表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
86/146

第86話 雨音、四口の理由

雨音が四口食べた理由は、粥の味だけではなかった。


 そのことが分かったのは、翌日の昼前だった。


 聖リディア産婆院から届いた報告書には、いつものように食事量、体温、授乳、夜間灯油の使用量が並んでいた。


 ――雨音、朝四口。

 ――湯気を逃がした粥。吐き戻しなし。

 ――本人、五口目で手を止める。

 ――理由を問うと、「四口でいい」と返答。

 ――子、仮名未定。体温やや低め。保温布調整。

 ――夜明け、朝半椀。灯り、授乳少量。体温安定。


 リリアナは、そこを二度読んだ。


「四口でいい……」


 昨日は、三口から四口へ増えたことを喜んだ。


 けれど今日は、五口目で止まった。


 しかも、気分が悪くなったからではない。


 痛いからでも、眠いからでもない。


 本人が「四口でいい」と言った。


 エレノアも報告書を見ていた。


「気になるわね」


「はい。でも、聞きすぎるのもよくないですよね」


「ええ。理由欄は、相手の心を無理に掘るためのものではないわ」


 リリアナは、その言葉をすぐに手帳へ書いた。


 ――理由欄は、心を無理に掘るためのものではない。


 食べられなかった理由を書く。


 それは、次の支援につなげるためだ。


 けれど、理由を聞く側が間違えれば、尋問になる。


 雨音が四口で止めた理由。


 知りたい。


 けれど、知りたいから聞くのではない。


 次の食事をどう出すかに必要なら、聞く。


 本人が話せる範囲で。


 そこを間違えてはいけない。


 フィオナ司祭が報告書を読み、静かに言った。


「今日は私が産婆院へ行きます。雨音さん本人の状態を見る必要があります」


「私も行きたいです」


 リリアナは、言ってからすぐに息を呑んだ。


 まただ。


 見たい気持ちと、行くべきかは別。


 前にも書いた。


 それでも、口に出てしまう。


 フィオナ司祭は、責めるような顔はしなかった。


「お気持ちは分かります。ただ、雨音さんはまだ見知らぬ貴族令嬢に会う段階ではないと思います」


「……はい」


「リリアナ様には、現場から戻った後の説明文調整をお願いしたいです。食事量の理由をどう記録するか、言葉が必要になると思います」


 行かない役割。


 待つ役割。


 読む役割。


 書き直す役割。


 リリアナは、少し悔しさを飲み込んで頷いた。


「分かりました。待ちます」


 エレノアが横で微かに頷いた。


 その日の昼過ぎ、フィオナ司祭とマーサ、そして薬師補佐が聖リディア産婆院へ向かった。


 北翼から北東区まで、いつもの道で半刻と少し。


 天気は悪くない。


 風はあるが、馬車が遅れるほどではない。


 リリアナは馬車を見送った後、すぐに机へ戻った。


 落ち着かない時ほど、手を動かす。


 雨音の個別カードの写しを確認し、食事理由欄の選択語を見直した。


 匂いで気分不快。

 眠気。

 痛み。

 赤子対応。

 気分不快。

 理由未確認。

 本人、理由申告希望せず。


 そこに「本人の決めた量」という欄がないことに気づいた。


 雨音の「四口でいい」は、もしかすると体調理由ではない。


 本人にとって、四口という数字に意味があるのかもしれない。


 あるいは、五口目を食べると何かが怖いのかもしれない。


 それを「拒否」と書けば雑すぎる。


 リリアナは、新しい候補を書いた。


 ――本人、四口を上限として希望。


 少し硬い。


 でも、責める言葉ではない。


 もう一つ書く。


 ――本人が安心できる量として四口を指定。


 こちらの方が近いかもしれない。


 だが、「安心できる」とこちらが決めつけてよいのか。


 リリアナはペンを止めた。


「お姉様」


「何?」


「“安心できる量”って、本人が言っていないのに書くのは違いますよね」


「そうね。推測なら、推測と分ける必要があるわ」


「では、“本人、四口でよいと発言。理由は未確認”?」


「まずはそれが安全ね」


「冷たい」


「冷たいけれど、勝手に意味を足すよりいいわ」


 リリアナは頷いた。


 冷たいから助かることもある。


 ドレス帳でも学んだ。


 食事記録でも同じだ。


 一方、聖リディア産婆院では、昼の粥がちょうど用意されていた。


 台所の内側には一覧表。


 各部屋には布カバー付きの個別カード。


 雨音の部屋の前で、エダ産婆がフィオナ司祭を迎えた。


「今朝も四口でした」


「五口目は?」


「匙を置きました。“四口でいい”と」


「無理に勧めましたか」


「いいえ。けれど、気にはなります」


 エダの声には、疲れと迷いがあった。


 産婆は食べさせたい。


 体力を戻したい。


 だが、無理に食べさせれば、次の食事を拒むかもしれない。


 その線引きは、紙だけでは決められない。


 雨音の部屋に入ると、彼女は起きていた。


 赤子は籠の中で眠っている。


 まだ仮名は決まっていない。


 記録上は「雨音の子」と書かれている。


 ただ、いつまでもそうはできない。


 けれど今日は、名前より食事だった。


 フィオナ司祭は椅子を少し離して置いた。


「こんにちは、雨音さん」


 雨音は、フィオナをじっと見た。


「王妃基金の人?」


「はい。でも、今日は名前を聞きに来たのではありません」


「じゃあ、何」


「粥のことです」


 雨音は、少しだけ顔をしかめた。


「食べろって言いに来たの」


「いいえ。四口で止めた理由を、聞いてもよいか確認しに来ました。話したくなければ、話さなくていいです」


 雨音は黙った。


 部屋の外から、台所の小さな音が聞こえる。


 木の匙が器に当たる音。


 遠くで赤子が泣く声。


 昼の産婆院は、夜ほど静かではない。


 けれど、どこか息を潜めている。


「理由なんてない」


 雨音は言った。


「四口でいいだけ」


「分かりました」


 フィオナ司祭はそれ以上踏み込まなかった。


 エダが少し驚いた顔をした。


 もっと聞くと思ったのだろう。


 けれど、フィオナ司祭はただ個別カードを見た。


「では、記録には“本人、四口でよいと発言。理由は未確認”と書きます」


 雨音は、少しだけ目を動かした。


「怒らないの」


「怒りません」


「もっと食べろって言わないの」


「体のためには、少しずつ増えるとよいです。でも、今日無理に五口目を食べさせて、明日一口も食べられなくなる方が困ります」


 雨音は、黙った。


 その言葉は、少し届いたようだった。


 エダが昼の粥を持ってきた。


 湯気は逃がしてある。


 器は基準椀。


 量は少ない。


 雨音は椀を見て、しばらく動かなかった。


「今日は、何口にしますか」


 フィオナ司祭が聞く。


 雨音は、少し警戒した。


「決めていいの」


「まずは」


「四口」


「分かりました」


 雨音は匙を取った。


 一口目。


 時間をかけて飲み込む。


 二口目。


 少し顔をしかめる。


 三口目。


 赤子が小さく声を出したので、雨音の手が止まる。


 エダが赤子を見て、布を整えた。


「大丈夫。少し動いただけ」


 雨音は、四口目を食べた。


 そこで匙を置いた。


「四口」


 フィオナ司祭は頷いた。


「はい。四口食べました」


 個別カードに書く。


 ――昼、四口。湯気を逃がした粥。吐き戻しなし。本人、事前に四口を希望し、四口で終了。理由未確認。赤子の声で一時停止あり。


 雨音は、その文字を見ていた。


 そして、ぽつりと言った。


「四回なら、覚えられる」


 フィオナ司祭は、顔を上げた。


 エダも動きを止める。


「覚えられる?」


 フィオナ司祭は、繰り返すだけにした。


 急かさない。


 雨音は少し迷った後、小さな声で言った。


「一口目、飲み込む。二口目、息をする。三口目、この子を見る。四口目、やめる」


 それは、食事というより、順番だった。


 食べるための手順。


 自分が壊れないための数え方。


 雨音は、椀から目を逸らした。


「五口目は、分からなくなる」


「何が分からなくなるのですか」


 フィオナ司祭の声は、柔らかかった。


 雨音は答えなかった。


 答えたくないのだ。


 フィオナ司祭は、それ以上聞かなかった。


「では、今日の記録に“一口ごとの手順あり。五口目以降は本人負担が強い可能性”と書いてよいですか」


 雨音は少し驚いたようにフィオナを見た。


「変な女って書かない?」


「書きません」


「面倒って」


「書きません」


「……じゃあ、いい」


 フィオナ司祭は記録を足した。


 ――本人、一口ごとの手順を説明。一口目、飲み込む。二口目、息をする。三口目、子を見る。四口目、やめる。五口目以降は本人負担が強い可能性。評価語は用いない。次回も四口を基準に、本人が希望した場合のみ追加。


 エダは、その文字を読んで静かに頷いた。


 四口は、少なすぎる量ではなかった。


 雨音にとっては、食べるための足場だった。


 そこを無理に崩せば、食事そのものが怖くなる。


「明日も四口でいい」


 雨音が言った。


 フィオナ司祭は答えた。


「はい。明日も四口から始めましょう」


「増やさないの」


「増やす時は、雨音さんが“もう一口”と思えた時に」


 雨音は、信じていないような顔をした。


 でも、匙を遠くへ押しやることはしなかった。


 その日の夕方、北翼に戻ったフィオナ司祭の報告を、リリアナは立ったまま聞いた。


 途中で座るよう言われ、慌てて椅子に座った。


「四口は、手順でした」


 フィオナ司祭の第一声に、リリアナは息を呑んだ。


 エレノアも表情を引き締める。


 報告書には、雨音の言葉が短く書かれていた。


 ――一口目、飲み込む。二口目、息をする。三口目、子を見る。四口目、やめる。


 リリアナは、何度もその行を読んだ。


 食べることが、こんなにも手順になる。


 ただ匙を口に運ぶだけではない。


 飲み込む。

 息をする。

 子を見る。

 やめる。


 四口目の「やめる」は、逃げではない。


 自分を保つための終わりだった。


「五口目を勧めなくてよかった……」


 リリアナが小さく言うと、フィオナ司祭は頷いた。


「はい。今は四口を守る方が大切です」


「守る?」


「四口食べられるという足場を壊さないことです」


 リリアナは手帳を開いた。


 ――四口は足場。増やす前に、守る。


 手が少し震えた。


 もし自分が現場にいたら、五口目を勧めていたかもしれない。


 「昨日より食べられるかも」と。


 「もう一口だけ」と。


 善意で。


 でも、それは雨音の足場を崩すことだったかもしれない。


 行かなかったことにも意味があった。


 リリアナは、初めてそう思った。


 エレノアが尋ねる。


「個別カードの様式は修正が必要ね」


「はい」


 フィオナ司祭は答えた。


「量だけではなく、“本人の食事手順”の欄が必要かもしれません。すべての人に必要ではありませんが、雨音さんのように順番や区切りが支えになる場合があります」


 マーサも、横で頷いた。


「調理場としても助かります。四口なら四口分を熱すぎず、冷めすぎず、出す。無理に椀いっぱい出さない」


 ヘンリクが確認する。


「四口分という提供は、手間が増えますか」


「増えます」


 マーサは正直に言った。


「でも、椀いっぱい出して残されるよりは、材料も気持ちも無駄になりません。最初から四口分を丁寧に出す方がいい時もあります」


 リリアナは、また書いた。


 ――少なく出すことは、粗末に出すことではない。四口分を丁寧に。


 食事表に新しい欄が足された。


 本人の手順・安心する形。


 そこに書く内容は、本人が話した範囲だけ。


 推測は分ける。


 評価語は書かない。


 「面倒」「わがまま」「変」は使わない。


 リリアナは、その欄の説明文を作った。


 ――食べる時に本人が決めている順番や、安心できる区切りがあれば書きます。

 ――本人が話した範囲だけを書き、無理に聞き出しません。

 ――量を増やす前に、食べられている形を守ります。


 フィオナ司祭が読んで、静かに頷いた。


「よいと思います」


 エレノアも同意した。


「この欄は、他の支援にも応用できるわね」


「他の支援?」


「たとえば、ノルの仕事。半日作業ができる人もいれば、最初は一時間だけが足場になる人もいる。薬草茶も、温かいままだと飲める人、冷ますと飲める人がいる」


 リリアナは目を見開いた。


「足場は、人によって違う」


「ええ」


 カインが低く言った。


「一律に増やすな。崩れる」


 短い。


 でも、今日にはよく合っていた。


 夕方、聖リディア産婆院へ改訂された個別カードと、雨音用の小さな食事札が届けられた。


 札にはこうある。


 ――雨音さん。四口から。本人が望めば追加。無理に勧めない。

 ――一口目、飲み込む。二口目、息をする。三口目、子を見る。四口目、やめる。


 その札を見たエダは、少し目を細めた。


「これなら、夜番が変わっても分かる」


 見習いニナは、小さな声で読んだ。


「四口から。本人が望めば追加」


「そう。五口目を勝手に目標にしない」


「でも、増えないと心配です」


「心配はする。急かさない」


 ニナは頷いた。


 その夜、雨音はまた四口食べた。


 少し冷ました粥。


 湯気は少ない。


 一口目、飲み込む。

 二口目、息をする。

 三口目、子を見る。

 四口目、やめる。


 そして、しばらく匙を置いたまま、赤子を見ていた。


 エダは椀を下げようとした。


 その時、雨音が小さく言った。


「名前」


 エダは動きを止めた。


「子の?」


 雨音は頷いた。


「まだ、本当のじゃない」


「仮の名でいい」


 雨音は、赤子を見た。


 窓の外では、風が細く鳴っている。


 雨は降っていない。


 けれど、彼女が来た夜の雨の音は、まだ心の中にあるのだろう。


「雫」


 雨音は言った。


「この子は、雫」


 エダは、余計な感動を押しつけなかった。


 ただ、静かに確認した。


「仮名、雫でいいかい」


「うん」


「どの記録に書く?」


 雨音は少し考えた。


 昨日なら、この質問に戸惑っただろう。


 でも、何度か説明を聞いている。


「食事と薬の紙。受付の紙にも……雫でいい。本当の名前は、まだ」


「分かった」


 エダは記録した。


 ――雨音の子、仮名「雫」。受付台帳、医療記録に仮名使用。本名未定。後日変更可。


 雫は、小さく手を動かした。


 雨音はその手を見て、ほんの少しだけ笑った。


 それが初めての笑みかどうかは分からない。


 でも、エダは記録にこう書いた。


 ――子仮名決定時、本人わずかに表情緩む。


 翌朝、王妃基金へ届いた報告には、二つの前進が並んでいた。


 ――雨音、夕四口。本人手順通り。吐き戻しなし。

 ――四口後、子の仮名を「雫」と希望。受付台帳、医療記録に仮名使用。本名未定。

 ――本人、四口を守られたことで会話可能になった可能性あり。推測のため、経過観察。


 リリアナは、報告を読みながら涙ぐんだ。


「四口を守ったら、名前が出た……」


 エレノアは静かに言った。


「急かさなかったから、話せたのかもしれないわね」


「でも、推測」


「ええ。記録では推測」


 リリアナは笑いながら涙を拭いた。


「分かっています」


 手帳に書く。


 ――四口を守った後、雫という仮名が出た。急かさなかったからかもしれない。でも記録では推測。

 ――食べる足場が守られると、名前を置けることがある。


 フィオナ司祭が、その一文を見て微笑んだ。


「とてもよい表現です」


 リリアナは少しだけ照れた。


「でも、詩っぽすぎますか」


「報告書では少し整えましょう。手帳には、そのままでよいと思います」


 正式報告では、こうなった。


 ――雨音について、四口摂取を本人の安定した手順として扱う。無理な増量を避け、本人希望時のみ追加。手順を尊重した後、子の仮名「雫」を申告。因果関係は断定せず、本人が話せる状態を維持する支援を継続。


 冷たい。


 でも、必要な冷たさだった。


 夜、リリアナは自分の報告をまとめた。


 ――雨音さんの四口は、少なすぎる量ではなく、食べるための手順だった。

 ――一口目、飲み込む。二口目、息をする。三口目、子を見る。四口目、やめる。

 ――五口目を勧める前に、四口を守ることが必要だった。

 ――四口を守った後、子の仮名が「雫」になった。急かさなかったからかもしれない。でも断定しない。

 ――足場は人によって違う。一律に増やすと崩れる。

 ――理由欄は、心を無理に掘るためのものではない。


 最後に、少し迷ってから書いた。


 ――私も、誰かにとっての五口目を勝手に勧めない人になりたい。


 エレノアはそれを読んで、静かに頷いた。


「今日のあなたは、それをかなり学んだと思うわ」


「私は現場に行っていません」


「行かなかったから、学べたこともある」


 リリアナは目を伏せた。


「少し、分かります」


 雨音は、その夜も四口食べた。


 雫は、保温布の中で小さく眠っていた。


 四口。


 たったそれだけ。


 けれど、その四口は、雨音が自分と子をこの世につなぎとめるための、今の足場だった。


 王妃基金は、その足場を増やすのではなく、まず守ることにした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ