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夫に疲れ果てた昭和60年の私。脳内のボディコン美女に唆されて、年下上司と一線を超えました  作者: ベルガ・モルザ


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第三十二記録【捨てた未来と、拾った愛】



 八月二十五日。日曜日。

 退院してから数日が過ぎた。


 世田谷のマンションの寝室は、カーテン越しに柔らかな午後の陽射しが差し込み、白いシーツを淡く照らしている。

 外からは微かに蝉の声が聞こえるが、それはもう盛夏のような力強いものではなく、行く夏を惜しむような寂しい響きを含んでいた。


 私はベッドに上体を起こし、ぼんやりと窓の外を眺めていた。

 体の痛みは、だいぶ引いた。

 階段から落ちた時の打撲痕は青あざになっているけれど、骨に異常はなかった。

 子宮の出血も止まった。


 けれど、心には巨大な風穴が空いたままだ。

 何をしても、何を考えても、冷たい風がヒュウヒュウと通り抜けていく。

 失ったものの大きさが、静寂の中で輪郭を帯びてくる。


 お腹の中にいた、小さな命。

 守れなかった。

 私の体の一部だったのに、私が殺してしまったも同然だ。


 キッチンの方から、トントンと包丁がまな板を叩く音が聞こえる。

 生活の音。


 しばらくして、ドアが開いた。

 徹さんがお盆を持って入ってくる。


「洋子さん、具合はどうですか? お腹空きましたか?」


 彼はベッドサイドにお盆を置いた。

 湯気を立てるおかゆと、梅干し、そして綺麗に剥かれた桃。


「……ありがとう。ごめんね、いつも」


 私は小さく頭を下げる。


 退院してからというもの、彼は私を一人にせず、こうしてかいがいしく世話を焼いてくれている。

 買い物に行き、料理を作り、洗濯物を畳み、掃除をする。


 その背中には、以前のような「世田谷のキラキラした年下の彼氏」という浮ついた雰囲気はない。

 Tシャツにスウェットパンツというラフな格好だが、そこには生活を支えるパートナーとしての、地に足の着いた実存感があった。


 彼がフーフーと息を吹きかけ、おかゆをスプーンで掬って私の口元に運んでくれる。


「はい、あーん」


 恥ずかしいけれど、拒む気力もない。

 口を開け、温かい流動食を飲み込む。

 出汁の優しい味が、空っぽの胃に染み渡る。


『……過保護ねえ』


 枕元に、明菜が胡座をかいて座っていた。

 彼女は徹さんが私に食べさせる様子を、頬杖をついて眺めている。


『ここまでしてもらわなくても、体はもう元気いっぱいくらい回復してるのにねー』


 本当に、その通りだ。

 私はもう歩けるし、自分で食べることもできる。

 でも、徹さんがそれを許さないのだ。


 まるで、少しでも目を離したら私が消えてしまうと恐れているかのように。


 明菜はスッと手を伸ばし、お盆の上の小鉢から勝手におかゆをひとさじ掬って口に入れた。


『ま、いっか。十年もあの昭和ザウルスの飯炊き女やってたんだから、たまにはこれくらいの役得あってもバチは当たらないわよ』


 明菜はモグモグと口を動かし、少しだけ眉をひそめた。


『……なんかこのおかゆ、しょっぱいわね』


 しょっぱい?

 私はもう一口食べた。

 確かに、ほんの少しだけ塩味が強い気がする。

 でも、それは塩のせいではないような気がした。


 徹さんの顔を見る。

 彼は優しく微笑んでいるけれど、目の下が黒く窪んでいる。


 私が寝ている間、彼は泣いていたのかもしれない。

 後悔と、自責の念で。


 その涙の味が、このおかゆに溶け込んでいるのかもしれない。


 胸が締め付けられる。


 私のせいで。

 私が彼を巻き込んだせいで、彼はこんなにも傷つき、やつれてしまった。


 申し訳なさで、胃の中のものが逆流しそうになる。


 もう、離れた方がいいんじゃないか。

 これ以上、彼を私の泥沼に引きずり込んではいけないんじゃないか。





 翌日の月曜日。


 徹さんは会社に行かなかった。

 朝、スーツに着替えることもなく、リビングでコーヒーを飲んでいる。


 私の看病のために休んでいるのだろうか。


 私はベッドから起き出し、リビングへと向かった。


「徹さん」


 彼はハッとして振り返り、慌てて駆け寄ってきた。


「起きて大丈夫なんですか? 何か欲しいものは……」


「ううん、大丈夫。……それより」


 私は彼の服装に視線を落とした。


「会社は? 今日、月曜だけど」


 徹さんは一瞬、視線を泳がせた。

 そして、覚悟を決めたように私を真っ直ぐに見つめ返した。


「……辞めてきました」


 時が止まった。


「えっ?」


「先週のうちに辞表を出して……今日、正式に受理されました」


 彼は淡々と告げる。

 まるで、コンビニに行ってきたと言うような軽さで。


「辞めたって……あの話しは本当だったの?」


 私は彼に詰め寄った。


「だって、徹さんは社長の親戚でしょ? 将来の幹部候補なんでしょ?それを辞めるって……」


 縁故採用。

 政略結婚前提の入社。


 それを蹴るということは、会社だけでなく、親族全体を敵に回すということだ。

 実家からも勘当されるかもしれない。

 積み上げてきたキャリアも、約束された未来も、すべてドブに捨てることになる。


「いいんです」


 徹さんは静かに首を振った。


「あんな会社、未練はありません。絵里とのことも……親族には全部話しました。倒されましたよ。『恩知らず』『恥さらし』って。でも、清々しました。やっと、自分の足で立てた気がします」


 彼は笑っている。

 でも、それは痛々しい強がりに見えた。


 私のせいだ。

 私が現れなければ、彼は順風満帆なエリート街道を歩んでいたはずなのに。


 若くて可愛いお嬢様と結婚して、幸せな家庭を築いていたはずなのに。


 私が、全部壊した。


 涙が溢れてくる。

 止まらない。


「どうして……!」


 私は彼を突き飛ばした。

 弱い力だけど、拒絶の意志を込めて。


「もったいない! バカじゃないの!?」


「洋子さん……」


「私なんかといても、何もいいことないのに!私はバツイチで、無職で、三十過ぎてて……子供も……産めなかった……」


 最後の言葉が、嗚咽に変わる。


「ただのお荷物! 汚れた女!お願いだから、私を捨てて!元の輝かしい場所に戻ってよ!」


 彼のためを思うなら、私が身を引くべきなのだ。


 彼には未来がある。

 やり直せる時間がある。


 私という泥舟から降ろさなければならない。


 私は床に崩れ落ち、顔を覆って泣きじゃくった。


 ドンッ。


 強い力で、肩を掴まれた。

 顔を上げさせられる。


 目の前に、徹さんの顔があった。

 怒っているような、泣き出しそうな、真剣な顔。


「戻れません」


 強い声。


「戻りたくもない」


 彼の指が、私の肩に食い込む。


「守れなかった……」


 彼の声が震え始めた。


「赤ちゃんも。……洋子さんも」


 大粒の涙が、彼の頬を伝って落ちる。


「俺が優柔不断だったから。絵里のことを甘く見ていたから。会社での立場とか、世間体とか……そんなくだらない保身に走って、君を一人にしたから」


 あの日。

 会社に絵里が乗り込んできたあの日。


 彼が私ではなく絵里を選んで連れて行ったこと。


 彼はそれを、悔やんでも悔やみきれないほど責め続けていたのだ。


「あの子を殺したのは……俺の弱さです」


 彼は泣き崩れた。

 私の膝に縋り付き、子供のように声を上げて泣いた。


 優しかった少年は、もういない。

 ここにいるのは、取り返しのつかない罪を背負い、血を流している一人の男だ。


 私は震える手で、彼の頭を抱きしめた。


 髪の感触。

 体温。


 愛おしい。

 どうしようもなく、愛おしい。


 しばらくして、彼は顔を上げた。


 涙で濡れた瞳には、今まで見たことのない、揺るぎない光が宿っていた。


「だから……これからの人生全部を使って、償わせてください」


 彼は私の手を取り、強く握りしめた。


「地位も、名誉も、お金もいりません。ただ、洋子さんが隣で笑ってくれる未来だけが欲しいんです。一生かけて、あなたを守ります。もう二度と、一人にはさせないから」


 それはプロポーズだった。


 指輪も花束もない。

 あるのは、喪失と罪悪感と、瓦礫の山だけ。


 けれど、どんな甘い言葉よりも重く、私の魂に響く誓いだった。


「……いいの?」


 私は問いかけた。


「私で、いいの?地獄を見るかもしれないよ?」


「望むところです」


 彼は私の涙を親指で拭った。


「あなたと一緒なら、地獄だって構わない」


 彼は私を強く抱きしめた。


 情欲ではない。

 互いの欠けた部分を埋め合わせるような、深い慈愛の抱擁。


 二つの傷口を重ね合わせて、一つにするような。


 私も彼の背中に腕を回し、力を込めた。


 もう、離さない。

 誰に何を言われても、この手だけは離さない。


 私たちは静かな部屋の中で、いつまでも抱き合っていた。

 窓の外では、夏の終わりの風が吹いていた。




 涙が乾いた頃、部屋の空気は変わっていた。

 澱んでいた空気が晴れ、冷たく澄んだ覚悟が満ちていた。


 徹さんが、私の目を見て言った。


「……逃げるのは、もうやめましょう」


 私は頷いた。


 離婚届を置いて逃げ出したまま、音信不通になっている。

 このままでは、ただの逃亡者だ。


 新しい人生を始めるためには、過去を清算しなければならない。


「ご主人に会いに行きましょう」


 徹さんは、真っ直ぐ前を見据えた。


「俺が、頭を下げに行きます。殴られても、罵られても構わない。あなたの自由を勝ち取るために、俺ができることは全部やります」


 剛に会う。

 想像するだけで、胃が縮み上がるような恐怖がある。


 あの男は、きっと鬼のような形相で待ち構えているだろう。

 何をされるかわからない


 でも、一人じゃない

 徹さんがいる。


 私は彼の手を握り返した。

 温かい。そして、力強い。


「……わかった」


 私は深呼吸をした。


「私も、ちゃんと終わらせる。……行こう」


 窓辺で、明菜が爪を研ぐ仕草をしていた。

 彼女は振り返り、私たちを見比べる。


『……ふん。何もかも失って、残ったのは傷だらけの二人だけ。でも、だからこそ「本物」になったってわけね』


 彼女は窓の外、剛のいる団地の方角を指差した。


『さあ、最後のボス戦よ。装備は「愛」と「誠意」だけ。防御力ゼロの特攻作戦。……勝てるかしらね』


 勝つんじゃない。

 終わらせるの。


 私は、立ち上がった。

 足元のふらつきは、もうなかった。





【明菜先生の研究メモ】


被験者データ No.001

氏名:佐々木 洋子(30)

職業:無職 / 覚悟を決めた女


■ 現在のステータス

・パートナー:高橋 徹(元エリート・現無職)

・結合度:測定不能(共依存から運命共同体へ進化)

・目標:離婚成立と、過去との決別


■ 明菜の分析ログ

 男っていうのはね、何かを守ろうとする時に初めて「男」になるのよ。

 徹は今まで、与えられたレールの上を走るだけの優等生だった。

 でも、レールを自ら破壊して、瓦礫の上を歩き出した。

 失った赤ちゃんの命が、彼に「責任」という名の背骨を通したのね。


 さあ、いよいよ大詰め。

 相手は昭和の価値観を煮詰めたような夫・剛。

 理屈も誠意も通じないモンスター相手に、二人はどう立ち向かうのかしら?


 ハンカチの用意はいい?

 泥沼の底で、愛を叫ぶ準備はできた?



※作中の医学・心理学描写について

本作に登場する心理学用語や医学的な説明は、作者なりに調べて執筆しておりますが、あくまで「明菜先生の独自解釈」や「物語上の演出」が含まれます。

厳密な学術書ではなく、エンターテインメントとして楽しんでいただければ幸いです!


この作品が面白い!と思っていただけたのなら

是非ぜひブクマと評価のほうよろしくお願いします。

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