第63話 副責任者たちの初会議
副責任者制を導入する。
そう決まった翌朝、エレノアの机はいつもより少し広く見えた。
書類が減ったわけではない。
むしろ、増えている。
王妃基金の次期三か月計画案。
各部門の副責任者任命案。
判断権限表。
報告経路図。
緊急時対応手順。
未確認事項の上げ方。
副責任者ごとの空欄理由欄。
エレノア本人の業務時間記録表。
最後の一枚だけは、見なかったことにしたかった。
だが、机の中央に置かれている。
しかも、リリアナの字で小さく「ここも大事」と書き添えられていた。
エレノアは、その文字を見てため息をついた。
大事なのは分かっている。
分かっているからこそ、厄介なのだ。
人へ任せるということは、自分で見られなくなる部分が増えるということでもある。
それは、今までの事件で何度も危険だと確認した。
ダリウスへ任せすぎた王太子府。
アルマンへ家政を委ねすぎたベルナール分家。
夫人会の名声に資金と支援先を預けすぎた王宮。
母に守られ、知らされないままにされたリリアナ。
すべて、任せることと見ないことが混ざっていた。
だから、エレノアは任せることが怖い。
でも、自分一人が抱えれば、別の危険が生まれる。
王妃基金の再建が、エレノアという一人の能力と体力に依存する。
それは、王妃が望んだ制度ではない。
王妃個人の善意に依存しないために常設基金へ変える。
そう決めたのに、今度はエレノア個人の実務能力に依存するなら、形を変えただけだ。
机の上の任命案を見る。
孤児院・救貧院支援副責任者。
基金事務官ヘンリク。現場連絡補佐としてフィオナ司祭、ロウ夫人。
薬草品質確認副責任者。
王家医療院薬師マティアス。現場顧問、ガスパル。
夫人会改革副責任者。
デリア・ラングフォード侯爵夫人、ミリアム・ローゼン侯爵夫人。
王太子府再教育連絡責任者。
ローレン、王家教育官。
リリアナ基礎実務教育責任者。
マルタ、王家教育係セリア。
保護証言室運用責任者。
王家法務官補佐イザーク。女官代表マルタ。
そして、全体監督。
エレノア・ヴァレンシュタイン。
全体監督。
その言葉は、重いようでいて、少し曖昧でもある。
何を見て、何を見ないのか。
そこを決めなければ、結局すべてが彼女の机へ戻ってくる。
扉が叩かれた。
「どうぞ」
入ってきたのはリリアナだった。
手には、小さな紙包み。
「おはようございます。朝食の後の果物です」
「朝食は食べたわ」
「果物が半分でした」
「見ていたの?」
「マルタに聞きました」
情報網ができている。
しかも、妙に正確だ。
リリアナは机の端に紙包みを置き、業務時間記録表を見つけると満足そうに頷いた。
「置いてありますね」
「置かれているだけよ」
「書きますよね?」
「必要なら」
「必要です」
即答だった。
エレノアは少しだけ眉を上げた。
「あなた、最近遠慮がなくなってきたわね」
「遠慮していたら、お姉様が休まないので」
「理由が強い」
「はい」
リリアナは椅子に座り、任命案を覗き込んだ。
「今日、皆さん集まるの?」
「ええ。副責任者たちの初会議よ」
「私も出る?」
「あなたは一部だけ。リリアナ基礎実務教育のところで、本人として確認を受けるわ」
「本人として……」
リリアナは少し背筋を伸ばした。
最近、この言葉に敏感になっている。
本人の意思。
本人の確認。
本人として。
以前は、自分のことを誰かが決めてくれるのが楽だった。
今は、それが怖い。
でも、自分で確認するのも怖い。
どちらも怖い。
だから、怖いまま座るしかない。
「ねえ、お姉様」
「何?」
「副責任者って、任された人たちも怖いのかな」
「怖いでしょうね」
「デリア様も?」
「特にデリア様は」
「どうして?」
「夫人会で見逃した過去があるから。今度は見落とせないと思えば、怖いはずよ」
リリアナは、少し考えた。
「ユリウス殿下が印を押すのを怖がるのと似ている?」
「似ているわ」
「お姉様は、任せるのが怖い」
「ええ」
「任される方も怖い」
「ええ」
「……制度って、怖い人たちが集まって作るものなの?」
妙な問いだった。
けれど、エレノアは少し笑ってしまった。
「怖さを知っている人たちが作る方が、安全かもしれないわ」
「怖くない人より?」
「怖くないまま印を押す人よりは」
リリアナは深く頷き、手帳に書いた。
――怖さを知っている人が作る制度の方が、安全かもしれない。
それを書いてから、顔を上げる。
「今日、私も怖いです」
「何が?」
「マルタとセリア先生に教育を任せるってことは、お姉様に毎回見てもらうわけじゃなくなるでしょう?」
「そうね」
「それが少し寂しい」
「ええ」
「でも、それでいいと思う」
リリアナは、自分で言って、少しだけ驚いたような顔をした。
「今、言えた」
「ええ」
「寂しいけど、それでいい。……これ、成長?」
「かなり」
エレノアが素直に言うと、リリアナはぱっと顔を明るくした。
そして、すぐに真顔に戻ろうとした。
「浮かれすぎない」
「戻ってこられたわね」
「はい」
二人は少しだけ笑った。
副責任者たちの初会議は、午前十刻に始まった。
中会議室には、いつもの評議会とは少し違う顔ぶれが揃っている。
カインは王家監督者として上座ではなく横席に座った。
エレノアは議長席。
デリア夫人、ミリアム夫人、ローレン、マルタ、王家教育係セリア、基金事務官ヘンリク、薬師マティアス、法務官補佐イザーク、オスカー。
現場顧問として、ロウ夫人、フィオナ司祭、ガスパルもいる。
リリアナは後方ではなく、マルタとセリアの近くに座った。
自分の教育に関わる話があるからだ。
エレノアは会議を始める前に、全員を見渡した。
「本日は、副責任者制の初会議です。目的は、私の仕事を軽くすることではありません」
リリアナが、少しだけ眉を寄せた。
軽くしてほしいのに、と思っているのが顔に出ている。
エレノアは気づかないふりで続けた。
「目的は、判断の集中を避け、各部門で見えるものを増やし、未確認のまま私の承認へ上がることを防ぐことです。同時に、私が全てを見ることで発生する停滞も避けます」
カインが静かに頷いた。
「つまり、任せるが、見ないことにはしない」
「はい」
エレノアは一枚目の資料を配らせた。
表題は「副責任者の基本原則」。
一、担当範囲を明文化する。
二、判断可能な事項と、全体監督へ上げる事項を分ける。
三、空欄、未確認、違和感は隠さず記録する。
四、失敗報告者を罰しない。
五、次に見る日を必ず決める。
六、担当者不在時の代理を決める。
七、全体監督に判断を戻す時は、何が分からないのかも添える。
ロウ夫人が、すぐに手を上げた。
「原則はよろしいと思います。ただ、長いです」
初手から斬ってきた。
リリアナは思わず手帳を握った。
エレノアは頷く。
「現場用の短縮版を作ります」
「短縮版には、『分からない時は止める』『次に見る日を書く』『一人で抱えない』の三つがあれば足ります」
ガスパルが横から言う。
「薬草は『臭い時は隠さない』も入れてください」
「薬草用には入れます」
ミリアム夫人が笑いをこらえながら言った。
「夫人会用には『喜ばれたと書く前に確認』を入れましょう」
デリア夫人は真顔で頷いた。
「必要です」
それぞれの現場で、必要な言葉が違う。
この時点で、共通原則だけでは足りないことが見えていた。
エレノアはオスカーに記録させる。
「各部門ごとに短縮版を作成します。全体原則は内部用、現場用は三項目から五項目以内に」
次に、孤児院・救貧院支援部門。
基金事務官ヘンリクは、几帳面そうな男だった。
若くはないが、派手さはない。
支出処理に強く、王妃基金の不正調査でも黙々と過去帳簿を洗った人物である。
彼は緊張した様子で立ち上がった。
「孤児院・救貧院支援副責任者として、支出と物資配分の一次判断を担当します。ただし、現場判断についてはロウ夫人、フィオナ司祭へ確認します」
ロウ夫人が問う。
「一次判断とは、どこまでですか」
「小口支援、既承認済み支援の追加配分、物資の輸送調整です」
「屋根の梁のような追加は?」
「建物安全に関わる場合は緊急追加承認として全体監督へ上げます」
ロウ夫人は頷いた。
「よろしいと思います」
フィオナ司祭が静かに付け加える。
「救貧院では、物資より仕事の相談が増えています。小口支援だけでは足りない案件を、どう上げるかを決めてください」
ヘンリクは少し焦った顔で紙を見た。
「それは……臨時雇用支援枠として」
「誰が判断しますか」
「……私だけでは難しいです」
そこで止まれた。
エレノアは、その様子を見て小さく頷いた。
分からないと認めた。
副責任者としては、むしろよい出だしだ。
「臨時雇用支援枠は、ヘンリク、フィオナ司祭、聖クララ縫製所担当者の三者確認とします。金額が銀貨百枚を超える場合は全体監督へ」
ヘンリクは安堵したように頷いた。
「承知しました」
リリアナは手帳に書く。
――副責任者でも、分からない時は止まっていい。
次に薬草品質確認部門。
薬師マティアスは、王家医療院から来た若い薬師だった。
知識は豊富だが、現場の泥にはまだ慣れていない。
ガスパルが彼を見て、最初に言った。
「靴が綺麗すぎます」
会議室が一瞬止まる。
マティアスは困惑した。
「え?」
「薬草園へ行く靴ではありません」
「本日は会議ですので」
「会議だけで薬草を見るつもりなら、また悪い草が混ざります」
痛烈だった。
マティアスの顔が赤くなる。
エレノアが口を挟もうとした時、マティアスは自分で深呼吸した。
「ご指摘ありがとうございます。次回、薬草園へ行く際は適した靴にします」
ガスパルは頷いた。
「よろしい」
ユリウスだけでなく、薬師にも「よろしい」が出た。
リリアナは口元を押さえた。
マティアスは資料を広げた。
「薬草品質確認では、選択語を導入します。良品、湿り、黴臭、香り弱、茎多、混入物あり、要再乾燥、使用不可。加えて、確認者三名のうち一名は現場推薦者とします」
ガスパルが問う。
「香り弱と古いは違います」
「どう違いますか」
「香り弱は乾燥や品種の問題もあります。古いは保管期間です」
マティアスはすぐに書き足した。
「選択語を分けます」
「あと、鼻が利かない日があります」
「鼻が利かない日?」
「風邪、疲れ、薬の影響。確認者自身の状態も書くべきです」
マティアスは目を見開いた。
確かに。
匂い欄を作っても、嗅ぐ人の鼻が利かなければ意味がない。
エレノアはすぐに記録した。
――薬草品質確認者の体調欄を追加。ただし簡易に。嗅覚不調の場合は確認者交代。
ガスパルは満足そうに鼻を鳴らした。
「これで少しはましです」
少しはまし。
薬草部門では、それが最大級の褒め言葉になりつつあった。
次は夫人会改革部門。
デリア夫人とミリアム夫人は、連名の担当表を出した。
作業支援班。
物品仕分け班。
記録補助班。
失敗報告受付。
それぞれに責任者を置く。
ただし、夫人会内部だけで完結させず、王妃基金事務官と現場代表へ月一回報告する。
ミリアム夫人が説明した。
「夫人会は、外から見られなければまた美しい言葉で整えてしまう恐れがあります。ですから、月一回、見たくない報告も出します」
ロウ夫人が聞いた。
「見たくない報告とは?」
デリア夫人が答える。
「支援先に迷惑をかけた報告。不要な物を送りかけた報告。礼を求めそうになった報告。夫人会内で反発があった報告。そうしたものです」
「それなら意味があります」
ロウ夫人は頷いた。
ミリアム夫人は少し笑った。
「ロウ夫人に意味があると言われると、社交界で褒められるより効きますわ」
「褒めてはいません」
「存じております」
小さな笑いが起きた。
だが、デリア夫人は真剣なままだった。
「問題は、失敗を報告した者をどう守るかです」
カインが視線を向ける。
デリア夫人は続けた。
「匿名初期報告は導入します。ただし、匿名ばかりになると責任が曖昧になります。そこで、失敗の種類を三つに分けます。改善提案として匿名可。実務修正が必要なものは担当者確認。悪質な隠蔽は匿名不可、調査対象」
エレノアは頷いた。
「よい分類です」
デリア夫人は少しだけ息を吐いた。
自分の提案が通ることに、まだ緊張があるのだろう。
それは悪くない。
緊張が残っている方が、慎重になれる。
次は王太子府再教育連絡。
ローレンが立ち上がる。
「王太子府再教育については、王家教育官と私が日常進行を担当します。エレノア様には月次報告と重大な未確認事項のみ提出します」
ユリウスが付け加えた。
「私からも同意します。以前の私は、誰かに任せることで見ない理由にしていました。今後は、エレノアに見てもらうことで安心するのも避けます」
リリアナは、少しだけユリウスを見た。
彼もまた、自分と同じなのだ。
エレノアに見てもらうと安心する。
でも、その安心に寄りかかりすぎると、自分で立てなくなる。
「月次報告の形式は?」
エレノアが問う。
ローレンは紙を出した。
一、空欄確認件数。
二、印あり未確認疑い件数。
三、差し戻し件数。
四、処理停滞件数。
五、任せる範囲の再設計進捗。
六、王太子本人所感。
最後を見て、ユリウスが少し苦い顔をした。
「本人所感も毎月か」
「必要です」
ローレン、エレノア、リリアナがほぼ同時に言った。
ユリウスは諦めたように頷いた。
「分かった」
次はリリアナの教育。
マルタと王家教育係セリアが立ち上がった。
セリアは、落ち着いた中年女性で、王族や高位貴族令嬢への実務教育経験がある。
しかし、今までの教育とは違う。
リリアナは王太子妃候補へ戻るためではなく、自分の責任を知るために学んでいる。
セリアは最初にそれを明言した。
「リリアナ様の基礎実務教育は、王太子妃候補教育ではありません」
リリアナは、その言葉に少しだけ肩の力が抜けた。
セリアは続ける。
「目的は、署名責任、受領記録、寄付と支出の違い、支援現場の理解、家門と個人の意思の区別を学ぶことです。進度は速くしすぎません。理解せず進めることを禁じます」
マルタが補足する。
「リリアナ様は、褒められると意欲が上がりますが、焦って進めすぎる傾向があります」
「マルタまで」
リリアナが小声で抗議した。
マルタは穏やかに続けた。
「そのため、評価は結果だけでなく、分からないことを申告できたかも含めます」
エレノアは頷いた。
「本人の意思確認は?」
セリアがリリアナへ視線を向けた。
「リリアナ様。この教育を、続ける意思はありますか」
全員の前で聞かれる。
リリアナは手帳を開きかけ、すぐ閉じた。
これは、自分の言葉で答えることだ。
「あります」
声は少し震えた。
でも、続けた。
「怖いし、難しいです。お姉様に毎回見てもらえなくなるのは寂しいです。でも、私は知らないままに戻りたくありません。だから続けます」
マルタの目元が少し柔らかくなった。
セリアは頷いた。
「承知しました」
エレノアも、静かに頷いた。
この会議で一番大切だったのは、もしかするとこの一言かもしれない。
知らないままに戻りたくない。
それは、リリアナ自身の意思だった。
最後に、保護証言室。
法務官補佐イザークは、やや硬い人物だった。
書類の精度は高いが、人前で話すのは得意ではなさそうだ。
「保護証言室については、新規相談が増加しています。判決後、声を上げる者が増えました。一方で、相談内容が王妃基金に直接関係しないものも混ざっています」
カインが問う。
「除外するのか」
「いいえ。即時除外すると、必要な相談を逃す恐れがあります。ただし、王妃基金案件、夫人会案件、王太子府案件、公爵家・分家案件、その他に分類し、適切な窓口へつなぎます」
フィオナ司祭が静かに言った。
「相談者は、自分の問題がどの分類か分からないことが多いです」
「はい」
イザークは頷いた。
「ですので、最初に分類を求めません。聞いた後で内部分類します」
リリアナは、その言葉を書き留めた。
――相談者に最初から分類を求めない。聞いた後で内部分類。
これは救貧院でも同じだ。
名前を言えない人に、最初から正しい欄へ入ることを求めてはいけない。
話してもらう入口を作る。
その後で、制度が分類する。
会議は長引いた。
それでも、以前のようにすべてがエレノアへ戻る流れではなくなっていた。
ヘンリクが分からないと言う。
フィオナ司祭が補う。
ロウ夫人が短くする。
ガスパルが匂いを足す。
デリア夫人が失敗分類を出す。
ミリアム夫人が現実的な逃げ道を作る。
ローレンが月次報告へ落とす。
マルタがリリアナの速度を見る。
セリアが教育目的を限定する。
イザークが相談分類を整理する。
エレノアは、すべてに口を出したくなる衝動を何度も抑えた。
ここは自分が決めるべきか。
任せるべきか。
全体監督へ上げる事項か。
部門判断でよいのか。
その判断を、自分自身にも課していた。
途中、デリア夫人が夫人会の報告様式について迷った時、エレノアはすぐ答えそうになった。
だが、ミリアム夫人が先に言った。
「これは夫人会内部で一度試しましょう。次回、現場に見せて直せばよいですわ」
デリア夫人は頷いた。
「そうします」
エレノアは口を閉じた。
答えなくても進んだ。
少し不安で、少し安堵した。
会議の最後、カインが全員へ言った。
「副責任者制は、責任を薄めるためではない」
部屋が静まる。
「責任の所在を増やすためだ。誰も見ていなかった、という状態を避けるために置く。分担した結果、誰も全体を見なくなるなら意味がない」
彼はエレノアへ視線を向けた。
「全体監督は、全てを処理する役ではない。全体の空欄を見る役だ」
その言葉は、エレノアの胸に落ちた。
全体の空欄を見る役。
それなら、自分の仕事が少し見えた。
すべての窓布を縫うのではない。
すべての名前を書くのでもない。
すべての薬草を嗅ぐのでもない。
どこに空欄があるか。
どこで次に見る日が消えているか。
どこで誰かが一人で抱えているか。
それを見る。
「承知しました」
エレノアは答えた。
リリアナは手帳に大きく書いた。
――全体監督は、全体の空欄を見る役。
会議が終わると、皆がそれぞれ資料を抱えて部屋を出ていった。
ロウ夫人はヘンリクに「現場用は三項目」と念を押している。
ガスパルはマティアスに「靴」とだけ言って去っていった。
マティアスは真剣に頷いていた。
デリア夫人とミリアム夫人は、失敗報告会の匿名箱について相談している。
ユリウスはローレンと月次報告の本人所感欄について揉めている。
リリアナはセリアから次回課題を渡され、顔を少し引きつらせている。
それぞれが、自分の場所へ戻っていく。
エレノアの机へ、すべてが戻ってくるわけではない。
その光景を見て、エレノアは少しだけ息を吐いた。
寂しさに似たものがあった。
不安もあった。
だが、それ以上に、これでいいのだと思った。
部屋に残ったカインが言った。
「手放すのは苦手か」
「得意ではありません」
「だろうな」
「殿下は得意なのですか」
「得意ではない」
意外なほど素直な答えだった。
カインは会議室の扉の方を見た。
「だが、手放さなければ育たないものがある」
「人も、制度も?」
「ああ」
エレノアは、少しだけ頷いた。
そこへリリアナが戻ってきた。
「エレノアお姉様」
「何?」
「今日の業務時間記録、まだ書いていません」
現実へ引き戻された。
カインがわずかに口元を動かした気がした。
リリアナは真剣である。
「副責任者制の初日なので、全体監督も記録を始める日です」
「分かっているわ」
「今書きますか?」
「今?」
「後で忘れると空欄になります」
正論だった。
エレノアは業務時間記録表を手に取った。
開始時刻。
会議時間。
休憩予定。
未記入理由欄。
未記入理由欄がある。
誰が作ったのか。
おそらくリリアナだ。
エレノアは、諦めて記入した。
リリアナは満足そうに頷いた。
「よろしいと思います」
「あなた、いつか本当に監督官になるのではない?」
「まだ学習者です」
リリアナはそう言って笑った。
その笑顔は、以前よりずっと強かった。
副責任者たちの初会議は終わった。
課題は山ほどある。
分担表は、これから何度も直されるだろう。
責任の境目で揉めることもある。
誰かが報告を忘れ、誰かが抱え込み、誰かが怖くて止まる日も来る。
それでも、今日、王妃基金はエレノア一人の机から少し離れた。
それは不安で。
寂しくて。
けれど、必要な一歩だった。
夜、エレノアは自分の手帳に書いた。
――手放すことは、見ないことではない。
――任せることは、忘れることではない。
――全体監督は、全体の空欄を見る役。
最後に、少しだけ迷ってからもう一行足した。
――私がいなくても動く制度にすることが、私の仕事である。
その文字を見て、胸の奥が少し痛んだ。
でも、その痛みは悪くなかった。
王妃基金は、王妃がいなくなっても動く制度になるために再建されている。
ならば、いつかエレノアが離れても動くようにしなければならない。
その始まりが、今日だった。




