第九記録【暗闇のくちづけ】
月末の金曜日。
午後8時を回ったオフィスの窓を、激しい雨が叩きつけていた。
バシャバシャと窓ガラスを洗う水音。
時折、遠くでゴロゴロと低い雷鳴が響く。
けれど、今の私にはその嵐さえも生ぬるい。
なぜなら、私自身の心の中で吹き荒れている台風の方が、よっぽど風速が強いからだ。
ッターン!!
私がワープロの実行キーを小指で叩くと、フロア中に乾いた炸裂音が響き渡った。
まるでピストルの発砲音だ。
私は鬼の形相で、伝票の山と格闘していた。
今週はずっとこうだ。
あの赤いスポーツカーを見送った月曜日から、私は一度も彼と口をきいていない。
目も合わせず、挨拶も最小限。
その代わり、すべての感情を指先に込めて、ひたすら仕事に没頭していた。
カチャカチャカチャカチャ……ッターン!
カチャカチャカチャカチャ……ッターン!
私のタイピング速度は、普段の倍速に達していた。
横に積まれた書類の山が、みるみるうちに処理済みのトレイへと移動していく。
『……すごいわ洋子。当社比1.5倍の処理速度ね』
デスクの横に、明菜がストップウォッチを持って浮いていた。
彼女は私の手元を覗き込み、感心したように、あるいは呆れたように呟く。
『これぞ心理学でいう「昇華」の極致ね』
……うるさい。話しかけないで。
今、計算が合わなくなるから。
『いい? 「昇華」っていうのはね、行き場のない性的欲求や攻撃衝動を、社会的に価値のある活動――つまり仕事や芸術なんかに置き換えて発散する、高度な防衛機制のことよ』
明菜はストップウォッチのボタンを押した。
『あんたの中にある彼を奪いたい、あのバブル女を引きずり回したいっていうドロドロした衝動が、今は全部「伝票整理」に変換されてるわけ。フロイト先生が見たら泣いて喜ぶわよ。「見ろ、これが抑圧された主婦のパワーだ!」ってね』
私は眉間のシワを深めながら、次の伝票をひったくった。
そうよ。その通りよ。
このイライラをどこにぶつければいいの?
家に帰って夫に当たり散らす?
そんな気力もない。
だったら、会社の利益に貢献してやるわよ。
残業代も稼げて一石二鳥じゃない。
「……あの、佐々木さん」
恐る恐る、声をかけられた。
手を止めずに視線だけで顔を上げる。
高橋係長だった。
彼は私の殺気に当てられたのか、少し引き腰で立っている。
「……何ですか」
地を這うような低い声が出てしまった。
彼はビクリと肩を震わせる。
「あ、いや……その、今月の経費精算の件で、ここが合わなくて」
彼が差し出した書類を見る。
単純な計算ミスだ。普段の彼ならありえない初歩的な間違い。
「貸してください」
私は彼の手から書類をむしり取った。
電卓を叩く。
タタタタタッ、とマシンガンのような音が静かなオフィスに響く。
「ここです。交通費の区分が間違ってます」
「あ……本当だ。すみません」
「係長なんですから、しっかりしてください。私たちが二度手間になります」
冷たく言い放ち、赤ペンで修正して突き返す。
彼は「はい……」と小さくなって、書類を受け取った。
その姿を見て、胸の奥がチクリと痛んだ。
本当は、こんな言い方したくない。
「大丈夫ですか? 疲れてますね」って、優しく声をかけてあげたい。
でも、できない。
優しくしたら、また勘違いしてしまう。
また、あの赤い車の女――絵里の影に怯えることになる。
プルルルル……。
彼のデスクの電話が鳴った。
残っているのは私と彼だけだ。
彼は受話器を取った。
「はい。……ああ、うん」
声のトーンが変わった。
仕事相手じゃない。
あの女だ。
私はキーボードを叩く手を緩めずに、耳だけを澄ませた。
「だから、今日は無理だって言っただろ。仕事が残ってるんだ……違うよ。避けてるわけじゃない……わかった。わかったから……もう切るよ」
ガチャン。
彼が少し乱暴に受話器を置いた。
深いため息が聞こえる。
……喧嘩?
私の指が止まった。
うまくいってないの?
あんなに派手に迎えに来たのに?
『ほら洋子、チャンスよ』
明菜が私の耳元で囁く。
『「彼女とうまくいってないんですか?」って聞くだけでいいの。弱ってるオスは、優しくされるとコロッといっちゃうんだから』
……嫌。
そんな卑怯な真似、したくない。
私は「昇華」中なんだから。仕事をするの。
私は自分を叱咤して、再びキーボードに向かった。
その時だった。
ピカッ!!
窓の外が、真昼のように白く光った。
バリバリバリッ!! ドオオオオン!!
直後、鼓膜を破るような轟音がビルを揺らした。
近い。落ちた。
「きゃっ!」
私が悲鳴を上げたのと同時に、オフィスの蛍光灯がフツン、と消えた。
パソコンの駆動音も、換気扇の音も、すべてが停止する。
真っ暗闇。
非常口の緑色のランプだけが、不気味にぼんやりと光っている。
残りは漆黒の闇だ。
「……停電?」
私の震える声が、暗闇に吸い込まれる。
怖い。
私は暗いのが苦手だ。子供の頃から、暗闇にはお化けがいると信じ込んでいた。
今は明菜(お化けみたいなもの)がいるけれど、それでも本能的な恐怖は消えない。
私はデスクの下に潜り込み、耳を塞いだ。
心臓がバクバクとうるさい。
「佐々木さん!?」
暗闇の向こうから、彼の声がした。
椅子を蹴る音。
足音が近づいてくる。
「佐々木さん、どこですか! 大丈夫ですか!」
「こ、ここ……」
声が出ない。
足音が私のデスクのまわりで止まる。
手探りで何かを探す気配。
そして。
温かい手が、私の肩に触れた。
「いた」
安堵したような声と共に、強い力で引き寄せられた。
「あっ……」
次の瞬間、私は彼の腕の中にいた。
暗闇の中で、彼の体温と匂いだけが、強烈な実体を持って私を包み込む。
雨の匂いではない。
微かな汗と、ワイシャツの糊の匂い。
そして、あのコロンの香り。
ドクン、ドクン、ドクン。
彼の心臓の音が、私の背中越しに伝わってくる。
早鐘を打っているのは、私だけじゃなかった。
「……高橋、係長?」
「よかった。急に静かになったから……怖がってるんじゃないかって」
彼の腕に力がこもる。
痛いほど強く、抱きしめられている。
これは、だめだ。
昇華なんて吹き飛んでしまう。
積み上げた理性の堤防が、この暗闇と体温の前では無力すぎる。
「……離して。誰かに見られた」
私は弱々しく抵抗した。
「ここにいるのは僕と佐々木さんだけですよ」
彼は私の耳元で囁いた。
その吐息が熱くて、私は身をすくめた。
「それに……彼女に怒られるよ。さっき、電話してたじゃない」
嫉妬が口をついて出た。
言ってから後悔した。これじゃあ、まるで拗ねている子供だ。
「……もう、会ってません」
え?
私は暗闇の中で目を見開いた。
「さっきのは、別れ話の続きです。あの日、佐々木さんが帰った後……僕、彼女と大喧嘩したんです」
彼の声は震えていた。
「言ったんです。俺が本当に一緒にいたいのは、君じゃないって。アクセサリーみたいに連れ回されるのは、もう沢山だって」
「でも……」
「俺が見てほしいのは、家柄でも、将来性でもない。……今の俺自身を見てくれる人なんです」
彼の指が、私の頬に触れた。
暗闇で見えないはずなのに、彼は正確に私の顔を探り当てた。
「洋子さん。……あなたなんです」
思考が停止した。
私?
おばさんで、地味で、欠陥品の私?
『洋子』
明菜の静かな声が聞こえた。
『ここは結界の中よ。光も、世間体も、夫の目も届かない場所。……素直になりなさい』
素直に。
私は彼の手の上に、自分の手を重ねた。
冷たかった私の手が、彼の熱で温められていく。
「……私、おばさんだよ?」
「関係ない」
「人妻だよ?」
「知ってます」
「……重いよ?……多分」
彼はふっと笑った気配がした。
「望むところです」
再び、窓の外で稲妻が光った。
一瞬だけ浮かび上がった彼の顔。
いつもの頼りない笑顔じゃなかった。
獲物を捕らえる男の、切なくて、必死な瞳。
「洋子さん……」
名前を呼ばれた瞬間、唇が塞がれた。
んっ……。
それは、映画のようなロマンチックなキスじゃなかった。
歯が当たりそうなくらい不器用で、押し付けるような、痛いくらいのキス。
互いの不安や、焦燥や、抑え込んでいた感情をぶつけ合うような行為。
苦しい。
でも、離れたくない。
私は彼のワイシャツの背中を、爪が食い込むほど強く掴んだ。
口の中に、微かにコーヒーの苦味と、彼の味が広がった。
これが、罪の味。
これが、堕ちていく味。
どれくらいそうしていただろう。
数秒だったかもしれないし、数分だったかもしれない。
私たちが唇を離し、荒い息を整えていた時だった。
ブウン。
低い音と共に、頭上の蛍光灯が一斉に明滅し、パッと光が戻った。
「あ……」
突然の明るさに、私たちは弾かれたように体を離した。
眩しい。
白い光が、残酷なまでに現実を照らし出す。
私の乱れた髪。
彼の口紅がついた唇。
そして、抱き合っていたという動かぬ事実。
気まずい沈黙が流れた。
ワープロの起動音が、ファンファンと空気をかき回す。
「……電気、つきましたね」
彼が顔を真っ赤にして、視線を泳がせた。
「……仕事、戻らないと」
私も熱くなった頬を手で隠しながら、デスクに向き直った。
心臓がまだ、早鐘を打っている。
指先が震えて、キーボードがうまく叩けない。
でも、さっきまでの怒りのタイピングとは違った。
体の中に、温かい灯火がともっている。
帰り際。
エレベーターホールで一緒になった。
まだ雨は降っているけれど、雷は去っていた。
「送りましょうか? 車で」
彼が小声で聞いてきた。
前回のタクシーの記憶が蘇り、顔が熱くなる。
でも、今日はだめだ。これ以上一緒にいたら、本当に帰れなくなる。
「ううん。今日は自分で帰る。……頭、冷やしたいから」
私は首を振った。
「……わかりました」
彼は残念そうに、でも少し嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあ月曜日にお疲れ様でした」
その短い言葉に込められた重み。
私は小さく頷くと、逃げるようにエレベーターに乗り込んだ。
扉が閉まり、私一人になる。
鏡に映った自分の顔を見る。
口紅が滲んで、ひどい顔だ。
でも、目は輝いていた。
あの死んだ魚のような目は、もうどこにもない。
『……ふん。「昇華」失敗ね』
天井の隅から、明菜がニヤニヤしながら降りてきた。
『欲求、爆発しちゃったじゃない。計算狂ったわ』
計算通りにいかないのが人生でしょ。
私は指先で、自分の唇に触れた。
まだ、彼の感触が残っている。
痛くて、苦くて、甘い感触が。
『でも、いいキスだったんじゃない?』
明菜の言葉に、私は初めて心から同意した。
そうね。
最高の、ファーストキスだった。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.001
氏名: 佐々木 洋子(29)
職業:事務職/堕天使(翼が生えかけ)
現在のステータス
* 女子力:B(フェロモン放出量が増加中)
* 忍耐力:D(理性の堤防が決壊寸前)
* 恋愛深度:測定不能(プラトニック終了のお知らせ)
明菜の分析ログ
「暗闇効果」の実証実験、成功ね。
視覚情報が遮断されると、人間は不安になり、
他者との心理的・物理的距離を縮めようとする。
そこに「雷」という恐怖刺激(吊り橋効果)が加われば、キスに至る確率は99.8%。
仕事で怒りを昇華?
無理無理。エネルギー保存の法則を舐めないで。
抑圧された感情は、必ず別の形で噴出するの。
今回はそれが「唇」だっただけ。
次はいよいよ、Xデー(誕生日)ね。
夫か、彼か。
彼女がどちらを選ぶのか……
賭け率は100対0で決まりね。
毎日21∶20に投稿
※作中の医学・心理学描写について
本作に登場する心理学用語や医学的な説明は、作者なりに調べて執筆しておりますが、あくまで「明菜先生の独自解釈」や「物語上の演出」が含まれます。
厳密な学術書ではなく、エンターテインメントとして楽しんでいただければ幸いです!
この作品が面白い!と思っていただけたのなら
是非ぜひブクマと評価のほうよろしくお願いします。




