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夫に疲れ果てた昭和60年の私。脳内のボディコン美女に唆されて、年下上司と一線を超えました  作者: ベルガ・モルザ


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第二十五記録【WAKUWAKUさせてよ】



 八月九日、金曜日。

 お盆休み前の最終出社日。

 午後三時のオフィスは、熱気と埃っぽさに包まれていた。


 窓の外では、入道雲が凶暴なまでに膨れ上がり、アスファルトを溶かすような陽射しが照りつけている。

 冷房はフル稼働しているはずだが、大掃除のために窓を開け放ったり、人が動き回ったりしているせいで、室温は上がる一方だ。


 私は給湯室のシンクに向かい、クレンザーをつけたスポンジでステンレスを磨いていた。

 ゴシゴシ、という単調な音が、私の鬱屈した心を少しだけ削ってくれる気がする。


 あの日。

 剛にレシートを突きつけられ、逆ギレして徹さんの家に逃げ込んだあの日から、一週間が経とうとしていた。


 翌日、私は何食わぬ顔で家に帰った。

 剛は怒鳴るかと思ったが、拍子抜けするほど静かだった。

 それどころか、「実家で少しは頭冷えたか?」なんて、妙に落ち着いた声で迎えてくれたのだ。


 離婚話を切り出そうと構えていた私は、出鼻をくじかれた。

 それ以来、なんとなくタイミングを逃し続けている。


 夫はいつも通りの飯、風呂、寝るのサイクルに戻り、私はまた、仮面夫婦の妻を演じている。

 でも、徹さんには「ちゃんと話す」と約束してしまった。

 彼の期待を裏切っているようで、胸が痛い。


「佐々木さーん」


 背後から声をかけられた。

 経理部の堀さんだ。


 三十代半ば、ショートカットで快活な一児の母。

 そして、社内一の情報通でもある。


「ここ、終わったら冷蔵庫の中もやっときます?」

「あ、はい。お願いします」


 私は手を止めずに答えた。

 堀さんは私の隣に来て、声をひそめた。


「ねえ、不倫してるの」


 ドクン。

 心臓が跳ね上がった。


 手が滑り、スポンジをシンクに落としてしまう。


「えっ!?」


 私は強張った顔で堀さんを見た。

 バレた?

 誰かに見られた?

 徹さんとの関係が?


「……って聞いたんだけど」


 堀さんは楽しそうに続ける。


「部長よ、部長。あの寿退社したエミちゃんと不倫してたんだって」


 ……え?


 全身の力が抜け、膝から崩れ落ちそうになった。

 私じゃ、ない。


「あ、あの……エミちゃん、結婚したんじゃ……」

「それがねー、真っ赤な嘘だったらしいのよ」


 堀さんはスポンジを手に取りながら、得意げに話し始めた。


「実はね、結婚前に奥さんにバレちゃって、修羅場になったんだって。で、手切れ金代わりに退職させられたってわけ。寿退社なんて体のいいカモフラージュよ」


 そういえば。

 ここ数日、部長の姿を見かけても、以前のような脂ぎった覇気がなく、顔色が土気色だったことを思い出す。

 エミちゃんのあの幸せそうな笑顔も、演技だったということか。


「なんで……バレたんですか?」


 恐る恐る尋ねる。

 他人事ではない。私の喉はカラカラに乾いていた。


「なんでも、奥さんが探偵雇ってたんですって」


 ヒュッ、と息を吸い込んだ。

 探偵。


 その二文字が、鋭利な刃物となって私の鼓膜を突き刺す。


「怖いー。やっぱり女の勘って当たるのよね。こそこそ隠れてても、プロにかかれば一発よ。写真撮られて、言い逃れできなくなって、慰謝料ガッポリ請求されたらしいわ」


 堀さんはケラケラと笑っているが、私には死刑宣告にしか聞こえなかった。


 もし。

 もし、剛が探偵を雇っていたら?


 あのレシート事件の後、彼は妙に静かだ。

 怒りもしないし、追及もしてこない。

 それが逆に不気味だ。


 まさか。

 あのケチな夫が、高いお金を払って探偵なんて雇うはずがない。


 そう自分に言い聞かせるが、指先の震えが止まらない。


『……あらあら』


 シンクの縁に、明菜が腰掛けていた。

 彼女は私の青ざめた顔を覗き込み、冷ややかに笑う。


『人の振り見て我が振り直せ、ってね。……アンタの背中にも、もうレンズが向けられてるかもよ? 望遠レンズの冷たいガラス玉が』


 やめて。

 脅さないで。


 私は逃げるように水道の蛇口を全開にした。

 ジャーッ! という水音が、明菜の声と私の不安をかき消していく。


 夕方。

 徹さんの車で、最寄り駅まで送ってもらう。


 他の社員に見つからないよう、少し離れた路地裏で降ろしてもらうのが、私たちのルールだ。

 車内は冷房が効いていて快適だが、私の心はさっきの探偵の話で冷え切っていた。


「……明日からお盆休みですね」


 ハンドルを握る徹さんが、少し寂しそうに呟く。


「そうね……」


「洋子さんは、ご主人とどこか行かれるんですか?」

「ううん。特には……」


 生返事しかできない。

 夫の予定なんて聞いていないし、聞きたくもない。


「そうですか……。もし、行けるなら」


 信号待ちで車が止まると、彼が私を見た。

 少年のような、期待に満ちた目。


「洋子さんと、川遊びに行きたいです。涼しいし、誰もいないような場所を知ってるんです」


 川遊び。

 なんて魅力的な響きだろう。


 日常を忘れて、冷たい水に足を浸す。

 彼と二人きりで。


 でも、現実は厳しい。

 お盆休みはずっと夫が家にいるだろう。

 三食作って、機嫌を取って、針のむしろのような日々を過ごさなければならない。


「……行きたいけど。わかんない」


 私は曖昧に濁した。


「そっか……。まあ、もし都合がついたら連絡ください。待ってますから」


 彼の健気さが、胸を打つ。


 車を降りる時、彼の手がそっと私の手に触れた。

 その温もりだけを頼りに、私は家路についた。


 帰宅すると、剛はすでにビールを開けて野球中継を見ていた。

 テーブルには枝豆の皮が散乱している。


「おかえり」

「……ただいま」


 剛はチラリと私を見ただけで、すぐに視線をテレビに戻した。

 その横顔には、以前のような険悪さはなく、どこか上機嫌に見える。


「あのさ」


 剛がビールを煽りながら切り出した。


「俺、今年のお盆は一人で青森の実家に帰るわ」


「えっ?」


 私は目を丸くした。

 着替えようとしていた手が止まる。


「一人で?」

「ああ。オヤジがちょっと体調崩したみたいでな。見舞いも兼ねて行ってくる」


 剛の実家は青森だ。

 ここからは遠い。

 新幹線を使っても半日はかかる。


「そ、そう……。大丈夫なの? お義父さん」

「大したことねえよ。ただの夏バテだろ」


 剛はプハッと息を吐き、ニヤリと笑った。


「お前はこっちでゆっくりしろよ。たまには一人の時間も欲しいだろ?」


 ドキリとした。

 剛の目が、笑っていない気がした。

 底知れない暗闇が、瞳の奥に潜んでいるような。


 でも、その言葉の意味を深く考えるよりも先に、私の脳内では別の計算が弾き出されていた。


 夫がいない。

 お盆の間ずっと。


 青森に行けば、少なくとも三日か四日は帰ってこない。


 自由だ。

 完全なる自由。


 これは罠かもしれない。

 「泳がされている」のかもしれない。


 でも、今の私にとって、それは渡りに船だった。

 目の前に垂らされた蜘蛛の糸に、縋り付かずにはいられない。


「……わかった。気をつけて行ってきてね」


 私は努めて冷静に答えたが、声が弾むのを抑えるのに必死だった。


 剛が風呂に入った隙に、私は足早で、徹さんに電話をかけた。


『はい、高橋です』

「徹さん! 私、行ける!」

『えっ?』

「夫が、実家に帰るの。一人で。だから……」

『本当ですか!?』


 受話器の向こうで、徹さんの声が裏返った。


『じゃあ、明日からずっと一緒にいられますね!』

「うん……!」


 罪悪感の欠片もなかった。

 あるのは、明日への期待と、高揚感だけ。


 翌日。


 徹さんの白いマークⅡは、奥多摩の山道を走っていた。

 都心から二時間。


 窓を開けると、ひんやりとした空気が流れ込んでくる。

 緑の匂い。土の匂い。


 車を止め、獣道のような小道を下っていくと、そこには秘密の楽園があった。


 透き通った渓流。

 白い岩肌。

 木漏れ日が水面をキラキラと照らしている。


 他には誰もいない。

 蝉時雨と、川のせせらぎだけが世界を満たしている。


「うわぁ、綺麗……!」


 私は思わず声を上げた。

 昨日のオフィスの澱んだ空気とは別世界だ。


 今日の私は、白いサンドレスを着ている。

 その下には、昨日慌ててタンスの奥から引っ張り出した水着を着ていた。


 徹さんはTシャツに短パン。

 少年のような格好が、眩しい。


 大きな岩の上にシートを広げ、お弁当を開く。

 今朝、早起きして作ったものだ。


 卵焼き、唐揚げ、おにぎり。

 定番のおかずだけど、愛情だけはたっぷり込めた。


「いただきます!」


 徹さんは大きなおにぎりを頬張り、目を輝かせた。


「うまい! 洋子さんの料理、毎日食べたいなあ」


 その言葉に、胸が熱くなる。

 いつかではなく、今の幸せ。


 こうして二人で笑い合って、美味しいものを食べて。

 これが、私が求めていた夫婦の形だったのかもしれない。


 食後、私たちは靴を脱いで川に入った。


「冷たっ!」


 氷水のように冷たい。

 足首がキーンと痛くなるほどだ。


「ほら、洋子さん!」


 徹さんが水をすくって、私にかけてきた。


「あっ、冷たい! もう、やったなー!」


 私も負けじと水をかけ返す。


 バシャバシャと水しぶきが上がり、お互いの服を濡らしていく。

 キャッキャと騒ぐ私たちは、まるで夏休みの子供みたいだ。


 年齢も、立場も、背負っている罪も忘れて。


 ふと、徹さんの動きが止まった。


 私のサンドレスが濡れて、肌に張り付いていた。

 薄い生地の下から、水着のラインと、柔らかな曲線のシルエットが透けて見える。


 徹さんの視線が、私の胸元から腰へと滑る。

 その目が、さっきまでの少年の目から、急に雄の目に変わった。


 喉がゴクリと鳴る音が聞こえた気がした。


 周囲には誰もいない。

 岩陰の死角。


 彼は無言で私に近づき、濡れた腰を引き寄せた。


「……洋子さん」


 低い声。

 彼の体温が、冷たい水の中で際立つ。


「……冷たい」


 私が震える声で言うと、彼は私の耳元に唇を寄せた。


「温めます」


 熱いキスが降ってくる。

 濡れた服同士が擦れ合う音が、水音に紛れていやらしく響く。


 太陽の下での情事。

 誰かに見られるかもしれないというスリルが、背徳感を極限まで高める。


 私は彼にしがみつき、青空を見上げた。

 入道雲が、私たちを見下ろしている。


 これが、最後の夏休みになるかもしれない。

 そんな切ない予感が、私の情熱をさらに燃え上がらせた。


 日はすっかり落ちて、あたりは闇に包まれていた。


 私たちは山の中腹にある、夜景が見えるスポットに車を止めた。


 眼下に広がる街の灯り。

 宝石箱をひっくり返したような、無数の光の粒。


 あの光の一つ一つに、誰かの生活がある。


 剛の実家のある青森の方角はどっちだろう。

 彼は今頃、何をしているのだろう。


 徹さんがシートを倒し、私を引き寄せた。

 車内は狭く、密着度が高い。


「……帰りたくないですね」


 彼が私の髪を撫でながら呟く。


「このまま、時間が止まればいいのに」


 私も同じ気持ちだった。

 家に帰りたくない。


 誰もいない家でも、そこには剛の気配が染み付いている。


 私は決心した。

 この夏は、全部彼に捧げよう。


 後先なんて考えない。


「……徹さん」


 私は彼の目を見つめた。


「昨日も言ったけど夫、いないの。お盆の間ずっと」


「それはつまり……」


「だから……泊まっていい?」


 徹さんの目が大きく見開かれた。

 そして、爆発するような喜びが顔いっぱいに広がる。


「もちろんです! ずっといてください! 俺の家に!」


 彼は私を強く抱きしめた。

 骨が軋むほどの強さ。


「じゃあ、明後日の夏祭りも一緒に行きましょう! 近くの神社であるんです」


「夏祭り……」


「浴衣、着てくれますか? 洋子さんの浴衣姿、見たいです」


 浴衣。

 もう何年も着ていない。


 でも、彼のためなら。


「うん。……着る」


 私たちは夜景を背に、再び口づけを交わした。


 終わらない夏休み。

 破滅へと向かう、甘い逃避行の始まりだった。


 車のボンネットの上に、明菜が座っていた。

 彼女は夜景を見下ろし、呆れたようにため息をつく。


『最後の晩餐ならぬ、最後の夏休みね』


 彼女は夜空を見上げた。

 一筋の流星が、不吉な尾を引いて流れていく。


『夫が本当に実家に帰ったかどうかも確かめずに、よくやるわ。……青森行きの切符、払い戻されてたりしてね?』


 明菜の言葉は、夜風にかき消された。


 洋子は徹の腕の中で、ただ幸せな夢を見続けることを選んだ。


【明菜先生の研究メモ】


  被験者データ No.001

 氏名:佐々木 洋子(30)

 職業:事務職/夏の逃亡者


■ 現在のステータス

・脳内麻薬:全開

 (「探偵」の恐怖を快楽で上書き保存中)

・警戒心:欠如

 (夫の不在を無邪気に信じ込んでいる)

・背徳感:Sランク

 (真昼の情事により覚醒)


■ 明菜の分析ログ


 「探偵」という単語に震え上がったくせに、

 目の前に「餌(夫の不在)」がぶら下がると、すぐに飛びつく。

 学習能力のない女ね。


 でも、それが恋という病気の特徴よ。

 リスクが高ければ高いほど、燃え上がる。


 「これが最後かもしれない」という切なさが、最高のスパイスになるの。


 濡れた服、夜景、そしてお泊まり。

 材料は揃ったわ。


 さあ、盛大な花火を打ち上げましょうか。

 ……自爆という名のね。



※作中の医学・心理学描写について

本作に登場する心理学用語や医学的な説明は、作者なりに調べて執筆しておりますが、あくまで「明菜先生の独自解釈」や「物語上の演出」が含まれます。

厳密な学術書ではなく、エンターテインメントとして楽しんでいただければ幸いです!


この作品が面白い!と思っていただけたのなら

是非ぜひブクマと評価のほうよろしくお願いします。

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