準備していたバケツに手をかけ……

(目を閉じる)

それを――突き落としたのです。

(沈黙)

エレノア(涙にくれながら):

……後のことは、すべてご存じのとおりでございます。

わたくしは――どうなろうと構いません。

ですが……

(震える声で)

どうか……どうか、夫だけはお救いくださいませ。

あの人には……何の罪もないのです……。

(深く頭を垂れる)

(しばしの静寂)

ホームズ(ゆっくりと口を開く):

……よくぞ、すべてをお話しくださいました、レディ・アシュフォード。

(静かに歩み寄り)

あなたのなされたことは――決して許されるものではない。

しかしながら……

(わずかに声を和らげる)

そこに至るまでの事情については、

私もまた、見誤るつもりはありません。

(短く間を置く)

ホームズ:

この件の後始末は――私にお任せいただけませんかな。

あなたの守ろうとしたものが、無意味に踏み躙られることのないよう、

最善を尽くすことをお約束しましょう。

(わずかに頷く)

ホームズ:

――少なくとも、私が関わる限り。

あなたにとって“悪いようには”、決していたしません。


ワトソン(手記):

その後、われわれはアシュフォード卿に対し、調査の結果を報告することとなった。

ホームズはいつものように冷静な口調で、

回廊の構造上の不備と、一昨夜の豪雨がもたらした異常な状況とを指摘した。

すなわち――

水瓶に偏って蓄えられた水量と、固定具の緩みが重なり、

回廊の均衡が一時的に崩れていた可能性があること。

そしてその不安定な状態のまま、

不運にも執事ハロウェイが回廊へ足を踏み入れたことで、

致命的な事故が引き起こされたものと考えられる――と。

卿は、ひどく沈痛な面持ちでそれを聞き届けられた。

かの仕掛けが、先代の遺したものである以上、

責を問うべき相手がすでにこの世にないこともまた、

卿の胸中を複雑なものとしたに違いない。

ホームズは、構造上の危険性についていくつかの改善を勧め、

再発防止の観点から当該回廊の使用制限を提案した。

卿はそれに深く同意され、

直ちに修繕と封鎖の手配を進める旨を約束されたのである。

ワトソン(手記):

かくして本件は、表向きには

「不幸な事故」として処理されることとなった。

――それ以上の追及がなされることはなかったし、

また、なされるべきでもなかったのであろう。

少なくとも私は、そう信じている。


ワトソン(手記):

かくして我々はアシュフォード荘を後にし、

再びロンドンへと向かう帰路についた。

車窓の外には、雨に洗われた田園が静かに広がっていたが、

私の胸中にはなお、あの邸宅での出来事が重く残っていた。

(しばしの沈黙)

ワトソン:

……ホームズ。

私はイギリスの法律というものは、

やはり大したものだと思っている。

だが――

(わずかに苦笑して)

スコットランド・ヤードの犬になった覚えはないよ。

(ホームズはわずかに煙草の煙を吐き、微かに口元を緩める)

ホームズ:

結構なことだ、ワトソン。

私もまた、同様の考えだよ。

(静かに続ける)

ホームズ:

法は、人のためにあるべきものであって、

人が法のために犠牲となるべきではない――

少なくとも、私はそう考えている。

(外を見る)

ホームズ:

ことに今回のような件においては、

“裁かれるべきもの”が必ずしも一つとは限らんのだ。

ワトソン(手記):

彼のその言葉に、私は深く頷いた。

ただ――

あの邸宅で見た一人の女性の姿が、

長く私の脳裏から離れることはなかったのである。


かくして、アシュフォード荘の空中回廊は、ただの構造物ではなかった――それは、人間の弱さそのものを映し出す装置であったのである。






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