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夫に疲れ果てた昭和60年の私。脳内のボディコン美女に唆されて、年下上司と一線を超えました  作者: ベルガ・モルザ


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第三十四記録【東京脱出、さよなら明菜先生】




 九月中旬。

 空は高く、鰯雲(いわくぐも)刷毛(はけ)で掃いたように広がっている。

 肌を刺すようだった陽射しは和らぎ、乾いた秋風が街路樹を揺らしていた。


 世田谷のマンションの窓際で、私は一枚の書類を見つめていた。

 『公正証書』。

 重々しい明朝体で記されたその紙には、私と徹さんが一生背負うことになった「罪の値段」が刻まれている。


 金壱阡万円也きんいっせんまんえんなり

 慰謝料の総額だ。

 剛と、絵里の両親に対して支払う解決金。

 当時のサラリーマンの年収の、およそ三年分に近い莫大な金額。


 もちろん一括で払えるはずもなく、私たちは公正証書を作成し、月々の分割払いで合意した。

 徹さんの貯金も、退職金も、私の手元にあったわずかなへそくりも、すべて頭金として消えた。


 これからは毎月、給料の多くを返済に回さなければならない。

 贅沢なんてできない。

 外食も、旅行も、新しい服も、当分はお預けだ。


 けれど。


 私は書類をクリアファイルにしまい、小さく息を吐いた。

 不思議と、心は羽が生えたように軽かった。


 借金は重い。

 でも、これはただの借金ではない。

 私を縛り付けていた鎖を断ち切るための「手切れ金」であり、私たちが過去を捨てて生きるための「通行料」なのだ。


 離婚届は受理された。

 私はもう、佐々木剛の妻ではない。

 誰の所有物でもない。

 ただの、三十歳の女に戻ったのだ。


 その事実だけで、肺いっぱいに新鮮な空気を吸い込める気がした。


 振り返ると、部屋の中は段ボールの山になっていた。

 ガムテープの音。

 ビリッ、バリッ。


 徹さんが手際よく箱を封印していく。

 彼はTシャツにジーンズという姿で、額に汗を浮かべていた。


 かつて着ていたブランド物のダブルのスーツや、イタリア製の革靴は、すべてゴミ袋の中に放り込まれている。


「本当にいいの? それ、高かったんでしょ?」


 私がゴミ袋を指差すと、彼は手を止めて笑った。


「いいんです。向こうに行ったら、着る機会なんてありませんから」


 彼はゴミ袋の口を縛り上げる。


「漁港の近くなら、スーツより作業着や長靴の方が似合うかもしれないし」


 その笑顔には、以前のような儚さや頼りなさはなかった。

 自分の足で立ち、生活を背負おうとする男の、野太い逞しさが宿っている。


 私たちは東京を離れることにした。

 行き先は、遠い小さな海辺の町。

 誰も私たちを知らない場所。

 噂話も、好奇の目もない場所。


 そこでゼロから――いいえ、マイナスからやり直す。


 私も自分のクローゼットに向かった。

 ハンガーにかかっているのは、商社の事務服や、剛が好んだ地味な服。

 良妻賢母を演じるための舞台衣装たち。


 全部、いらない。


 私はそれらを鷲掴みにし、容赦なくゴミ袋に突っ込んだ。

 ハンガーがぶつかり合う音が、どこか小気味いい。


 必要なのは、動きやすい服と、少しの下着だけ。

 あと、彼とお揃いで買ったマグカップ。


 段ボール箱に次々と詰め込まれていくのは、この夏の記憶だ。

 楽しかったこと。

 苦しかったこと。

 背徳のときめき。

 罪の意識。

 そして、失ってしまった小さな命への想い。


 すべて箱に詰めて、封をする。


 忘れることはできないけれど、引きずってはいけない。

 私たちは、これらを抱えたまま、前へ進まなければならないのだから。


「よし、これで最後ですね」


 徹さんが最後の箱を積み上げた。

 部屋の中はすっかり空っぽになった。

 家具も家電も、ほとんど処分した。


 広いリビングに残っているのは、埃と、西日の光だけ。


「先に車に積んできますね」


 徹さんが重い箱を抱えて部屋を出て行った。

 エレベーターの音が遠ざかる。

 静寂が戻る。


 私はガランとした部屋の中央に立ち、ぐるりと見渡した。


 ここで過ごした日々。

 初めて結ばれた夜。

 絵里が乗り込んできてクローゼットに隠れた朝。

 流産の痛みに耐えて過ごした療養の日々。


 たった数ヶ月のことなのに、まるで何年もここで暮らしたような密度だった。


 ありがとう。

 そして、さようなら。


 掃除をしようと、モップ手に取った時だった。

 ふと、窓辺に気配を感じた。


 逆光の中に、シルエットが浮かんでいる。

 ボディコンシャスの派手なドレス。

 手にはジュリ扇。


 明菜だ。


 彼女は窓枠に寄りかかり、静かに私を見ていた。

 いつものように「アハハ」と笑ったり、毒づいたりしない。

 夕陽に透けるその姿は、どこか儚げで、輪郭が揺らいで見えた。


 私はモップを置き、彼女に向き合った。


「……行くね」


 私が告げると、明菜はゆっくりと頷いた。


『そう。……やっと、自分の足で歩く気になったのね』


 彼女の声は、心の中に直接響いてくるようだった。


 彼女は、私の心の奥底に眠っていた「欲望」の化身だったのかもしれない。

 平凡な主婦という殻を破りたくて、愛されたくて、もがいていた私の「もう一人の私」。


 彼女が背中を押し、時に煽り、ここまで導いてくれた。


 彼女がいなければ、私はまだあの団地で、死んだように生きていただろう。

 剛の顔色を伺い、自分の人生を諦めたまま、おばあちゃんになっていたかもしれない。


「明菜、いろいろとありがとう」


 私は深々と頭を下げた。

 心からの感謝を込めて。


 明菜はフンと鼻を鳴らした。


『お礼なんて言われる筋合いないわよ』


 彼女はジュリ扇で口元を隠したが、その目は満足げに細められていた。


『アタシはただ、洋子の本性を引きずり出しただけ。アンタの中に眠っていた「悪女」を目覚めさせただけよ』


 彼女の体が、少しずつ薄くなっていく。

 西日の粒子に溶け込むように。


『せいぜい、地獄の底で幸せになりなさい』


 それは彼女なりの、最高のエールだった。


 地獄。

 そう、私たちがこれから行く場所は、楽園ではない。

 罪を背負って生きる、修羅の道。


 でも、そこには愛がある。

 彼がいる。


 明菜は皮肉な笑みを残し、夏の陽炎のようにスゥッと消えていった。

 キラキラとした光の粒となって、空気に溶けた。


 彼女の役目は終わったのだ。

 私を「こちらの世界」――理屈や正しさではなく、感情と本能で生きる世界――へ堕とすという役目が。


 部屋には、私一人だけが残された。

 でも、孤独ではなかった。


 私の中には、彼女が残してくれた強さと、したたかさが確かに息づいている。


 私はモップを片付け、バッグを肩にかけた。

 鍵を閉める。


 ガチャリ。


 その音は、私の過去への決別の音だった。


 マンションのエントランスを出ると、徹さんの白いマークIIが待っていた。

 トランクと後部座席には、私たちの全財産が詰め込まれている。


 私が助手席に乗り込むと、徹さんがエンジンをかけた。

 ブルルン、と車体が震える。


「行きますか」


 彼が私を見る。

 その横顔は、夕陽に照らされて金色に輝いていた。


「うん」


 車がゆっくりと走り出す。

 環状八号線に入り、南へ向かう。


 サイドミラーの中で、見慣れた街並みが、そして遠くに見える新宿のビル群が、どんどん小さくなっていく。


 煌びやかで、冷たくて、残酷だった東京。

 私たちの青春と罪が詰まった街。


 カーラジオから、切ないメロディが流れてきた。

 哀愁漂う歌声が、今の私たちの心境に重なる。


 悲しみも、後悔も、すべて連れて行く。

 でも、もう一人じゃない。


 私は徹さんの左手に、自分の右手を重ねた。

 彼が強く握り返してくる。


 そこにはもう、プラチナの結婚指輪はない。

 何も飾りのない、素朴な手。

 けれど、見えない鎖で、誰よりも強く結ばれている手。


 フロントガラスの向こうには、どこまでも続く青い空と、赤く染まり始めた雲が広がっていた。

 その先には、まだ見ぬ海が待っている。


 私たちはアクセルを踏み込んだ。

 終わらない旅の、始まりだった。





【明菜先生の研究メモ】

被験者データ No.001

氏名: 高橋 洋子(旧姓:佐々木)

職業: 花屋の見習い(予定) / 悪女


■ 現在のステータス

・借金: 1000万円(返済開始)

・住所: 不定(移動中)

・精神状態: 快晴


■ 明菜の分析ログ

 ふふ。いい顔して出て行ったじゃない。

 最初に出会った時の、あの死んだ魚のような目をした主婦とは別人ね。

 女はね、何かを捨てた時に初めて美しくなるの。

 地位も、名誉も、正しさも。


 全部脱ぎ捨てて、愛ひとつを握りしめた女は無敵よ。


 これでアタシの出番はおしまい。

 ……と言いたいところだけど。


 あの二人が数年後、借金まみれの生活の中で、それでも愛し合っていられるのか。

 それとも、金の切れ目が縁の切れ目で、泥沼の罵り合いをしているのか。


 ちょっとだけ、時間を跳躍して覗きに行ってみようかしら。

 悪魔の好奇心は、尽きないものだからね♪


 次回……最終記録♡



※作中の医学・心理学描写について

本作に登場する心理学用語や医学的な説明は、作者なりに調べて執筆しておりますが、あくまで「明菜先生の独自解釈」や「物語上の演出」が含まれます。

厳密な学術書ではなく、エンターテインメントとして楽しんでいただければ幸いです!


この作品が面白い!と思っていただけたのなら

是非ぜひブクマと評価のほうよろしくお願いします。

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