第108話 踏み台の代替と、見えない危険
代替の踏み台は、倉庫の奥にあった。
見た目は、問題なさそうだった。
脚は四本そろっている。
天板に大きな割れもない。
表面は磨かれていて、前日に使用禁止となった踏み台よりずっと立派に見える。
だからこそ、リリアナはすぐに頷けなかった。
「綺麗ですね」
彼女が言うと、倉庫番の男は少し安心したように胸を張った。
「はい。こちらは来客準備の際に使っていたものです。近年はあまり出番がございませんでしたが、状態は良いかと」
状態は良い。
その言葉は便利だ。
昨日までなら、そのまま通っていたかもしれない。
だが、リリアナはもう「上等品」や「来客用」という札の怖さを知っている。
綺麗だから安全とは限らない。
上等だから使えるとは限らない。
余っているから代替になるとは限らない。
今日は、踏み台の代替確認の日だった。
前日、使用人宿舎の物置で見つかった踏み台は、脚部の接ぎが割れていた。修繕係ダリオの判断により使用禁止となり、代替品を出すことになった。
しかしリリアナがその場で言った。
――その代替も確認してから出してください。
その一言で、倉庫に眠っていた踏み台を調べることになったのだ。
参加者は、リリアナ、エレノア、マルタ、修繕係ダリオ、倉庫番、そして使用人宿舎側からアリナと夜番のセル。
グラントは朝の執務があり、この場にはいない。
ただし、昨日の新しい確認印運用に従い、書面にはこう記されていた。
――代替踏み台候補。現場確認後に使用可否判断。
――内容確認、グラント。
――現場確認予定、ダリオ、マルタ、アリナ。
父の印には「現場確認済み」とは書かれていなかった。
それだけで、紙の重さが少し違って見えた。
ダリオは踏み台を床へ置き、まず脚を一本ずつ触った。
軽く揺らす。
次に、天板の裏を覗く。
木の継ぎ目を見て、指で叩く。
倉庫番は少し落ち着かない様子だった。
「何か問題が?」
ダリオはすぐには答えない。
踏み台を持ち上げ、光の当たる場所へ移した。
「見た目は悪くありません」
「では」
「ですが、これは来客準備用ですね」
「はい。花瓶や飾り布を整える時に使っておりました」
ダリオは、踏み台の天板を指でなぞった。
「表面が滑ります」
倉庫番が驚く。
「磨いておりますので」
「磨いてあるからです」
その一言で、リリアナははっとした。
磨かれている。
綺麗。
上等。
それが、危険になる。
ダリオは続けた。
「来客用の飾り棚を整える時に、乾いた靴で短時間乗るなら問題は少ないでしょう。しかし、使用人宿舎で使うなら話が違います」
「どう違うのですか」
リリアナが尋ねる。
ダリオはアリナの方を見た。
「普段、踏み台は何に使いますか」
アリナは少し緊張しながら答えた。
「高い棚の布を取る時と、窓の上の方を拭く時と、洗濯物を上の棒へ掛ける時です。あと、たまに蝋燭の箱を取る時」
「手は空いていますか」
「いいえ。布や籠を持っていることが多いです」
「床は乾いていますか」
「洗い場の近くは、濡れていることもあります」
ダリオは踏み台を軽く叩いた。
「この踏み台は、乾いた場所で、手が空いていて、短時間だけ乗る前提です。濡れた床、荷物を持った状態、夜の薄暗い廊下には向きません」
倉庫番は、言葉を失った。
リリアナも黙った。
代替品がある。
それだけでは足りない。
どこで、誰が、何を持って、どの時間に使うのか。
そこまで見なければ、本当の代替にはならない。
マルタが静かに言った。
「見えない危険ですね」
「はい」
ダリオは頷いた。
「壊れてはいない。だから危険に見えにくい」
リリアナは手帳を開いた。
――壊れていないものにも、使い方に合わない危険がある。
書きながら、胸の中で何かがつながった。
贈答品の箱と同じだ。
美しいから安全とは限らない。
清潔と書いてあるから用途が正しいとは限らない。
確認印があるから見たとは限らない。
代替品があるから解決したとは限らない。
エレノアが、踏み台を見ながら尋ねた。
「では、これは使用人宿舎へ出せませんか」
「出さない方がよいです」
ダリオははっきり言った。
「少なくとも、そのままでは。滑り止めをつける、天板に溝を入れる、脚裏を確認する。それでも洗い場近くで使うには不安があります」
アリナが小さく言った。
「それ、高いです」
全員が彼女を見た。
アリナは少し慌てたが、昨日グラントに「よく言った」と言われたことを思い出したのか、逃げずに続けた。
「前の踏み台より高いです。上の棚には届きやすいかもしれませんけど、降りる時が怖いと思います。籠を持っていると、足元が見えません」
ダリオが踏み台の高さを測る。
「確かに。以前のものより一段高い」
マルタが言った。
「高ければ便利とは限りませんね」
「はい」
リリアナは書く。
――高いほど便利とは限らない。降りる時、荷物で足元が見えない。
セルも踏み台を見て口を開いた。
「夜番では、片手に燭台を持つことがあります。片手がふさがるので、これだと少し怖いです」
リリアナは、セルの発言にも頷いた。
日中の確認だけでは見えないことがある。
夜、燭台、片手がふさがる。
踏み台ひとつに、昼と夜で違う危険がある。
エレノアは、記録係に向かって言った。
「使用場面を分けましょう」
すぐに紙が出された。
踏み台使用場面。
一、布棚から物を取る。
二、窓上部を拭く。
三、洗濯物を高い棒へ掛ける。
四、蝋燭箱などを取る。
五、夜番時に高所の確認をする。
それぞれに、必要条件を書く。
床が乾いていること。
片手が空いていること。
荷物を持ったまま上り下りしないこと。
夜間は燭台を置いてから上ること。
洗い場近くでは別の低い安定台を使うこと。
天板が滑らないこと。
脚が広く、ぐらつかないこと。
リリアナは、紙を見て言った。
「踏み台ではなく、踏み台の使い方まで確認するのですね」
ダリオが答える。
「道具は、使う時に危なくなりますから」
あまりにも当然の言葉だった。
だが、その当然を紙に書いていなかった。
倉庫番が、少し申し訳なさそうに言った。
「では、代替はどういたしましょう。倉庫には他にも小さな台がございますが」
「見ましょう」
エレノアが即答した。
倉庫の奥から、さらに二つの台が出された。
一つは低く、幅が広い作業台。
見た目は地味だが、天板に粗い木目があり、滑りにくい。
もう一つは折りたたみ式の小台。
軽くて運びやすいが、蝶番が古い。
ダリオはまず折りたたみ式を見て、すぐに首を振った。
「これは駄目です。蝶番が弱い。持ち運びには便利ですが、乗るものではありません」
倉庫番が驚いた。
「以前は踏み台として」
「使っていたなら、危なかったですね」
短いが厳しい。
折りたたみ式の小台には、仮札が付けられた。
――踏み台使用禁止。物置用小台。蝶番弱り。乗らない。
リリアナはその札を見て、少し考えた。
「“小台”だけだと、また乗るかもしれません」
「では?」
「“物置用小台。人は乗らない”と書きませんか」
マルタが頷いた。
「その方がよろしいでしょう」
札は書き換えられた。
――物置用小台。人は乗らない。蝶番弱り。
用途を書く。
禁止だけでなく、何のためのものかを書く。
昨日の用途札整理が、ここで役に立っていた。
次に低い作業台を確認した。
高さは少し足りない。
だが、幅が広く、天板は滑りにくい。
脚も太い。
ダリオは実際に体重をかけて、何度か揺らした。
「これは安定しています。ただ、高い棚の上段には届かないかもしれません」
アリナが試すことになった。
もちろん、まず空荷で。
ダリオが横で支え、マルタが見ている。
アリナは作業台に上った。
「上段は……少し届きにくいです。でも中段なら届きます」
「普段、どの棚をよく使いますか」
リリアナが聞く。
「中段です。上段は予備の布と、たまにしか使わない物です」
マルタがすぐに反応した。
「では、よく使う物を中段へ移しましょう。踏み台で届かせるのではなく、棚の置き方を変えます」
リリアナは、思わず顔を上げた。
踏み台の代替を探していた。
だが、解決は踏み台だけではなかった。
よく使う物を低い場所へ移す。
高い場所へ置かない。
それだけで、踏み台を使う回数が減る。
セルが頷いた。
「夜番で使う蝋燭箱も、中段にあると助かります。上段だと、暗い時に怖い」
エレノアが記録させる。
――踏み台代替だけでなく、棚配置を変更。頻繁使用物は中段以下。夜番用物品は手の届く高さへ。上段は軽量・低頻度物に限定。
リリアナは、胸の中で何かがすとんと落ちた。
危険な踏み台を安全な踏み台に替える。
それも大事。
でも、踏み台を使わなくて済む配置にする方が、もっと安全かもしれない。
代替とは、物を一つ入れ替えることだけではなかった。
使い方を変える。
置き方を変える。
夜の動線を変える。
荷物の持ち方を変える。
そこまで含めて、ようやく代替になる。
リリアナは手帳に書いた。
――代替は、同じ形の物を出すことではない。危険が減る形へ使い方ごと変えること。
低い作業台は、使用人宿舎用の仮踏み台として採用された。
ただし、条件付きである。
――仮踏み台。中段用。
――濡れた床で使わない。
――荷物を持ったまま上り下りしない。
――上段の物は配置変更後、担当者が取る。
――七日後に使用感確認。
アリナが札を読んだ。
「分かります」
その一言は、かなり大事だった。
マルタが確認する。
「怖くありませんか」
「前のより低いので、少し安心です。でも、上段には届かないです」
「上段に必要な物を置かないようにします」
「それなら、大丈夫だと思います」
ダリオが作業台の脚裏へ印をつけた。
「滑り止めを追加します。今日中にできます」
「今日中に?」
倉庫番が驚く。
「大掛かりではありません。脚裏に粗い革を打ちます。ただし、打った後に再確認します」
また確認。
だが、今度は誰も嫌な顔をしなかった。
確認なしに出す方が怖いと、皆が分かり始めている。
午後には、実際に棚の配置替えが始まった。
使用人宿舎の物置。
上段にあった予備布、蝋燭箱、洗い替えの布袋、古い記録束。
そのうち、頻繁に使うものを中段へ。
重いものは下段へ。
上段には、軽く、めったに使わないものだけ。
アリナとセルが実際に手を伸ばして確認する。
マルタが見る。
リリアナは記録する。
「これは取れます」
「これは少し高いです」
「これは重いので下に置いた方がいいです」
アリナの声が、最初より少しはっきりしていた。
昨日は「分からない札」を集める役。
今日は、届くかどうかを言う役。
彼女の背丈と手の届く範囲が、物置の配置を変えている。
リリアナは、そのことに少し感動した。
制度とは、大きな人だけが作るものではない。
小柄な下働きの手が届かないという事実も、制度を動かす。
棚の配置替えが終わると、物置の札も変わった。
――毎日使う物。中段。
――重い物。下段。
――低頻度・軽量物。上段。
――上段の物を取る時は、担当者確認。
リリアナは「毎日使う物」という札を見て、少し考えた。
「毎日使う物は、毎日変わりませんか?」
マルタが頷く。
「季節で変わります。冬は毛布、夏は別の物になります」
「では、季節見直しが必要ですね」
エレノアが少し笑った。
「また見直し日ね」
「必要です」
リリアナは真面目に答えた。
物置配置には、新たに札がついた。
――季節替え時に棚配置確認。
こうして、踏み台の代替確認は、踏み台だけでは終わらなかった。
倉庫の代替候補三点の確認。
使用人宿舎の物置配置替え。
夜番用物品の位置変更。
仮踏み台の滑り止め追加。
折りたたみ小台の用途変更。
上段使用時の担当者確認。
七日後の使用感確認。
最初は、代わりの踏み台を出すだけの予定だった。
しかし、実際には一つの小さな動線改革になった。
夕方、グラントに報告が上がった。
今回は、確認印運用に従い、報告書には印が分かれていた。
受領、書記官。
内容確認、グラント。
現場確認、ダリオ、マルタ、アリナ、セル。
決裁、グラント。
グラントは報告書を読み、しばらく黙った。
「代替踏み台を出すだけではなかったのだな」
リリアナは答えた。
「はい。踏み台が危ないのではなく、踏み台を使う場面に危険がありました」
「見た目のよい来客準備用の踏み台は、不採用か」
「はい。滑りやすく、高すぎました」
「倉庫の上等品でも、か」
「上等品でも、用途が違えば危険です」
グラントは頷いた。
「覚えておく」
その言葉は短かった。
だが、昨日までの「使用人用」と対になるような言葉だった。
上等品だからよいとは限らない。
使用人用だから粗くてよいわけでもない。
用途に合うか。
誰が使うか。
どこで使うか。
それを見る。
夜、北翼に戻ったリリアナは報告を書いた。
――踏み台の代替確認をした。倉庫の来客準備用踏み台は見た目がよく、状態もよさそうだったが、不採用。表面が滑りやすく、高すぎ、濡れた床・荷物を持った状態・夜番には不向き。
――壊れていないものにも、使い方に合わない危険がある。
――高いほど便利とは限らない。降りる時、荷物で足元が見えない。
――折りたたみ小台は蝶番が弱く、人は乗らない札へ変更。物置用小台とする。
――低い作業台を仮踏み台にした。ただし中段用。滑り止めを追加し、七日後に使用感確認。
――踏み台で届かせるのではなく、棚配置を変えた。頻繁に使うものは中段以下、重いものは下段、上段は低頻度・軽量物。
――夜番用の蝋燭箱も手の届く高さへ。
――代替は、同じ形の物を出すことではない。危険が減る形へ使い方ごと変えること。
最後に、少し考えてから書いた。
――見えない危険は、壊れている物だけにあるのではない。綺麗な物、上等な物、代わりになると思われた物の中にもある。だから、誰が、どこで、いつ、何を持って使うのかを見なければいけない。
エレノアはそれを読み、静かに頷いた。
「今日の報告も、小制度一覧に入れる必要がありそうね」
「踏み台もですか?」
「踏み台そのものではなく、代替品確認の運用」
リリアナは少し遠い目をした。
「また制度が増えました」
「でも、必要なものね」
「はい。必要です」
その夜、使用人宿舎の物置には新しい仮踏み台が置かれた。
高すぎず、派手でもなく、天板は少しざらついている。
脚裏には、ダリオが打った滑り止めの革がついていた。
上段の棚は少し空き、中段には毎日使うものが並んでいる。
アリナは、蝋燭箱へ手を伸ばした。
背伸びをしなくても届く。
踏み台に乗らずに取れる。
それだけのことなのに、彼女は少しだけ笑った。
危険が一つ、見えないところから少しだけ減った。
代替とは、そういうことなのかもしれなかった。




