第三十三記録【愛の誓い】
八月二十八日、水曜日。
夜八時の団地は、湿ったコンクリートと夕飯の残り香が混ざった、独特の生活臭に包まれていた。
鉄の扉の前。
私の足は、震えて止まらなかった。
ここを開ければ、もう二度と引き返せない。
この扉の向こうには、正義という名の凶器を持った夫が待ち構えている。
胃が縮み上がるような恐怖。
逃げ出したい。
その時、温かく大きな手が、私の震える手を包み込んだ。
「行きましょう」
徹さんだ。
彼は真っ直ぐに前を見据えている。
その横顔には、以前のような頼りなさは微塵もない。
私を守るために全てを捨てた、一人の男の覚悟が刻まれている。
私は小さく頷き、バッグから鍵を取り出した。
鍵穴に差し込む。
ガチャリ。
重たい解錠音が、心臓に響く。
ドアを開ける。
ムッとした熱気とともに、目に染みるようなタバコの煙が流れ出してきた。
靴を脱ぎ、そのままリビングへと進む。
蛍光灯の寒々しい光の下。
ダイニングテーブルの上座に、剛がふんぞり返って座っていた。
テーブルの上には、空になったビールの空き缶と、山盛りの吸い殻。
そして。
彼の横に、もう一人。
腕組みをして、氷のような冷ややかな視線を私に向けている女性がいた。
息を飲んだ。
カオリだ。
私の親友。
苦しい時も楽しい時も、いつも一緒だった彼女が、なぜそこにいるの?
「カオリ……どうして」
私が名前を呼ぶと、彼女はフンと鼻を鳴らし、蔑むように私を一瞥した。
「よく来れたわね。……この恥知らず」
空気が凍りついた。
彼女の口から出た言葉は、親友に向けるものではなく、汚物に向けるそれだった。
剛がニヤリと口角を上げる。
「よう。やっとお出ましか。……お連れさんも一緒とは、いい度胸だ」
剛の視線が、私の隣に立つ徹さんに突き刺さる。
徹さんは一歩も引かず、私の前に立つようにして剛と対峙した。
カオリが立ち上がり、私に詰め寄った。
その目は、正義感という名の狂気に満ちている。
「あんた、私のことアリバイに使ったらしいわね」
彼女の声が震えている。怒りで。
「剛くんから聞いたわよ。私が一緒だって嘘ついて、男とホテル行ってたんだって?……最低。友達だと思ってたのに、私の名前を使って不倫するなんて」
弁解の余地はない。
それは事実だ。
でも、彼女の敵意はそれだけでは収まらなかった。
「不倫なんて汚らわしい。その上、相手の婚約者まで傷つけて、警察沙汰にして……。あげくの果てに、子供まで作って流して」
彼女は私の腹部を睨みつけた。
「人間じゃないわよ。鬼畜ね」
鋭利な刃物のような言葉が、私の心を切り刻む。
かつて私を励まし、笑い合った親友はもういない。
そこにいるのは、私の罪を断罪し、石を投げることを正義だと信じている処刑人だ。
剛が追い打ちをかけるように笑う。
「聞いたか? 親友にまで見放されて。お前はもう、誰からも必要とされてないんだよ」
彼はタバコの煙を天井に吐き出し、嘲笑うように続けた。
「子供も産めない。家事も手抜き。そのくせ、男遊びだけは一人前ときた」
剛はテーブルを叩き、身を乗り出した。
「お前は『欠陥品』だ。不良債権だ。俺が拾ってやらなきゃ、野垂れ死んでただけの『産業廃棄物』なんだよ!」
欠陥品。産業廃棄物。
人格を否定する罵詈雑言の嵐。
「売女! 泥棒猫! 生きてる価値なし!」
カオリも一緒になって罵る。
二人の声が重なり、耳鳴りのように頭の中で反響する。
私は唇を噛み締め、俯くことしかできなかった。
反論できない。
私が犯した罪は、それほどまでに重いのだから。
その時。
私の隣で、衣擦れの音がした。
徹さんが、ゆっくりとその場に膝をついた。
畳の上に、スーツのズボンが擦れる。
彼は両手を床につき、深く、深く頭を下げた。
土下座。
「……申し訳ありません」
静かだが、力強い声だった。
「全て、僕が悪いんです。僕が彼女を誘い、僕が彼女を巻き込みました。彼女を責めないでください。悪いのは、僕一人です」
徹さんは床に額を擦りつけんばかりに平伏した。
一切の言い訳をせず、全ての罵倒をその身に引き受けるように。
剛の顔が歪んだ。
謝罪されたことが気に入らないのではない。
徹さんのその潔さが、自分の醜さを際立たせていることに苛立ったのだ。
「偉そうに庇ってんじゃねえよ!」
剛が叫び、テーブルの上のガラスの灰皿を掴んだ。
そして、中身を徹さんの頭上めがけてぶちまけた。
バサッ。
灰色の粉と、吸い殻が、徹さんの頭から肩へと降り注ぐ。
綺麗な黒髪が汚れ、スーツが灰まみれになる。
私は悲鳴を上げそうになった。
駆け寄って払いのけたい。
でも、徹さんは動かなかった。
灰を浴びても、微動だにせず、頭を下げ続けた。
「……申し訳、ありません」
その姿は、惨めどころか、神々しいほどに美しかった。
灰に塗れても、彼の魂は少しも汚れていない。
剛は舌打ちをし、ふんぞり返った。
「誠意を見せろよ、誠意を。慰謝料だ。一千万払え」
法外な金額。
無職になった彼に払える額ではない。
「そして、今すぐこいつと別れろ。二度と会うな。東京から消えろ」
カオリも腕組みをして頷く。
「そうよ。それが一番の償いでしょ。人の家庭を壊したんだから、自分たちだけ幸せになろうなんて虫が良すぎるわ」
別れろ。
それが、彼らの最終的な要求。
私を一人にして、絶望の中で生きろという命令。
沈黙が落ちた。
畳に額をつけたまま、徹さんが動かない。
……受け入れるの?
この場を収めるために、私を手放すの?
恐怖で心臓が止まりそうになった、その時。
徹さんが、ゆっくりと顔を上げた。
額には畳の跡が赤く残り、髪には灰がついている。
しかし、その瞳。
その瞳だけは、燃えるような意思を宿して輝いていた。
「お支払いは、します」
彼は剛を真っ直ぐに見据えた。
「一生かけて、どんな仕事をしてでも、働いて償います」
そして、一呼吸置いて、きっぱりと言い放った。
「ですが……別れることだけは、できません」
剛の目が点になる。
「あ?」
「彼女を愛しています」
徹さんの声が、部屋の空気を震わせた。
「一生、離しません。地獄に落ちても、僕が彼女を守ります」
狂気にも似た、揺るぎない覚悟。
全てを敵に回しても、私だけは離さないという魂の誓い。
涙が溢れた。
悔し涙ではない。
魂が震える、熱い涙。
私は彼を見た。
灰まみれの彼。
無職で、傷だらけで、何も持っていない彼。
でも、今、世界で一番強い男。
私の中で、何かが弾けた。
憑き物が落ちたように、視界がクリアになる。
私は涙を拭い、一歩前に出た。
「……聞いたでしょ、剛」
私の声は、驚くほど澄んでいた。
剛がギョッとして私を見る。
「な、なんだ」
「この人は、私のために人生を捨ててくれた。地位も、名誉も、家族も捨てて、灰まみれになって頭を下げてくれた。……あなたは?あなたは私に、何をくれた?」
剛は口をパクパクさせている。
「洗濯機と炊飯器代わりの家政婦という地位?自分のストレスをぶつけるための、都合のいいサンドバッグ?」
私は剛を見下ろし、そしてカオリを見た。
「いらない」
吐き捨てるように告げる。
「あんたたちの『正義』も、『世間体』も、これっぽっちも欲しくない!」
十年間の結婚生活。
我慢して、尽くして、自分を押し殺してきた日々。
その全てを、今ここで燃やし尽くす。
「私は、この人と行く。あんたは一生、その腐った『正しさ』とやらを抱いて、一人で孤独に腐っていきればいい!」
三行半。
妻からの、最後通告。
剛は顔を真っ赤にして立ち上がろうとしたが、言葉が出てこないようだった。
カオリも青ざめて、後ずさりしている。
「悪」だと断じていた女からの、予想外の反撃に怯えているのだ。
私は徹さんの手を取った。
灰で汚れたその手を、強く、強く握りしめる。
「行こう、徹さん」
彼は微笑み、頷いた。
私たちは呆気にとられる二人を置き去りにし、背を向けた。
二度と振り返らない。
この薄暗い団地も、冷え切った関係も、全て過去のものだ。
玄関の扉を開ける。
外の夜風が、火照った頬に心地よい。
繋いだ手は、もう二度と離れないほど、熱く結ばれていた。
コンクリートの壁の隅で、明菜がパチパチと拍手をしていた。
彼女は剛とカオリの醜悪な顔と、私たちの背中を見比べ、満足そうに笑っている。
『正義の暴言より、罪人の誓いの方が美しいなんてね。……皮肉な話』
彼女は指先で出口を指し示した。
『さあ、行きなさい。茨の道が、レッドカーペットに見えるうちに』
私たちは闇の中へと踏み出した。
その先には、どんな困難が待っているかわからない。
けれど、二人なら歩いていける。
そう確信できる夜だった。
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【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.001
氏名:佐々木 洋子(30)
職業:無職 / 共犯者
■ 現在のステータス
・パートナー:高橋 徹
・関係性:魂の結合
・敵対勢力:完全決別
■ 明菜の分析ログ
今回の修羅場、非常に興味深いサンプルが採れたわ。
まず、剛とカオリ。
彼らの心理状態は「正義中毒(ドーパミン過剰分泌)」。
「自分は正しい」「相手は間違っている」と信じ込むことで、脳が快楽を感じ、攻撃が止まらなくなる状態よ。
特にカオリは、親友への嫉妬や自分自身の満たされなさを「正義」という仮面に隠して攻撃に転嫁する「防衛機制(置き換え)」の典型ね。
醜悪だけど、人間らしくて滑稽だわ。
対する洋子と徹。
彼らは「認知的不協和」を乗り越え、「ロミオとジュリエット効果」を極限まで高めた状態。
障害(剛たちの攻撃)が強ければ強いほど、二人の絆は強固になる。
徹の土下座は、プライドを捨てたのではなく、「愛のためにプライドを捧げた」という究極の自己犠牲行動。
これを見せられたら、女の脳内ではオキシトシン(愛情ホルモン)が爆発して、もう他の男なんて目に入らなくなるわね。
この二人はもう引き離せない。
「共依存」を超えた、「共犯」という名の最強のパートナーシップの完成よ。
さぁて……まだもう少しだけ彼女の人生に付き合ってあげましょう。
※作中の医学・心理学描写について
本作に登場する心理学用語や医学的な説明は、作者なりに調べて執筆しておりますが、あくまで「明菜先生の独自解釈」や「物語上の演出」が含まれます。
厳密な学術書ではなく、エンターテインメントとして楽しんでいただければ幸いです!
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