第三十記録【陽性の試験管と、緑の紙切れ】
胃の奥が裏返るような感覚。
私は便器に顔を突っ込み、激しくえずいていた。
「オエッ……! ゲホッ、カハッ……!」
何も出てこない。食べ物も喉を通らなかったから、胃の中は空っぽだ。
ただ、酸っぱい胃液と、黄色い胆汁だけが喉を焼きながら逆流してくる。
涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになる。
苦しい。息ができない。
背後で、ドアが激しく叩かれた。
ガン! ガン! ガン!
薄いベニヤ板一枚隔てた向こうで、剛が怒鳴っている。
「おい! 逃げるな! しんどいフリしてんじゃねえぞ!」
その言葉が、私の背中に氷の礫となって降り注ぐ。
「都合が悪くなるとすぐこれだ。被害者ぶるな! お前が悪いんだろうが!」
しんどいフリ?
私が演技をしていると言うの?
この期に及んで、この男は私の体調すら心配しない。
自分の説教が中断されたことへの苛立ちしか感じていないのだ。
私は震える手で水を流し、トイレットペーパーで口元を拭った。
違う。
これはストレスじゃない。
ただの体調不良でもない。
私は下腹部に手を当てた。
生理が来ていない。
そして、この異常なまでの吐き気。
女の直感が、サイレンのように脳内で警鐘を鳴らしている。
いる。
この腹の中に、何かがいる。
地獄のようなこの家に、夫との関係が完全に壊れたこのタイミングで、新しい命が芽生えてしまった。
神様の悪戯にしては、あまりにも残酷すぎる。
でも。
不思議と涙は止まっていた。
絶望の底に、小さな、しかし硬い「覚悟」の石コロが転がっているのを感じた。
もう、終わりにしよう。
こんな男と一緒にいたら、私も、この子も、殺される。
私はフラフラと立ち上がった。
足元はおぼつかないが、瞳には冷たい光が宿っていた。
ガチャリ。
トイレのドアを開ける。
目の前に、鬼の形相をした剛が立っていた。
「やっと出てきやがったか。まだ話は終わって……」
私は彼を無視した。
視界に入れる価値もない。
剛の横をすり抜け、幽霊のように廊下を歩く。
「おい! どこ行くんだ!」
剛の怒声が背中に刺さるが、痛くも痒くもない。
私は寝室に入り、桐のタンスの引き出しを開けた。
防虫剤のナフタリンの匂いが鼻をつく。
一番下の段。
私が嫁入り道具として持ってきた、着物のたとう紙。
その間に挟んで隠していた、茶色い封筒を取り出した。
数年前。
剛が朝帰りを繰り返し、パチンコで借金を作った時。
もうダメかもしれないと思って、役所でもらっておいたものだ。
結局、あの時は世間体を気にして出せなかった。
ただのお守りとして、ずっとここに眠らせていた。
封筒から紙を取り出す。
緑色の枠線。
紙の端は、経年劣化で少し黄ばんでいる。
離婚届。
私の署名と捺印は、もう何年も前に済ませてある。
あとは、夫の欄を埋めるだけ。
私はその紙切れを握りしめ、リビングへと戻った。
剛はダイニングテーブルの前で、仁王立ちしていた。
散らばった浮気写真と、あのマッチ箱が、無惨な戦場跡のように残っている。
「なんだそれは」
私の手にある紙を見て、剛が眉をひそめる。
私は無言で近づき、テーブルの上にそれを叩きつけた。
バンッ!
乾いた音が響く。
紙がひらりと舞い、剛の目の前に落ちた。
一番上の太字。
【離婚届】。
「……書いて」
私の声は、低く、静かだった。
「今すぐ」
剛が紙を凝視する。
文字の意味を理解するのに、数秒。
そして、顔色が赤から紫へ、どす黒く変化していく。
「あ、あ、あああっ!!」
言葉にならない絶叫。
彼は離婚届を掴み上げ、クシャクシャに握りつぶそうとした。
「ふざけるな!!」
剛がテーブルを蹴り上げた。
ガシャーン!
灰皿が落ちて割れ、写真が床に散乱する。
「お前は俺の女だ! 俺の許可なく別れられると思うなよ!」
彼は私に詰め寄り、肩を激しく揺さぶった。
愛しているから別れたくないのではない。
所有物が勝手に逃げ出すことが許せないのだ。
亭主関白という名の、ただの支配欲。
魔王気取りの、哀れな独裁者。
「調子に乗るなよ! 不倫した分際で!」
剛の目から、理性の光が消えていた。
「慰謝料だ! お前からも、あの男からも、むしり取ってやる! 会社にも居られなくしてやる! 路頭に迷わせてやるからな!」
金。世間体。報復。
この期に及んでも、彼の口から出るのはそんな言葉ばかり。
私の心なんて、一度も見ていなかった。
私は彼の手を振り払った。
そして、氷のように冷ややかな目で見下ろした。
「お金?」
私は鼻で笑った。
「お金で解決できるなら、いくらだって払ってやるわ!」
剛が虚を突かれたように口を開ける。
「全財産? どうぞ持って行って。慰謝料? いくらでも請求すればいい」
私は一歩踏み出し、剛を睨みつけた。
「アンタと一緒に暮らすくらいなら、一文無しになって野垂れ死ぬ方がマシ!私の自由を買えるなら、そんなもの安いもんよ!!」
剛が怯んだ。
「金」や「生活」を人質に取れば、私が屈服すると思っていたのだろう。
でも、今の私は、そんな首輪で繋ぎ止められる飼い犬ではない。
鎖を引きちぎった、野良犬だ。
私は呆気にとられる剛を置き去りにし、玄関へ向かった。
財布とポーチが入ったバッグだけを掴む。
それ以外は何もいらない。
この家にある思い出も、荷物も、すべてゴミだ。
「おい! 待て!」
背後で剛の怒鳴り声がしたが、私は振り返らずにドアを叩きつけた。
バァン!!
鉄の扉が閉まる重たい音が、私の結婚生活の終了を告げる号砲のように響いた。
夜九時前。
駅前の商店街にある、古びた薬局。
シャッターが半分降りかけた店内に、私は滑り込んだ。
「すみません!」
カウンターの奥で、白衣を着た初老の女性薬剤師が、怪訝な顔で顔を上げた。
汗だくで、化粧も崩れた私の形相に、一瞬身構える。
「……はい? もう閉店ですが」
「あ、あの……妊娠検査薬をください」
息を切らしながら頼む。
薬剤師の目が、私の左手の薬指の指輪と、乱れた服装を行き来した。
何かを察したような、軽蔑を含んだ視線。
「……あっちの棚です」
彼女は無愛想に顎で示した。
私は「ありがとうございます」と頭を下げ、箱を掴んでレジへ走った。
店を出ると、私は近くの公園へと向かった。
家には戻れない。
でも、確かめずにはいられない。
公園の公衆トイレ。
裸電球が一つぶら下がっているだけの、薄暗く、アンモニア臭の漂う個室。
私は鍵をかけ、震える手で箱を開けた。
中に入っていたのは小さなプラスチックの試験管、スポイト、そして試薬の入った小瓶。
まるで理科の実験セットだ。
説明書を読む。
『尿を採取し、スポイトで試験管に入れ、試薬を滴下する。静置して、底に茶褐色のリングができれば陽性』
私は手順通りに操作を行った。
手が震れて、試薬をこぼしそうになる。
試験管の中で、液体が混ざり合う。
静置。
判定が出るまでの数分間が、永遠のように長く感じられた。
外ではコオロギが鳴いている。
遠くで電車の音がする。
自分の心臓の音だけが、耳元でガンガンと鳴り響いている。
頼む。
陰性であってくれ。
ただのストレスによる生理不順であってくれ。
時間が来た。
私は恐る恐る、試験管を持ち上げて光にかざした。
液体の底。
そこに、くっきりと浮かび上がっていた。
茶褐色の、綺麗なリング(輪)。
陽性。
間違いない。
私の体の中に、新しい命がいる。
へなへなとその場に座り込んだ。
喜びではない。
絶望でもない。
ただ、巨大な運命の歯車が、ゴクリと回ったような音が聞こえた気がした。
『……おめでとう』
個室の上から、声がした。
見上げると、明菜がトイレの仕切りの上に頬杖をついて、私を見下ろしていた。
その顔には、意地悪そうな、でもどこか楽しげな笑みが張り付いている。
『地獄への片道切符、当選ね』
彼女は試験管の中のリングを指差した。
『夫とはレス。つまり、その子の父親は一人しかいない。夫の子じゃない、不倫相手の子。……これ以上ない修羅場の種が育っちゃったわねえ』
修羅場の種。
まさにその通りだ。
この子は、祝福されて生まれてくる命じゃない。
私の罪の証。
泥沼の中に咲いた、徒花。
でも。
私は試験管を握りしめ、立ち上がった。
不思議と、迷いは消えていた。
夫との縁は切った。
私にはもう、進む道は一つしかない。
私はタクシーを飛ばし、世田谷のマンションへと向かった。
インターホンを鳴らすと、すぐにドアが開いた。
「洋子さん!」
徹さんが飛び出してきた。
部屋着のスウェット姿。髪はボサボサで、今まで起きて待っていてくれたのがわかる。
「心配したんですよ! 会社飛び出して、連絡もないし……」
彼は私の姿を見ると、安堵したように息を吐き、強く抱きしめた。
「よかった……無事でよかった」
彼の温もり。匂い。
ああ、ここは暖かい。
団地のあの冷たい空気とは違う。
私は彼に身を委ね、部屋の中へと招き入れられた。
リビングのソファに座らされ、温かいハーブティーが出される。
一口飲むと、張り詰めていた糸が切れそうになる。
でも、まだ切ってはいけない。
伝えなければならないことがある。
「……徹さん」
私はカップを置き、彼を見上げた。
「はい、なんですか洋子さん」
彼は私の前に膝をつき、私の手を握った。
優しい瞳。
私だけを愛していると言ってくれた瞳。
「夫に……離婚届を突きつけてきた」
「えっ……」
徹さんの目が丸くなる。
「家も出た。もう、あそこには戻らない」
「そ、そうですか……。大変だったね。でも、これで……」
彼は何かを言いかけたが、私が言葉を遮った。
「それと……もう一つ」
私は自分のバッグを強く握りしめた。
中には、あの試験管が入っている。
それを見せるわけにはいかない。
でも、事実は伝えなければならない。
私は自分のお腹に手を当てた。
まだ平らな、私のお腹。
「……妊娠したの」
徹さんの動きが止まった。
時が凍りつく。
「え……?」
「あなたの子よ。……妊娠しました」
私は彼の目を見て、はっきりと告げた。
徹さんの表情が、ゆっくりと固まっていく。
驚愕。
それは、愛する人との間に子ができた「歓喜」なのか。
それとも、政略結婚を迫られ、社内での立場も危ういこの状況で、あまりにも重すぎる責任を負わされた「恐怖」なのか。
彼の瞳の奥が揺れる。
その答えが出る前に、私の意識は暗転しそうだった。
賽は投げられた。
もう、誰も引き返せない。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.001
氏名:佐々木 洋子(30)
職業:無職(家出中)/妊婦
■ 現在のステータス
・所持金:財布の中身のみ
・所持品:陽性の検査薬、離婚届(未提出)
・同居人:なし(愛人宅へ転がり込み)
■ 明菜の分析ログ
おめでとう、洋子。
これでアンタは、立派な「傾国の美女」ならぬ「傾社の悪女」ね。
夫を捨て、家を捨て、お腹に不倫相手の子を宿して、男の家に転がり込む。
昭和の昼メロでも、ここまでコテコテな展開はなかなかないわよ。
剛のあの発狂ぶり。
所有物を奪われた子供みたいで傑作だったわ。
でも、本当の恐怖はこれから。
徹のあの顔、見た?
あれは「喜び」だけじゃないわね。
「責任」という名の重石が、彼の首に巻きついた瞬間よ。
さあ、地獄へようこそ。
新しい命は、希望の光になるのか、それとも二人を縛り付ける鎖になるのか。
……答えは、神のみぞ知る、ってね。
※作中の医学・心理学描写について
本作に登場する心理学用語や医学的な説明は、作者なりに調べて執筆しておりますが、あくまで「明菜先生の独自解釈」や「物語上の演出」が含まれます。
厳密な学術書ではなく、エンターテインメントとして楽しんでいただければ幸いです!
この作品が面白い!と思っていただけたのなら
是非ぜひブクマと評価のほうよろしくお願いします。




