第三十一記録【茨の花道】
八月二十日、火曜日。
午後3時のオフィスは、墓場のように静まり返っていた。 私は自分のデスクに向かい、私物を段ボール箱に詰めていた。
マグカップ、ひざ掛け、予備のストッキング。
十一年間、私がこの会社で積み上げてきた時間は、これっぽっちの荷物に収まってしまう。
フロアには二十人近い社員がいるはずなのに、誰一人として私を見ようとしない。
キーボードを叩く音と、完全なる無視。
視界に入れているのに、そこに誰もいないかのように振る舞う「音のない暴力」。
退職願は、さっき総務に出した。
受理されたというか、ひったくられるように受け取られた。
自主退職という形だが、実質的なクビだ。
荷物を詰め終わり、私は立ち上がった。 箱を抱える腕に、ずしりと重みがかかる。
「……お世話になりました」
虚空に向かって頭を下げる。 返事はない。
私が歩き出すと、背後でヒソヒソと毒気が漏れ出した。
「……信じられない。よく顔出せたわよね」
堀さんの声だ。 あんなに親しげに話しかけてきていたのに、今は汚物を見るような目つきだ。
「若い男と不倫して、会社に泥塗って……。ほんと、恥知らず」
お局様の安藤さんが、わざと聞こえるように吐き捨てる。
「あーあ。真面目ぶってたのにね。女って怖いわー」
嘲笑、軽蔑、侮蔑。 言葉の礫が、私の背中に突き刺さる。
でも、私は振り返らなかった。 反論する権利など、今の私にはない。
フロアの出口付近で、部長が腕組みをして立っていた。 あの、エミちゃんと不倫をして奥さんバレした部長だ。
「制服はクリーニングして郵送でいいから」
彼は私と目を合わせず、床を見つめたまま。
「二度と、この会社の敷居を跨ぐな」
吐き気、がした。 自分も同じ穴の狢のくせに。 保身のために私を切り捨て、正義の味方ぶるその態度が。
私は無言で一礼し、エレベーターホールへと出た。 銀色の扉が閉まる瞬間、フロアの光景が細くなって消えていく。
私の十一年間が、終わった。
『……傑作ね』
抱えている段ボール箱の上に、明菜がちょこんと座っていた。 彼女は足を組み、呆れたように天井を仰ぐ。
『勤続十一年の対価がこれ? ま、自業自得だけど。あーあ、惨めな花道ねえ』
彼女はニヤリと笑い、続ける。
『あの脂ぎった部長も不倫してたくせに、何が「二度と来るな」よね。自分は棚に上げて他人を裁く。人間社会の縮図を見せてもらったわ』
私はエレベーターの鏡に映る自分を見た。 顔色が悪い。 目の下に隈ができている。
これが、愛に生きた女の成れの果てか。
一階に着き、エントランスを出る。
真夏の太陽が、容赦なく私を照りつけた。
眩しい。
世界はこんなにも明るいのに、私の視界だけが灰色に染まっていた。
夕暮れ時。 私は駅へと続く長い歩道橋の下に立っていた。
タクシーを拾おうかとも思ったが、これからの生活を考えると無駄遣いはできない。
夫に「全財産いらない」と啖呵を切って家を出たのだ。 手持ちの金は少ない。
重い段ボール箱を抱え直す。
汗が噴き出し、ブラウスが肌に張り付く。
階段を見上げる。
たかだか三十段ほどの階段が、今の私には天へと続く壁のように見えた。
お腹。
まだ膨らんでもいないけれど、そこに命がある。
無理をしてはいけない。
一歩、また一歩。
私は手すりを頼りに、慎重に階段を上り始めた。
西日がきつい。
オレンジ色の光が、視界を焼き尽くす。
ようやく踊り場までたどり着いた時だった。
そこに、人影があった。
逆光で顔が見えない。
でも、そのシルエットには見覚えがあった。
そして何より、燃えるような夕焼けの中でも鮮烈に主張する、赤いワンピース。
絵里だ。
彼女は手すりにもたれかかり、私を待ち伏せていた。
ドキリと心臓が跳ねる。
逃げなきゃ。
本能がそう告げるが、足が竦んで動かない。
絵里がゆっくりと顔を上げた。
息を飲んだ。
昨日のような、派手な化粧はどこにもなかった。
すっぴん。
髪はボサボサで、目は落ち窪み、唇はカサカサに乾いている。
まるで、数十年分の生気を吸い取られた老婆のような、虚ろな目。
拳だけが白くなるほど強く握りしめられている。
「……逃げるの?」
掠れた、乾いた声だった。
「絵里ちゃん……」
「会社、辞めたんでしょ。……どこ行くの? 徹のところ?」
彼女が一歩、私に近づく。
私は反射的に段ボール箱を盾にするように抱え直し、後ずさった。
「……アンタのせいよ」
絵里の瞳に、暗い炎が宿り始める。
「私のパパに言いつけて、徹をクビにさせるつもりだったのに。……徹ったら、自分から辞表出したんだって」
え?
私は目を見開いた。 徹さんが、辞表?
昨日の夜、そんなことは一言も聞いていない。
「私のために築き上げたキャリアも、将来の役員の座も、全部捨てて。……アンタみたいなオバサンのために!」
絵里の声が、次第に悲鳴のような金切り声に変わっていく。
「どうしてよ! 私が何をしたって言うの! ずっと尽くしてきたのに! 高校も大学も、全部彼に合わせたのに! なんで、ポッと出の不倫女に全部奪われなきゃいけないのよ!」
彼女の絶望が、怒りが、殺意となって私に向けられる。
私は、彼女の人生を壊した。
その事実が、重い石となってのしかかる。
「返してよ……」
絵里がゆらりと揺れた。
「私の人生、返してよ!!」
絶叫。
そして、彼女は弾かれたように私に向かって突進してきた。
殺意のタックル。
「あ……」
避ける間もなかった。
ドンッ!!
強い衝撃が、私の体を突き飛ばす。
世界が反転した。
スローモーションのように、体が宙に浮く。
夕焼けの赤。
絵里の歪んだ顔。
手から離れていく段ボール箱。
散らばるマグカップや書類。
『あ』
箱の上に座っていた明菜が、短く声を上げるのが見えた。
落ちる。
とっさに、私はお腹を守ろうと手を伸ばした。
守らなきゃ。
この子だけは。
でも、重力は無慈悲だった。
ガタンッ!
背中がコンクリートの角に打ち付けられる。
息が止まるほどの激痛。
ゴッ! ガンッ!
回転しながら、何度も、何度も、硬い階段に体を強打する。
天と地がめちゃくちゃに混ざり合う。
骨が軋む音。肉が潰れる音。
そして、最後の一撃。
ドサッ。
硬くて熱いコンクリートに、私は叩きつけられた。
……痛い。
全身が砕けたように痛い。
でも、それ以上の違和感が、下半身を襲った。
ドクン。
股の間から、何かが切れたように、温かいものが流れ出す感覚。
生暖かい液体が、太ももを伝って広がっていく。
嘘。
嘘でしょ。
薄れゆく意識の中で、私は階段の上を見上げた。
絵里が、手すりを掴んで震えている。
「わ、私……知らない……」
彼女は後ずさりし、そのまま逃げるように走り去った。
遠くでサイレンの音が聞こえる。 誰かの叫び声。
「おい! 大丈夫か!」
野次馬の視線。
視界が、夕焼けよりも赤い色に染まっていく。
寒い。
あんなに暑かったのに、急速に世界が冷えていく。
お腹の温かさが、どんどん逃げていく。
待って。 行かないで。
私の、赤ちゃん。
意識が、深い闇へと落ちていった。
***
白い天井。
ツンとする消毒液の匂い。
機械的な電子音。
私は重い瞼を開けた。
ぼんやりとした視界の中に、誰かの顔が映る。
「……洋子さん!」
徹さんだ。
彼はベッドの脇のパイプ椅子に座り、私の手を両手で握りしめていた。
その目は、泣き腫らして真っ赤になっている。
「よかった。目が覚めて、本当によかった……」
彼は私の手に顔を埋め、声を押し殺して泣いた。
その涙の熱さが、ここが現実であることを教えてくれる。
体中が痛い。
特に、下腹部が。
記憶がフラッシュバックする。
階段、絵里、転落。
そして、流れ出した温かいもの。
「絵里ちゃんは?」
酸素マスクの中で、私の声は掠れていた。
「……警察が連れて行きました」
徹さんは顔を上げないまま答えた。
「目撃者がいました。傷害容疑で、逮捕されます。……もう、二度と君を傷つけさせない」
逮捕。
あの子の人生は、本当に終わってしまったんだ。
私が、終わらせたんだ。
そして、一番聞かなければならないこと。
聞くのが怖いこと。
「……赤ちゃんは?」
徹さんの肩が、ビクリと跳ねた。
彼は言葉を詰まらせ、さらに強く、痛いほどに私の手を握りしめた。
その反応だけで、すべてを悟った。
……いない。
もう、いないんだ。
私のお腹の中にいた、小さな命。
徹さんと私の、罪の結晶。
たった数日だけの、私の希望。
流れてしまった。
あの赤い夕焼けと一緒に。
泣き叫ぶ気力もなかった。
涙も出なかった。
ただ、心のど真ん中に、巨大な風穴が空いたような虚無感だけがある。
私は天井のシミを見つめた。
ああ、そうか。
冷たい納得が、胸に広がる。
これが、罰なんだ。
他人から奪い、夫を裏切り、家庭を壊し、多くの人を傷つけた代償。
「因果応報」なんて言葉じゃ生ぬるい。
神様は、私が一番大切にしようとしたものを、一番残酷な形で奪い取ったのだ。
命で、贖わされたのだ。
『……プラスマイナス、ゼロね』
ベッドの柵に、明菜が座っていた。
いつもの派手なボディコンではない。
黒い、喪服のようなシンプルなワンピースを着ている。
ジュリ扇も持っていない。
彼女は悲しげに、でもどこか冷徹に、私を見下ろしていた。
『アンタが奪った絵里の未来と、アンタが得ようとした新しい命。神様って、本当に帳尻合わせがお好きだわ』
彼女の姿が、涙で滲んで見えなくなった。
私は徹さんの手を握り返した。
彼の手の温もりだけが、私をこの世に繋ぎ止めていた。
空っぽの子宮が、ズキズキと痛む。
それは、私が背負っていく十字架の痛みだった。
【明菜先生の研究メモ】 被験者データ No.001 氏名: 佐々木 洋子(30) 職業: 無職 / 患者
■ 現在のステータス
・身体状況: 流産(全治一ヶ月の打撲と心の傷)
・喪失物: 胎児、職、社会的信用
・獲得物: 贖罪の意識
■ 明菜の分析ログ
「対象喪失」。 愛する対象を失った時の悲嘆反応を、医学的にはこう呼ぶわ。
特に流産による喪失感は、ホルモンバランスの急激な変化(エストロゲンとプロゲステロンの低下)も相まって、深刻な鬱状態を引き起こす。
「自分のせいだ」という自責の念が、脳の扁桃体を過剰に刺激し続けるのよ。
でもね、洋子。 皮肉なことに、この「喪失」が、優柔不断だった徹を「男」に変えたみたいね。
守れなかった命。 その重さが、彼に覚悟を決めさせた。
「好きだから一緒にいる」という浮ついた恋人ごっこはもう終わり。
これからは、「罪を背負って共に生きる」という、重苦しい契約の始まりよ。
地獄の底で、愛は育つのかしらね?
※作中の医学・心理学描写について
本作に登場する心理学用語や医学的な説明は、作者なりに調べて執筆しておりますが、あくまで「明菜先生の独自解釈」や「物語上の演出」が含まれます。
厳密な学術書ではなく、エンターテインメントとして楽しんでいただければ幸いです!
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