第102話 小制度一覧、制度を迷子にしない箱
小制度一覧の箱は、思っていたより地味だった。
紫札のように目立つ色ではない。
贈答品辞退文例のように、誰かをその場で助ける言葉が書かれているわけでもない。
産後食個別カードのように、母親一人ひとりの状態へ直接つながるものでもない。
ただの木箱だった。
北翼の書類棚の中段。
手を伸ばせば届く高さ。
奥へ押し込まれないよう、棚の端に小さな止め木が付けられている。
白札には、リリアナの字でこう書かれていた。
――小制度一覧。
――制度を迷子にしない箱。
自分で書いたくせに、翌朝見たリリアナは少し恥ずかしくなった。
「やっぱり、少し子どもっぽくありませんか?」
隣で棚を確認していたエレノアが、白札を眺める。
「いいえ。分かりやすいわ」
「監督会議に見せる箱ではないですよね」
「内部用なら十分よ」
そう言われても、リリアナはまだ少し落ち着かなかった。
百枚目の報告書が王宮監督会議で受理された翌日。
北翼では、さっそく新しい作業が始まっていた。
小制度一覧の作成。
監督会議で付けられた条件である。
制度ごとに、目的、対象、責任者、見直し日、終了条件を明記すること。
聞いた時は、必要だと分かった。
けれど、いざ始めると、これは思っていたより厄介だった。
何を「制度」と呼ぶのか。
それが、最初から難しい。
ヘンリク事務官が、机の上に候補を並べた。
「まず、紫札運用」
「制度ですね」
リリアナが頷く。
「空白分類」
「制度です」
「今は書かない欄」
「空白分類の一部では?」
リリアナが言うと、ヘンリクは少し考えた。
「ですが、窓口標準文として独立しています」
「なら、空白分類の下位制度?」
「下位制度という言葉を使うと、一覧が複雑になります」
いきなり止まった。
エレノアが口を開く。
「今日はまず、厳密な階層を作るより、“現場で名前を持って動いているもの”を拾いましょう」
「現場で名前を持って動いているもの」
リリアナはその言葉を手帳に書いた。
制度という言葉は硬い。
だが、現場で名前を持つと、それは動き始める。
紫札。
今は書かない欄。
夜間灯油確認表。
産後食個別カード。
基準椀。
父欄未聴取。
贈答品辞退文例。
未開封保管箱。
未確認物品仮置き台。
古着箱分類。
すぐ直す箱。
材料待ち小札。
用途札。
並べると、かなり多い。
リリアナは眉を寄せた。
「増えすぎていませんか」
「増えています」
エレノアは否定しなかった。
「だから一覧が必要なのよ」
「一覧を作るために、また制度が増えました」
「そうね」
「制度が制度を産んでいます」
「放っておくと、もっと勝手に増えるわ」
その言葉は、少し怖かった。
制度は、勝手に増える。
誰かが便利だからと真似る。
別の場所で少し変える。
名前だけ残る。
意味がずれる。
やがて、誰が始めたのかも、何のためだったのかも分からなくなる。
まさに、迷子だ。
リリアナは、木箱の白札を見た。
子どもっぽいと思ったが、間違ってはいないのかもしれない。
最初にカードを作ることになったのは、紫札だった。
ヘンリクが読み上げる。
「制度名、紫札運用」
リリアナが書く。
――目的。見直し予定のある作業・制度・支援物資を、忘れずに再確認するため。
「対象」
「王妃基金関連試行制度、夫人会作業、支援物資の使用後確認。ただし、装飾・宣伝・社交小物には使用しない」
「責任者」
「各札に記載された担当者。総括は北翼記録係」
「見直し日」
「札ごとに記載。月次で一覧確認」
「終了条件」
ここで、リリアナの手が止まった。
紫札の終了条件。
何を書けばいいのか。
エレノアが言った。
「紫札そのものの終了条件と、個別の紫札の終了条件は分けましょう」
「つまり?」
「制度全体としての紫札運用は、当面継続。ただし、現場負担が増えすぎた場合、飾り化が再発した場合、見直し忘れが一定数出た場合は修正」
「個別の紫札は?」
「見直し後に、継続、修正、終了、中止のどれかを記録し、役目が終われば外す」
リリアナは書いた。
書きながら、ようやく分かってきた。
終了条件は、やめる条件だけではない。
見直して、続けるかどうかを決める条件でもある。
次は、「今は書かない欄」。
これは、さらに難しかった。
目的。
――本人保護や体調等の事情により、今すぐ記入できない欄を、支援停止や差し戻しの理由にしないため。
対象。
――父欄、住所欄、旧姓欄、前雇用主欄、身元保証欄等。ただし、すべての空白に適用しない。
責任者。
――登録局窓口、保護担当、法務担当。
見直し日。
――日付または条件。母体状態安定、保護担当説明済み、本人が説明を聞ける状態等。
終了条件。
リリアナは、ここでも少し悩んだ。
「“欄が埋まったら終了”では駄目ですよね」
「駄目ね」
エレノアが即答する。
「埋めることが目的ではないから」
「では……本人に説明が行われ、欄の扱いが決まったら?」
「よいわ。父名記載、父名非公開、父不明、後日補正、記載不要判断など、扱いが決まった時点で“今は書かない欄”としての役目は終わる」
リリアナは頷き、書いた。
――終了条件。本人への説明後、欄の扱いが決定し、保護管理簿に記録された時。ただし、保護空白として継続する場合は、次回確認条件を置く。
難しい。
だが、必要な難しさだ。
次々にカードを作っていくうちに、ある問題が見つかった。
「用途札」が重複していたのだ。
王妃基金の倉庫で使う用途札。
夫人会の古着箱で使う用途札。
聖リディア産婆院の鍋や布に使う用途札。
南区孤児院の窓布の説明札。
それぞれ似ている。
だが、少しずつ違う。
倉庫の用途札は、物資の誤用防止が目的。
夫人会の用途札は、作業分類の混乱防止。
産婆院の用途札は、衛生と安全。
孤児院の用途説明札は、使ってよいことを伝えるため。
リリアナは、カードを並べて唸った。
「全部、用途札でいいのでしょうか」
ヘンリクも困った顔をする。
「名前が同じだと、集約したくなりますが、目的が違います」
「目的が違うなら、同じ制度ではない?」
エレノアが言った。
「大元は同じ考え方でも、対象と危険が違うなら別カードにしましょう。ただし、関連制度として紐づける」
「紐づけ……」
リリアナは、思わず材料待ち箱の紐を思い出した。
制度同士にも紐がいる。
強すぎると外せない。
弱すぎると迷子になる。
カードの端に、小さな関連欄を作ることになった。
――関連制度。
用途札の各カードには、互いに関連制度として記された。
これで、同じ名前だからといって一つに潰さず、完全に別物として忘れることもない。
昼前、フィオナ司祭が北翼を訪れた。
聖リディア産婆院の報告を持ってきたついでに、小制度一覧の作業を見に来たのだ。
リリアナが産後食個別カードを見せると、フィオナ司祭は静かに頷いた。
「これにも終了条件が必要ですね」
「はい。そこが難しくて」
リリアナはカードを見せた。
目的。
――産後の母親ごとの食事量、理由、本人の言葉、次の対応を記録し、他者比較や無理な増量を防ぐため。
対象。
――聖リディア産婆院の産後母親。必要に応じて他施設へ展開。
責任者。
――産婆院エダ、食事担当、フィオナ司祭。
見直し日。
――十四日後。以後、母体状態に応じて。
終了条件。
ここが空いている。
「母親が十分食べられるようになったら、ですか?」
リリアナが言うと、フィオナ司祭は少し考えた。
「それも一つですが、“十分”が曖昧です」
「ですよね」
「産後食個別カードとしての終了は、通常食へ移行し、食事量を特別管理しなくてもよいと産婆または薬師が判断した時、でしょうか」
「なるほど」
「ただし、保護上の理由で食事記録が必要な場合は別のカードへ移す。産後食カードをだらだら続けないことが大事です」
だらだら続けない。
優しい支援ほど、終わらせにくい。
終えると、見放すように感じるからだ。
でも、終える条件がないと、本人がずっと管理対象として扱われる。
リリアナは書いた。
――終了条件。通常食へ移行し、産婆または薬師が特別管理不要と判断した時。継続支援が必要な場合は、産後食カードではなく別支援へ移行。
フィオナ司祭はそれを見て頷いた。
「よいと思います」
「支援って、終わらせるのも難しいですね」
「ええ。終わらせることが、回復を認めることになる場合もありますから」
リリアナは、その言葉を手帳へ写した。
――終わらせることが、回復を認めることになる場合もある。
午後には、登録局のバスティアン補佐官が来た。
彼は小制度一覧の「空白分類」のカードを見て、すぐに言った。
「この終了条件だと、登録局側では少し弱いです」
リリアナは身構えた。
「どこがでしょう」
「“欄の扱いが決定した時”とありますが、登録局では決定後の反映確認も必要です。たとえば、父欄非公開と決まったのに、別の台帳へ誤って父名記載を求める欄が残ることがあります」
「つまり、決定しただけではなく、関連書類へ反映されたか?」
「はい」
バスティアンは、以前よりずっと現場目線で話すようになっていた。
「窓口票、保護管理簿、登録局控え、王妃基金側の支援記録。それぞれの扱いが一致している必要があります」
リリアナは、少し頭が痛くなりそうだった。
制度同士のずれ。
それも見なければならない。
しかし、言われてみれば当然だ。
一つの紙だけ直しても、別の紙が古いままなら、人はそこでつまずく。
「今は書かない欄」が登録局で認められても、王妃基金側の支援記録で父名必須になっていたら、雨音はまた怖がる。
カードに追記された。
――終了条件には、関連書類への反映確認を含む。
リリアナはつぶやいた。
「制度が迷子になるだけではなく、制度同士が別々の道へ行くこともあるんですね」
「あります」
バスティアンは苦笑した。
「役所では、よくあります」
「よくあっては困ります」
「おっしゃる通りです」
そのやり取りを聞いて、エレノアが少しだけ笑った。
夕方近くになると、小制度一覧の箱には、十数枚のカードが収まっていた。
しかし、箱が完成したわけではない。
むしろ、箱を作ったことで新しい未整理が見えた。
たとえば、「基準椀」。
これは制度なのか、道具なのか。
リリアナはかなり悩んだ。
「椀ですよね」
「椀ね」
エレノアが答える。
「でも、食事量記録の基準として使っています」
「なら、道具運用としてカードにしましょう」
基準椀カード。
目的。
――食事量記録の基準を揃え、半椀・三分の一等の判断を施設内で共有するため。
対象。
――産後食支援および必要な食事支援。
責任者。
――食事担当、産婆院管理者。
見直し日。
――割れ、紛失、容量違いが出た時。月次棚卸。
終了条件。
――基準椀を用いた食事量記録が不要になった時。または、より適切な計量方法へ移行した時。
リリアナは、書き終えて少し笑った。
「椀に終了条件」
「大事よ」
「はい。分かります。でも、少しおかしいです」
「おかしいけれど、大事なものはたくさんあるわ」
次に「未開封保管箱」。
これは夫人会の贈答品対策から生まれたものだ。
目的。
――差出人不明または事前確認のない物品を受付台で開封・受領せず、安全確認へ回すため。
対象。
――夫人会受付、必要に応じて王妃基金受付。
責任者。
――受付担当、夫人会記録係、安全担当。
見直し日。
――差出人不明物品発生時ごと。月次で空箱確認。
終了条件。
――贈答品辞退運用が安定し、未確認物品が一定期間発生しない場合に縮小検討。ただし、安全上の理由から完全廃止は監督会議判断。
リリアナは、そこで眉を寄せた。
「完全廃止は、少し怖いです」
「ええ」
エレノアも同意する。
「未確認物品は、頻度が下がってもゼロとは限らない。だから、保管箱そのものは残る可能性が高いわね」
「では、終了条件ではなく縮小条件?」
「その方が正確ね」
カードは修正された。
終了条件ではなく、縮小条件。
すべての制度が、きれいに終わるわけではない。
残すものもある。
ただし、残す理由を書く。
このあたりで、リリアナはかなり疲れてきた。
机の上にはカード。
手帳には言葉。
頭の中には箱と札と欄と椀が渋滞している。
彼女は小さく息を吐いた。
「制度を迷子にしない箱で、私が迷子になりそうです」
ヘンリクが思わず笑った。
エレノアも微笑む。
「少し休みましょう」
「でも、まだ終わっていません」
「終わらない作業は、休みを挟まないと壊れるわ」
リリアナは素直に頷いた。
休憩として、調理場から薄い焼き菓子が運ばれた。
以前、焼き色で話題になったあの菓子だ。
今日は、表面にちょうどよい琥珀色がついている。
リリアナは一口食べて、思わず笑った。
「焼き色、適正です」
ヘンリクが真面目に言った。
「それも小制度一覧に入りますか?」
場が一瞬静まり、次に小さな笑いが起きた。
リリアナは、菓子を見つめた。
「……焼き色見本も、調理場内では制度かもしれませんね」
笑いが止まった。
ヘンリクが、少しだけ後悔した顔になる。
「冗談のつもりでした」
「でも、必要かもしれません」
エレノアが言った。
「ただし、小制度一覧の対象を広げすぎると本当に破綻するわ。王妃基金・夫人会・登録局・支援現場に直接関わる制度から始めましょう。調理場内の焼き色見本は、調理場の管理表に任せる」
「よかった……」
リリアナは本音を漏らした。
全部を拾おうとすると、箱が箱を呼ぶ。
範囲を決めることも制度なのだ。
休憩後、最後に「一覧への登録条件」が作られた。
小制度一覧へ入れる条件。
一、複数人が使う。
二、見直し日または見直し条件がある。
三、支援・記録・受付・保護判断に影響する。
四、目的を失うと害が出る。
五、責任者が必要。
リリアナは、これを見て頷いた。
「これがないと、何でも入れてしまいますね」
「ええ」
エレノアは言った。
「一覧へ入れる条件も、一覧の一番前に置きましょう」
「制度を迷子にしない箱に入れるための門番ですね」
「そうね」
リリアナは白札に小さく書き足した。
――何でも入れない。迷子になりやすいものを入れる。
夕方、小制度一覧の初日分が終わった。
箱の中には、まず十二枚のカード。
紫札運用。
今は書かない欄。
空白分類。
産後食個別カード。
基準椀。
夜間灯油確認表。
贈答品辞退文例。
未開封保管箱。
未確認物品仮置き台。
古着箱分類。
すぐ直す箱。
材料待ち小札。
まだ全部ではない。
用途札系は、明日に持ち越し。
窓布番号札も、関連整理が必要。
夫人会紫布札の使用規則も、別カードになる。
リリアナは、箱の蓋を閉める前に、中のカードを見た。
小さい。
でも、どれも誰かの迷いから生まれたものだ。
誰かが困った。
誰かが止まった。
誰かが怖がった。
誰かが迷った。
だから、制度になった。
そして今、その制度が迷子にならないよう、また箱に入れられている。
夜、リリアナは報告を書いた。
――小制度一覧の箱を作った。制度を迷子にしない箱。少し子どもっぽい名前だが、分かりやすい。
――制度として入れるものは、現場で名前を持って動いているもの。
――ただし何でも入れない。複数人が使い、見直し条件があり、支援・記録・受付・保護判断に影響し、目的を失うと害が出て、責任者が必要なもの。
――紫札、今は書かない欄、産後食個別カード、基準椀、未開封保管箱、古着箱分類などをカード化した。
――終了条件を書くのが難しかった。支援は終わらせることが、回復を認めることになる場合もある。
――関連書類への反映確認も必要。制度同士が別々の道へ行かないようにする。
――同じ用途札でも、倉庫、夫人会、産婆院、孤児院で目的が違う。目的が違うなら分ける。ただし関連制度として紐づける。
――制度を整理する制度で、少し迷子になりかけた。範囲を決めることも大事。
最後に、少し考えてから書いた。
――制度は、誰かの困りごとから生まれる。でも、生まれた後に放っておくと、今度は制度自身が誰かを困らせる。だから、この箱はたぶん必要だ。
エレノアはそれを読んで、静かに頷いた。
「今日の報告も、十分百一枚目にふさわしいわね」
「百一枚目……」
「ええ」
「本当に終わらないですね」
「終わらないけれど、迷子にはしない」
リリアナは、小制度一覧の箱を見た。
ただの木箱。
でも、その中には、灯油の夜も、粥の半椀も、父欄の空白も、受付の震える声も、古着のほつれも入っている。
制度を迷子にしない箱。
その名前は、やはり少し子どもっぽい。
けれど今夜のリリアナには、それでいいと思えた。




