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夫に疲れ果てた昭和60年の私。脳内のボディコン美女に唆されて、年下上司と一線を超えました  作者: ベルガ・モルザ


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第二十四記録【夫からの恋文】




【剛の視点】


 駅前の純喫茶『伯爵』の重厚な扉が開くと、カウベルが乾いた音を立てた。

 店内に足を踏み入れた瞬間、体にまとわりついていた真夏の湿気が、冷房の効いた冷たい空気に一掃される。

 だが、その代わりに鼻腔を突いたのは、長年染み付いたタバコのヤニと、焙煎されたコーヒー豆の焦げた香り、そして紅色のビロード張りの椅子が醸し出す、独特の昭和の淀みだった。


 佐々木剛は、一番奥のボックス席に深く腰掛けていた。

 目の前のアイスコーヒーは、氷が溶けてすでに水っぽくなっている。

 グラスの表面を伝う水滴が、コースターに丸い染みを作っていく様を、彼は苛立ち紛れに見つめていた。


 カラン。


 ストローで氷を突く。

 その音が、彼の神経を逆撫でする。


 向かいの席には、妻・洋子の親友であるカオリが座っていた。

 彼女は運ばれてきたオレンジジュースのストローを口に含み、上目遣いで剛の顔を伺っている。

 鮮やかなブルーのアイシャドウに、少しきつめのパーマ。

 いかにも今どきのOLといった風情だが、その表情には隠しきれない困惑が張り付いていた。


「剛くんだけで話しって、珍しいね」

 彼女が沈黙に耐えかねたように口を開く。

「洋子と喧嘩でもした?」


 無邪気な質問。

 洋子の友人たちは皆、剛のことを「無口だが真面目な夫」だと思っている。

 だからこそ、こうして呼び出された理由が夫婦喧嘩の仲裁程度だと思い込んでいるのだろう。


 剛は鼻で笑い、タバコの煙を天井に向けて吐き出した。


「喧嘩か……。ただの喧嘩で済んだら、どれだけ可愛いことか」


 意味深な言葉に、カオリがストローを離す。


「どういうこと?」


 剛は胸ポケットに手を伸ばした。

 指先に触れたのは、何度も握りしめ、何度も確認したせいでクシャクシャになった、一枚の感熱紙。

 以前、スーパーのレジ前で洋子が落とし、剛が拾い上げた「動かぬ証拠」だ。


 それを、褐色のテーブルの上に置く。

 白い紙片が、店内の薄暗い照明の中で痛々しく浮かび上がる。

 まるで、洋子の裏切りの告白書のように。


「……なにこれ?」


 カオリが眉をひそめ、それを手に取る。

 印字された文字を追う瞳が、左右に動く。


「喫茶モンシェリー? ……円山町?」


 彼女の声が上ずった。

 東京で遊び慣れた大人なら、その地名が持つ意味を知らないわけがない。

 ラブホテル街のど真ん中。

 カップルシート。

 情事の前戯、あるいは後戯として利用される、あからさまな場所。


「2週間前の金曜だ」


 剛はカオリの目を逃さぬよう、爬虫類のようにじっと凝視した。

 瞬き一つ許さない。


「洋子は、カオリちゃんとここに行ったって言ってる」


「……え?」


 カオリの顔が強張る。


「久しぶりに会って、お茶したってな。……どうなんだ? あいつと会ってたのか」


 剛の声は低く、抑揚がない。

 だが、そこに含まれる圧力は、ナイフのように鋭利だった。


 カオリはレシートの日付を食い入るように見た。

 視線が宙を泳ぐ。記憶の引き出しを必死に漁っているのだ。

 金曜日。二週間前の夜。自分がどこで何をしていたか。


 数秒の沈黙。

 店内に流れるクラシック音楽の優雅な旋律だけが、残酷に時を刻んでいく。

 隣の席のサラリーマンたちの笑い声が、遠い世界の出来事のように響く。


「……金曜日?」


 カオリが顔を上げた。

 その瞳には、困惑と、そして隠しきれない「正義感」が宿っていた。

 彼女は嘘がつけないタイプだ。

 そして何より、曲がったことが嫌いな性格であることを、剛は知っていた。


「私、その日は……残業で会社にいたよ。九時過ぎまで」


 やっぱりな。

 剛は心の中で、黒い確信の杭をドスリと打ち込んだ。

 予想通りだ。

 妻は嘘をついていた。


 スーパーでの言い訳も、日曜日の逆ギレも、すべて茶番だったのだ。

 あの涙も、家出も、自分の不貞を隠すための浅はかな演技。


「ちょっと、どういうこと? 洋子、私と会ったって嘘ついたの?」


 カオリの声色が険しくなる。

 親友だからこそ、許せないという感情が顔に出ている。

 自分の名前を、不倫のアリバイ工作に使われたことへの不快感。


「ああ。……あいつ、最近様子がおかしいんだ」


 剛はアイスコーヒーを一気に飲み干した。

 氷が歯に当たり、冷たい液体が焼けるような胃の腑に落ちていく。

 ここからは、被害者を演じる時間だ。


「下着も派手になった。化粧も変わった。……夜も、俺を拒むようになった」


 恥を忍んで告白するフリをする。

 男としてのプライドを捨て、妻に拒絶された夫という惨めな役割を演じることで、カオリの同情と義憤を最大限に引き出すのだ。


「そんな……。洋子が……」


 カオリは絶句し、手元のレシートを見つめたまま動かなくなった。


 円山町。金曜の夜。嘘のアリバイ。

 状況証拠は真っ黒だ。言い逃れようがない。


「誰かいるな。間違いなく」


 剛はタバコに火をつけた。

 ライターの火が揺れる。

 紫煙を深く吸い込み、ゆっくりと吐き出す。


 煙の向こうで、カオリが唇を噛み締めているのが見えた。


「はっきりさせる」


「……どうするの?」


「探偵、雇うことにする」


 カオリが息を飲んだ。

 探偵。

 それは、もはや引き返せない領域への突入を意味する。


 大ごとになる。家庭が壊れる。

 普通なら、「そこまでしなくても……」と止めるかもしれない。

 だが、彼女は言わなかった。


 彼女の中の潔癖な正義感が、親友の裏切りを許せなかったのだ。

 信じていた友人が、夫を欺き、友人を踏み台にして、汚らわしい欲望に溺れているという事実が。


「……それがいいと思う」


 カオリは小さく、しかしはっきりと頷いた。

 その瞳に、冷ややかな光が宿る。


「もし洋子が道を踏み外してるなら……早いうちに止めてあげないと。洋子のためにも」


 洋子のため。

 偽善的な響きだ。

 だが、剛にとってはこれ以上ないほど都合のいい免罪符だった。


 彼女はもう、洋子の味方ではない。剛の協力者だ。


 剛はニヤリと笑いそうになるのを堪え、深刻な顔を作って頷いた。


「ああ。……協力してくれてありがとうな、カオリちゃん」


 これで外堀は埋まった。

 アリバイ工作に使われた親友が、検察側の証人に回ったのだ。

 洋子にはもう、逃げ場はない。


 待ってろよ、洋子。

 お前がどこの馬の骨とよろしくやってるか知らねえが、必ず尻尾を掴んでやる。


 そして、俺をコケにした代償を、骨の髄まで払わせてやる。

 社会的に抹殺し、慰謝料をむしり取り、路頭に迷わせてやる。


 剛は吸い殻を灰皿にねじり込むように押し付けた。

 火種がジウと音を立てて消え、黒い燃えカスだけが残った。


 ***


 世田谷のマンションの寝室は、アンバー色の薄暗い光に包まれていた。

 ベッドサイドに置かれたアンティーク調のランプ。

 そのガラスシェードの繊細な模様を、私はシーツにくるまったまま、ぼんやりと指でなぞっていた。


 指先に伝わる冷たいガラスの感触だけが、今の私を現実に繋ぎ止めている。

 情事の後の、気だるい静寂。

 いわゆる「賢者タイム」と呼ばれる時間。


 体は満たされているはずだった。

 徹さんは今日も優しく、そして壊れ物を扱うように、情熱的に私を愛してくれた。

 肌には彼の匂いが染み付き、体の奥には彼の一部がまだ残っているような感覚がある。


 けれど、心の中には冷たい空洞が広がっていた。

 満たされれば満たされるほど、その後の虚無感が深くなる。


 天井を見上げる。

 ここには、あのラブホテルのような鏡はない。

 あるのは、ごく普通の白い天井と、これから向き合わなければならない現実だけだ。


 背中から、温かい体温が近づいてくる。

 徹さんが私を後ろから抱きしめ、肩に顎を乗せた。

 彼の吐息が耳にかかる。


「……シャワー、浴びにいこうよ」


 甘い誘い。

 いつもなら、そのままバスルームへ連れ込まれて、泡まみれになって第二ラウンドが始まるところだ。


 この閉ざされた楽園で、時間を忘れて愛し合う。

 それが私たちのルール。


 でも、今日の私は首を横に振った。


「シャワー浴びたら、帰る」


 徹さんの腕の力が、ふっと緩んだ。

 驚いた気配が背中から伝わってくる。


「えっ? ……今日も泊まっていかないんですか? 旦那さんと会うの気まずいって……」


「そうだけど」


 私は体を起こし、シーツを胸元まで引き上げた。

 床に散らばった服を見る。

 脱ぎ捨てられた私の下着と、彼のシャツが絡まり合っている。


 それはまるで、私たちの関係そのもののように見えた。

 乱雑で、情熱的で、そしてどこか哀れな抜け殻。


「夫と……ちゃんと話をつけてくる」


「……」


「このまま逃げ続けても、何も終わらないから。……離婚の話、進めなきゃ」


 口に出した瞬間、心臓がドクンと鳴った。

 言ってしまった。

 もう後戻りはできない。


 徹さんの顔が、パァッと輝いた。

 まるで、欲しかったおもちゃを買ってもらえるとわかった子供のような、無邪気な笑顔。


「本当ですか!? 洋子さん、決心してくれたんですね!」


 彼は私の手を両手で握りしめ、瞳をキラキラさせた。


「待ってます。ずっと待ってますから! 俺たちの未来のために……嬉しいなー」


 俺たちのために。

 その言葉が、やけに軽く、そして重く響いた。


 彼は知らないのだ。

 離婚という作業が、どれほど泥臭く、エネルギーを削り取るものなのかを。


 紙切れ一枚出せば終わるような、ドラマのような綺麗な話じゃない。

 財産分与、慰謝料、世間体、親族への説明。

 罵り合い、責任のなすりつけ合い。


 そして何より、十年間の生活を失敗だったと認めて清算する、身を切るような精神的苦痛。


 彼は安全地帯で待っているだけ。

 血を流して戦うのは、私一人だ。


 その無邪気さが、今は少しだけ恨めしい。

 でも、それを彼に求めてはいけないこともわかっている。


 これは、彼のためというより、私自身のためなのだから。

 この泥沼から抜け出し、私が私として生きるための、通過儀礼。


「……うん。行ってくるね」


 私は彼に微笑みかけ、ベッドを降りた。

 足取りは重いが、迷いはなかった。


 シャワーで彼の匂いを洗い流す時、私は戦場へ向かう兵士のような気分だった。


 彼の自宅へと向かう帰り道。

 街灯が等間隔に並び、私と、私の長い影をアスファルトに焼き付けている。

 昼間の熱気がまだ残っていて、夜風が生ぬるい。


 どこかの家から、テレビの音や笑い声が漏れてくる。

 平和な日常。

 私だけが、そこから弾き出された異物のように歩いている。


 カツ、カツ、カツ。

 ヒールの音が、静かな住宅街に響く。


 ふと、隣に気配を感じた。

 紫色のボディコンを着た明菜が、並んで歩いていた。


 彼女はジュリ扇を閉じ、いつになく真面目な顔で前を見ている。

 香水の香りが漂う。幻覚なのに、匂いまで感じるなんて、私も相当キている。


「ねえ明菜」


 私は夜空を見上げながら、独り言のように呟いた。


「結婚するより、離婚のほうが難しいよね」


『……そうね』


 明菜は静かに頷いた。

 チャラチャラした態度は消えている。


『誰が最初に言ったのかは知らないけど……真理よね』


 彼女は夜空に指で四角形を描いた。

 ビルを建てる仕草だ。


『ビルと一緒よ。建設するのは、希望があって、夢があって、みんながお祝いしてくれるからエネルギーも湧くわ。とんとん拍子に進む。でも、解体はどう?』


 明菜は肩をすくめ、破壊するジェスチャーをする。


『騒音も出る、粉塵も舞う、近所迷惑だと文句も言われる。瓦礫の処理にも金がかかる。物理学で言う「エントロピー増大の法則」ってやつね。形あるものを崩して、無秩序な状態に戻すには、建設時の何倍ものエネルギーが必要なの』


「……そうだね」


『医学的にも証明されてるわ。「ホームズとレイのストレス尺度」って知ってる? 人生のストレスを数値化したものなんだけど、「結婚」のストレス値が50だとしたら、「離婚」は73よ。配偶者の死(100)に次ぐ、人生最大級のダメージイベントってわけ』


 73。

 具体的な数字を聞くと、その重みがずしりと圧し掛かってくる。


 今の私に、その負荷に耐えられる体力があるだろうか。

 夫の罵声に、世間の目に、耐えられるだろうか。


 不安で足が止まりそうになる。

 このまま引き返して、徹さんの部屋に逃げ込みたい。


 でも、明菜は立ち止まらなかった。


 彼女は一歩先に行き、振り返って私を見た。

 その目は、厳しくも、どこか頼もしかった。


『でもね、洋子。更地にしないと、新しいビルは建たないわよ』


 彼女はニヤリと笑った。

 いつもの、小悪魔的な笑み。


『ボロボロの欠陥住宅(今の結婚生活)に住み続けて、一生カビ臭い空気を吸って腐っていくか。それとも、一度爆破して、瓦礫の山から血まみれになって這い上がるか。……アンタはもう、ダイナマイトの導火線に火をつけちゃったんでしょ?』


 私はハッとして、思わず笑ってしまった。

 そうだ。火をつけたのは私だ。

 もう導火線は燃え尽きる寸前なのだ。


「……ふふ。ありがとう、明菜」


 いつもなら「うるさい」と思う彼女の毒舌が、今は心地よい。

 誰も味方がいないこの世界で、彼女だけは私の「欲望」を肯定してくれる。


 例え幻影だとしても、今の私には唯一の戦友だ。


「いつも通りの明菜がいてくれて、よかった」


『はん。勘違いしないでちょうだい』


 明菜は鼻を鳴らしてジュリ扇をバサリと広げた。


『アタシはアンタの味方なんかじゃないわ。アタシは人の不幸と修羅場が大好物な、悪魔のキューピッドなだけよ。これから始まる泥沼劇を、特等席で見せてもらうためについてきてるんだから』


「性格悪いね」


『最高の褒め言葉よ』


 私たちは顔を見合わせて笑った。

 乾いた笑い。


 夜道に響くその笑い声は、どこか空元気にも聞こえたが、それでも前に進む力にはなった。


 やがて、見慣れた団地が見えてきた。

 巨大なコンクリートの塊。

 無数の窓が、四角い光を放っている。


 そこには何百もの家族が住み、何百もの日常が営まれている。

 その中の一室。


 私の家の窓にも、明かりがついていた。


 剛がいる。

 多分あの人のことだろうから、カオリと会って、何かを確信して帰ってきたか、あるいは、まだ帰っていないかもしれないが、彼の気配はそこにある。


 あそこはもう、私の帰る場所ではない。

 敵地であり、戦場だ。


 私は大きく息を吸い込み、夜の湿った空気を肺いっぱいに満たした。

 腹に力を入れる。


「……ただいま」


 誰にともなく呟く。


「私の、元・居場所」


 私はバッグの紐を握りしめ、階段を上り始めた。

 一段、また一段。


 断頭台への階段のように重く、けれど、確かな一歩を。

 コンクリートの冷たさが、靴底を通して伝わってくるようだった。

 


【明菜先生の研究メモ】


被験者データ No.001

氏名:佐々木 洋子(30)

職業:事務職 / 被告人


■ 現在のステータス

・外堀:埋没(親友カオリが検察側に寝返った)

・覚悟:完了(離婚への意志を固める)

・夫の動向:攻撃態勢(探偵の雇用を決意)


■ 明菜の分析ログ


 「正義感」ほど厄介な凶器はないわね。

 カオリは自分が洋子を追い詰めている自覚すらない。

 「友達のため」という綺麗な包装紙に包んで、決定的な証言というナイフを夫に手渡した。

 善意の第三者が一番タチが悪いって、よくある話よ。


 一方の洋子は、そんな包囲網など露知らず、

 「離婚」という人生最大のプロジェクトに向けて覚悟を決めた。

 徹の無邪気な応援を背に受けてね。


 さあ、役者は揃ったわ。

 夫は探偵という武器を、妻は離婚届という爆弾を。


 次からは、本当の戦争よ。

 まずは……束の間の「最後の夏休み」を楽しんでおきなさい。

 嵐の前の静けさは、もう終わりよ。



※作中の医学・心理学描写について

本作に登場する心理学用語や医学的な説明は、作者なりに調べて執筆しておりますが、あくまで「明菜先生の独自解釈」や「物語上の演出」が含まれます。

厳密な学術書ではなく、エンターテインメントとして楽しんでいただければ幸いです!


この作品が面白い!と思っていただけたのなら

是非ぜひブクマと評価のほうよろしくお願いします。

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