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夫に疲れ果てた昭和60年の私。脳内のボディコン美女に唆されて、年下上司と一線を超えました  作者: ベルガ・モルザ


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第二十六記録【二匹の狐とソバージュの鬼】


 川遊びから帰宅した、夜。

 世田谷のマンションの寝室は、心地よい疲労感と、シャワー上がりの湿った石鹸の香りに満たされていた。


 ベッドの端に座っている徹さんの膝の上に、私は向かい合わせに乗せられている。

 いわゆる、あぐら抱っこ。


 大人の男女がするには少々恥ずかしい体勢だけれど、今の私たちには、この密着度こそが必要だった。


 濡れた髪から滴る水滴が、彼の鎖骨を伝っていく。

 私は彼の方に腕を回し、首筋に鼻を埋めた。


 太陽の残り香と、彼の体臭。

 深く吸い込むと、脳髄が痺れるような甘い感覚に襲われる。


 耳たぶを甘噛みし、私はとろけるような声で囁いた。


「……ねえ。あの子とは、どうなったの? ハッキリ言った?」


 あの子。絵里のことだ。

 蒸し返すのは野暮だとわかっているけれど、これだけは確認しておきたかった。

 私の不安を、彼の言葉で溶かしてほしかった。


 徹さんの腕が、私の腰を強く引き寄せる。

 彼は私の耳元に唇を寄せ、低く、色気を含んだ声で答えた。


「もちろん。……俺は今、悪い悪魔に心を奪われてしまったから、君とは完全に断ち切りたいってね」


 ブッ、と吹き出しそうになる。


「嘘ばっかり。絶対そんなキザな言い方してなーい」


 ペチペチと彼の胸を叩く。

 徹さんはクスクスと笑いながら、私の唇を塞いだ。


 チュッ、という軽い音。


「言ったよー。まあ、少し話は盛ったけど。でも、言った。ちゃんと」


 彼は笑みを収め、下から突き上げるような真剣な眼差しで私を見つめた。

 その瞳の奥には、私を射抜くような強い光が宿っている。


「だからもう、安心して。俺には洋子さんだけだから」


 洋子さんだけ。

 その言葉が、私の心臓を鷲掴みにする。


 信じたい。

 この瞳に嘘はないと、信じたい。


 彼の熱い掌が、私の背中を這い上がる。

 膝の上でバランスを崩し、そのままゆっくりとベッドへ押し倒される。


 視界が反転し、彼が私を覆う。


 重み。

 熱。


 幸せだ。


 夫のいない夏休み。

 私はもう、誰にも遠慮することなく、この幸せに溺れていいのだ。


 二日後。八月十二日。

 世田谷の夜空には、今にも泣き出しそうな湿った月が浮かんでいた。


 徹さんの寝室で、私は鏡と格闘していた。


 身につけているのは、紺地に白い朝顔が描かれた浴衣。

 昨日、徹さんが「一緒に着よう」と言ってプレゼントしてくれたものだ。


 久しぶりの和装。

 最後に着たのはいつだろう。

 剛と結婚する前、独身最後の夏だったかもしれない。


 あれから十年。

 帯の結び方なんて、すっかり忘れてしまっていた。


 黄色い半幅帯を手に、あっちへ回し、こっちへ通し……。

 気がつけば、帯はぐちゃぐちゃに絡まり、私は汗だくになっていた。


「もう……! どうやるんだっけ……」


 泣きそうになりながら、鏡の中の自分を睨む。

 せっかく彼が買ってくれたのに。

 可愛く着こなしたいのに。


『……ぶきっちょねえ』


 天井の方から、呆れた声が降ってきた。

 見上げると、明菜がふわふわと宙に浮いている。


 紫のボディコン姿で、無重力空間にいるように優雅に回転しながら降りてきた。


『しょうがないわねー。貸してごらんなさい』


 彼女は私の背後に回り込むと、手取り足取りレクチャーを始めた。


『そこは二回巻くの。手先を肩にかけて、たれを巻く。……そう。で、ここでひと結び。ギュッと締めなさい』


 明菜の指示通りに動かすと、魔法のように綺麗な文庫結びが出来上がった。

 立体的で、崩れない、完璧な形。


 私は鏡の前でくるりと回ってみた。

 紺色の生地が肌を白く見せ、黄色い帯がアクセントになって、三十路の私でも少しは若々しく見える気がする。


「ありがとう、明菜。助かった」


『どういたしまして』


 明菜はふわりとベッドの上に着地した。


「この三日間、全然現れてくれなかったけど……明菜もお盆休みだったの?」


 私は髪をアップにしながら、鏡越しに話しかけた。

 声が弾んでいるのが自分でもわかる。

 完全にノロケが入っている。


 明菜はつまらなそうに爪を見つめ、フンと鼻を鳴らした。


『アンタが幸せすぎて面白くないのよ。ネタがないドラマなんて見る価値ないし』


 彼女は意地悪く口角を上げる。


『不幸と修羅場がないと、アタシの出番はないの。……ま、せいぜい今のうちに浮かれておくことね』


「ふふん。幸せで悪かったわねーだ」


 私は笑い飛ばし、最後の仕上げに口紅を引いた。

 鮮やかな赤。


 今夜は、和風の「イイ女」を演じるのだ。


 寝室のドアを開け、リビングへ出る。

 そこには、甚平姿の徹さんが待っていた。


 紺色の甚平が、彼の色白の肌によく似合っている。

 少年のような幼さと、男性の色気が同居した、今の彼にしか出せない雰囲気。


 私が姿を見せると、彼はハッとして立ち上がった。

 その目が大きく見開かれ、頬がポッと朱に染まる。


「……洋子さん」


 彼はため息交じりに呟いた。


「……綺麗です。すごく」


 直球の褒め言葉。

 夫からは十年かかっても一度も聞けなかった言葉が、彼からは湯水のように湧いてくる。


 顔が熱くなる。

 私は照れ隠しに、彼の手を引っ張った。


「もう。……行くよ!」


 ***


 神社の境内は、極彩色の光と熱気に包まれていた。

 参道に並ぶ屋台の裸電球。

 ソースが鉄板で焦げる匂い。綿あめの甘い香り。

 遠くから響くお囃子の音色と、人々のざわめき。


 小規模な地元の祭りだが、お盆休みということもあってか、境内は人で溢れかえっていた。


 浴衣姿のカップル、走り回る子供たち、ビールを片手に談笑する大人たち。


 その喧騒の中に足を踏み入れた瞬間、私はキュッと身を縮こまらせた。


 怖い。


 この人混みの中に、知っている顔がいるかもしれない。

 会社の同僚。近所の奥さん。カオリ。


 もし誰かに見られたら、言い逃れはできない。


 私は無意識に徹さんの袖を掴んでいた。


「……人、多いね」

「そうですね。はぐれないようにしないと」


 徹さんは周囲を見回し、ふとある屋台の前で足を止めた。

 お面屋さんだ。


 ヒーローやアニメキャラクターのプラスチック製のお面が並ぶ中に、古風な紙製の狐の面があった。


「これ、いいですね」


 彼は狐の面を二つ手に取り、小銭を支払った。

 そして、一つを私に差し出す。


「これ被りましょう。そうすれば、誰だかわかりませんよ」


 ナイスアイデア。


 私は受け取り、顔に装着した。

 視界が狭まり、自分の呼吸音がこもって聞こえる。


 隣を見ると、徹さんも狐になっていた。


 二匹の狐。

 人間社会に紛れ込んだ、異界の獣。


 不思議な高揚感が湧き上がってきた。


 顔を隠しただけで、自分が「佐々木洋子」という主婦ではなく、名もなき「女」に生まれ変わったような気がする。


 日常の鎖が外れ、背徳の自由が手に入る。


 徹さんが手を差し出してきた。

 私はその手を握り返す。


 掌の熱さが、仮面の下の火照りを加速させる。


 私たちは手を繋ぎ、人波を縫って歩き出した。

 誰とも目が合わない安心感。

 二人だけの秘密のパレード。


 りんご飴を買って、半分こして食べる。

 金魚すくいの水槽を眺める。

 射的で外して笑い合う。


 楽しい。

 心の底から、楽しい。


 夫のことも、探偵の噂も、全部忘れられる。


 と、その時だった。


 前方から、見覚えのある集団が歩いてきた。


 三十代前半の女性。

 背中には赤ん坊をおんぶし、両手には幼児の手を引いている。

 隣には、疲れ切った顔の旦那さん。


 由美だ。


 少し前にスーパーであった、友達。

 3児の母で、いつも「子育て大変よー」と愚痴をこぼしている。


 ヒッと息を飲んだ。


 向こうはこちらに向かって歩いてくる。

 道幅は狭い。避けるスペースはない。


 バレる。


 仮面をしていても、体型や雰囲気でバレるかもしれない。

 それに、この浴衣。


 もし彼女が「素敵な浴衣じゃん」なんて声をかけてきたら――。


 私は反射的に徹さんの手を離そうとした。

 離れて、他人を装わなきゃ。


 だが、徹さんの手は離れなかった。

 逆に、私の手を痛いほど強く握りしめたのだ。


「……っ!」


 私は狐の面越しに彼を見た。

 彼は前を向いたまま、楽しそうに口元を歪めていた。


「大丈夫。バレませんよ」


 囁くような声。

 彼は歩調を緩めない。


 由美一家との距離が縮まる。

 十メートル。五メートル。三メートル。


 私の心臓は破裂しそうだった。


 お願い、気づかないで。通り過ぎて。


 すれ違う瞬間。

 肩と肩が触れ合いそうな距離。


 徹さんが、私の耳元で、わざとはっきりと言った。


「ね、洋子さん」


 !!


 時が止まった。


 名前。

 私の名前を、呼んだ。


 由美が反応した。

 「ん?」という顔で、こちらを振り返る気配がした。


 私は悲鳴を飲み込み、俯いて足を速めた。

 徹さんに手を引かれるまま、人混みの中へ逃げ込む。


 後ろは見れない。

 由美が気づいたかどうか、確認する勇気もない。


 人混みを抜け、神社の裏手にある人気のない小道へ出た。

 祭りの喧騒が遠く聞こえる。


 暗がりの中で、私はようやく息を吐き出した。


 ハァ、ハァ……。


 膝が震えている。


 私は狐の面をずらして外し、徹さんを睨みつけた。


「……信じられない! 急に名前呼ぶなんて!」


 抗議の声が震える。


「心臓、止まるかと思った! もしバレたらどうするの!?」


 徹さんも面を外し、悪びれる様子もなく笑っていた。

 汗ばんだ前髪が額に張り付いている。


「ごめんごめん。……でも、困ってる洋子さん、見たかったから」


 彼はイタズラが成功した子供のように、無邪気に言う。


「そんな理由で……! こっちは寿命が縮んだっての」


 私は怒って背を向けようとした。


 だが、彼の手が私の腰を掴み、強く引き寄せた。


 ドンッ。


 彼の胸に背中が当たる。


「……怒った顔も、可愛い」


 耳元で囁かれる甘い声。

 さっきまでの恐怖が、一瞬で別の熱に変換されていく。


 吊り橋効果。

 スリルと恐怖が、興奮を増幅させる。


 彼の手が、帯の上から私のお腹を撫でる。


「……浴衣見てたら、なんだかそういう気分になってきました」


 彼の体温が、浴衣越しに伝わってくる。

 熱い。硬い。


「このまま、近くのホテルに行きませんか?」


 直球の誘い。


 ここで断れるはずがなかった。

 体中の血液が沸騰している。

 恐怖の反動で、理性が焼き切れてしまっている。


 私は無言で頷き、彼の方を向いて口づけを交わした。


 神社の裏手から少し歩くと、そこはもうホテル街の入り口だった。

 毒々しいネオンサインが、夜の闇に浮かび上がっている。


 「休憩2500円」「宿泊4000円」。

 欲望の値段表。


 私たちは手を繋ぎ、一軒のホテルの前で立ち止まった。

 お城のような外観の、趣味の悪い建物。


 ふと、背後から気配を感じた。


『さあさあ、お盛んなこと』


 明菜だ。

 彼女はホテルの看板の上に腰掛け、足をブラブラさせている。


『祭りの後の静けさなんて言葉、アンタたちには無縁ね。恐怖と興奮のミルフィーユ。さっきの友達とのニアミスが、最高の媚薬になっちゃったみたい』


 明菜は妖しく目を細めた。


『でもね、洋子。調子に乗りすぎると、足元を掬われるわよ? 祭りの夜には、魔物が住んでるって言うじゃない』


 うるさいわね。


 私は一言明菜に毒づき、徹さんと一緒にホテルの敷地に入ろうとした。


 その時だった。


 グイッ!


 強い力で、私の右腕が引かれた。

 徹さんではない。後ろからだ。


「きゃっ!?」


 バランスを崩し、私は無様に地面に転がった。

 擦りむいた膝がジンジンと痛む。

 浴衣の裾が乱れ、太ももが露わになる。


「洋子さん!?」


 徹さんが驚いて振り返る。


 私は痛みに顔を歪めながら、自分を引っ張った相手を見上げた。


 そこに立っていたのは、鬼だった。


 長いソバージュヘアを振り乱し、厚化粧が汗で滲んでドロドロになった女。

 目は血走り、口元は怒りで歪んでいる。


 絵里だ。


 彼女は仁王立ちで私を見下ろしていた。

 その手には、私の腕を掴んだ感触が残っているかのように、握り拳が作られている。


「アンタ……」


 地獄の底から響くような、低い声。


「徹の、新しい彼女?」


 空気が凍りついた。

 祭りの音も、ネオンの瞬きも、すべてが遠のいていく。


 徹さんが真っ青な顔で立ち尽くしている。


「え、絵里……!?」


「友達と祭りにきてたらたまたまお面屋で徹が見えたの、そこからずっと後をつけてた」


 絵里は私から視線を外さず、徹さんに吐き捨てた。


「コイツが本気になった女? このオバサンが?」


 そして、再び私を睨みつける。

 その目には、純粋な憎悪と、殺意にも似た嫉妬が渦巻いていた。


 終わった。


 楽しい夏祭りは、一瞬にして修羅場へと変わった。


『あーあ。面白くなってきたわねー』


 看板の上で、明菜が高笑いしていた。

 彼女は私たちを見下ろしながら、拍手喝采を送っている。


『役者が揃ったわ。浮かれた狐たちが、本物の鬼に捕まった瞬間』


 明菜はふと、視線を路地の暗闇へと向けた。

 そして、ニヤリと笑った。


『おまけに、観客までいるみたいよ』


 彼女の視線の先。

 自動販売機の陰の暗がりで、何かがキラリと光った。


 ピカッ。


 一瞬の閃光。

 カメラのフラッシュだ。


 2人は絵里に気を取られて気づいていない。

 明菜だけが見ていた。


 決定的な瞬間が、冷徹なレンズによって切り取られたことを。


 祭囃子が、不協和音となった。


【明菜先生の研究メモ】


 被験者データ No.001

 氏名:佐々木 洋子(30)

 職業:事務職/獲物


■ 現在のステータス

・状況:四面楚歌(前方には鬼、後方には探偵)

・精神状態:パニック(幸せの絶頂から地獄へ落下)

・衣装:乱れた浴衣(惨めさの象徴)


■ 明菜の分析ログ


 「狐の面」で顔を隠しても、運命からは隠れられないわね。


 油断、慢心、そして快楽への没頭。

 隙だらけの二人に、罰が下るのは当然の帰結よ。


 絵里の登場は想定内だけど、問題はあのフラッシュね。

 この修羅場の一部始終が、証拠として記録された。


 さあ、洋子。

 この状況をどう切り抜ける?

 泣く? 謝る? それとも……また逆ギレする?



※作中の医学・心理学描写について

本作に登場する心理学用語や医学的な説明は、作者なりに調べて執筆しておりますが、あくまで「明菜先生の独自解釈」や「物語上の演出」が含まれます。

厳密な学術書ではなく、エンターテインメントとして楽しんでいただければ幸いです!


この作品が面白い!と思っていただけたのなら

是非ぜひブクマと評価のほうよろしくお願いします。

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