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夫に疲れ果てた昭和60年の私。脳内のボディコン美女に唆されて、年下上司と一線を超えました  作者: ベルガ・モルザ


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第二十二記録【アラベスク・ロマネスク】




 世田谷のマンションの一室には、焼きたてのトーストとコーヒーの香りが満ちていた。

 私はキッチンに立ち、フライパンの上でスクランブルエッグをかき混ぜている。


 身につけているのは、徹さんのYシャツ一枚だけ。

 サイズが大きくて、裾が太もものあたりまである。いわゆる彼シャツというやつだ。


 袖をまくり上げる仕草ひとつにも、甘い陶酔が含まれている気がした。

 鼻歌が漏れる。


 昨夜の地獄のような修羅場が、まるで嘘みたいだ。


 洗面台には、彼の青い歯ブラシの隣に、私のオレンジの歯ブラシが並んでいる。

 昨日の夜、コンビニで買ったものだ。


 その二本が寄り添っている姿を見るだけで、胸の奥がキュンと締め付けられる。


 リビングの窓からは、都会のビル群が見える。

 団地の窓から見える、灰色のコンクリート壁と物干し竿の風景とは大違いだ。


 ここは、私の新しい居場所。

 夫という敵から逃げ出し、愛する人と築く、新しい城。


 ベッドルームの方を見る。

 徹さんはまだ、シーツにくるまってまどろんでいる。


 昨夜、泣きじゃくる私を抱きしめ、何度も愛してる、守ると囁いてくれた彼。

 その体温の余韻が、まだ私の肌に残っている。


 腰のあたりが気だるく、そして甘く疼く。


『……ふふん。ロマンティック浮かれモードね』


 私の右隣に、明菜が肘をついて立っていた。

 彼女は私の着ているYシャツの裾を摘まみ、ニヤニヤと笑っている。


『昨日の夜は散々だったのに、一夜明けたらこの有様。女の適応能力って怖いわね』


 明菜は指を折りながら、昨夜からの出来事を振り返る。


『夫に逆ギレして家出。泣き落としでカレの家に転がり込み、ベッドで慰められて、朝には新婚さんごっこ。ジェットコースターも裸足で逃げ出す展開よ』


 そうだね。


 私はフライパンから卵を皿に移しながら、心答えた。

 自分でも驚くほど、心が軽い。


 罪悪感なんかない。

 そんなもの、ここにある幸せに比べたら塵みたいなものだ。


 私はトーストにバターを塗り、徹さんを起こしに行こうとした。


 その時だった。


 ピンポーン。


 静かな部屋に、無機質な電子音が響き渡った。

 インターホンの音だ。


 ビクッとして動きを止める。


 こんな朝早くに、誰?

 新聞の勧誘? それとも……まさか、剛?


 ベッドルームから、徹さんが弾かれたように飛び出してきた。

 髪はボサボサで。


「……誰だ?」


 彼はインターホンの受話器を取り、小さなモニターを覗き込んだ。


 瞬間、彼から血の気が引くのが見えた。


「……まずい。絵里だ」


 絵里。

 あの赤いスポーツカーの女。

 別れ話がもじれていると言っていた、元カノ。


「えっ……どうして」


「洋子さん、隠れて! クローゼットの中に!」


 徹さんは私の腕を掴み、寝室へと引きずり込んだ。


「え、ちょっと……」


「お願いです、見つかったら殺される! 早く!」


 彼の必死の形相に、私は事態の深刻さを悟った。


 コンロの火は消しただろうか。

 そんなことを考える暇もなく、私は寝室のウォークインクローゼットに押し込まれた。


 バタン。


 扉が閉められる。


 一瞬にして、視界が闇に包まれた。


 狭い。

 暗い。


 クローゼットの中は、防虫剤の匂いと、徹さんの服に染み付いたコロンの香りが充満していた。


 ハンガーに掛かったスーツやコートが、亡霊のように私を取り囲んでいる。


 心臓が早鐘を打つ。


 ドクン、ドクン、ドクン。


 うるさい。静かにして。聞こえてしまう。


 私は膝を抱え、息を殺した。


 ルーバー(通気口のついた扉)の隙間から、わずかに寝室の様子が見える。

 徹さんが慌ててリビングの方へ戻っていくのが見えた。


 ガチャリ。


 玄関の方で、金属音がした。

 鍵が開く音だ。


 え?


 徹さんはインターホンに出ただけで、解錠ボタンを押していないはずだ。


 まさか。


 合鍵。


 彼女はまだ、この部屋の鍵を持っているの?


「とおるー! 起きてるー?」


 元気な、そして甘ったるい声が響いてきた。


 パタパタという足音。

 我が物顔で廊下を歩く音。


「学校行くついでに寄っちゃった!」


 リビングに入ってきたのは、派手な服装の若い女だった。


 隙間から見える姿。

 腰まで届く長いソバージュヘア。前髪をスプレーで高く立ち上げ、太く描かれた眉。

 ボディコンシャスなミニスカートから、健康的な太ももが伸びている。


 年齢は確か二十二歳で、女子大生だったはず。

 若さという、暴力的なまでのエネルギーの塊。


「……勝手に入ってくるなよ」


 徹さんの声が聞こえる。

 拒絶しているようだが、どこか力がない。


「もう別れただろ。鍵、返せって言ったじゃないか」


「えー? だってまだ荷物あるじゃん。私のドライヤーも、シャンプーも」


 絵里は悪びれる様子もなく、部屋の中を見回している。


「あ、いい匂い。……ねえ、朝ごはん作ってるの?」


 彼女がキッチンの方へ歩み寄る気配がした。


 まずい。


 二人分のトースト。

 二人分のコーヒーカップ。


「……自分で食う分だよ。腹減ってるから多めに作っただけだ……」


 徹さんが苦しい言い訳をする。


「ふーん。でも二つあるし……あっ! 私の分でしょ!」


「違うよ。……帰ってくれ」


「冷たいなぁ」


 絵里が不満そうに唇を尖らせるのが、声の調子でわかる。


「先週の火曜日、泊めてくれた時は優しかったのに」


 ――え?


 クローゼットの中で、私の呼吸が止まった。


 先週の火曜日?


 記憶を巻き戻す。


 先週の火曜日。

 剛が「今日は飯いらない」と言った日だ。


 私はチャンスだと思って、会社帰りに徹さんをご飯に誘った。

 でも、彼は断ったのだ。


『ごめん、今日は大学時代の男友達が遊びに来るから、無理なんだ』


 男友達?


 嘘だったの?


 あの夜、私は一人で寂しい夕食をとりながら、彼を想っていたのに。

 彼はこの部屋で、この女を泊めていたの?


 全身の血が逆流するような感覚。

 足元が崩れ落ちていくような絶望感。


「あれは……」


 徹さんの声。


 否定していない。

 泊めたことは事実なのだ。


「でもぉ、なんだかんだ言って入れてくれたじゃん」


 絵里の声が、甘く絡みつく。


「徹はさ、寂しがり屋だから。私がいなきゃダメなんだって。ね?」


 彼女が徹さんに抱きついた気配がした。

 衣擦れの音。


 突き飛ばせ。

 「触るな」と。

 「俺には好きな人がいる」と。


 祈るような気持ちで、隙間から彼を見る。


 彼は、抵抗しなかった。

 されるがままになっている。


「……そういうんじゃない。離れろよ」


 言葉だけは拒絶しているが、態度は受け入れている。


 優柔不断。

 事なかれ主義。


 これが、彼の本性なのか。


 私はクローゼットの中で膝を抱え、耳を塞ぎたくなった。

 でも、塞げない。


 残酷な真実が、容赦なく鼓膜を叩く。


 彼は私を愛しているんじゃない。

 ただ、寂しさを埋めてくれる誰かなら、誰でもいいのだ。


 私が都合よくそばにいたから、手を出しただけ。

 この若い彼女の代用品として。


 自分が、惨めな愛人に成り下がったことを自覚させられる。


 ここは楽園なんかじゃない。

 別の地獄だ。


「ちぇっ。まあいいや、授業あるから行くね」


 絵里がパッと離れる気配がした。


「また来るから。じゃあねー」


 チュッ。


 乾いた音が響いた。

 キスの音だ。


 頬か、唇か。


 吐き気がした。


「じゃあね、とおる」


 バタン。


 玄関のドアが閉まる音。


 嵐が去った後のような静寂が戻ってくる。


 私は動けなかった。

 暗闇の中で、体が冷え切っていた。


 さっきまでの「浮かれモード」は跡形もなく消え失せ、代わりにドロドロとした不信感が胸を満たしていた。


 数分後。


 寝室のドアが開き、徹さんが入ってきた。


 彼はクローゼットの前に立ち、ためらいがちに扉を開けた。


 光が差し込む。

 まぶしい。


 でも、私の心は闇の中だ。


「……洋子さん。もう、大丈夫です」


 彼はバツが悪そうな、困ったような顔で私を見下ろしていた。

 その顔は、危機を乗り越えたとでも言いたげな安堵に満ちている。


 私はゆっくりと立ち上がった。

 足が痺れていて、うまく力が入らない。


「……行ったの?」


「はい。すみません、あんな……勝手に入ってきて」


 彼は頭を掻きながら、必死に弁解を始めた。


「合鍵、まだ持ってて……返せって言ってるんですけど、なかなか返してくれなくて。困りますよね、もう関係ないのに」


 関係ない?

 キスさせておいて?


「……さっき、泊めたって言ってたけど」


 私は震える声で切り込んだ。

 これだけは、確認せずにはいられなかった。


 徹さんの目が泳ぐ。


「ああ、あれ……。あれは、嘘ですよ」


 彼は即答した。


「彼女、すぐ話を盛るから。俺の気を引こうとして、わざと言ってるんです。泊めたなんてこと、別れてからあるわけないじゃないですか」


 嘘だ。


 女の勘が告げている。


 絵里のあの口調は、明らかに「既成事実」を語っていた。

 それに、彼のあの時の反応。


 あれは、泊めたことを認めていた証拠だ。


 彼は私に嘘をついている。

 私を安心させるための、優しい嘘。

 保身のための、汚い嘘。


 問い詰めたい。

 嘘つき、と叫んで、この部屋を出て行きたい。


 でも。


 出て行って、どこに行くの?


 夫の待つ団地?

 それとも、実家?


 私にはもう、帰る場所がない。


 この優柔不断な男の腕の中しか、逃げ場所がないのだ。


 私は唇を噛み締め、感情を飲み込んだ。

 プライドを捨て、真実を見ないふりをする。


「……そうなんだ」


 私は引きつった笑顔を張り付けた。


「大変ね、モテる男は。……ストーカーみたいにされて」


 徹さんはホッとしたように表情を緩めた。


「本当ですよ。……信じてくれますか?」


「うん。信じる」


 嘘つきは、私の方だ。


 彼は嬉しそうに私を抱きしめた。

 その温もりは、さっきまでと同じはずなのに、今はどこか薄ら寒く感じられた。


 彼シャツの襟元から、ほんのりと違う女の香水の匂いがするような気がして、私は息を止めた。


『……やれやれ』


 クローゼットのハンガーパイプに、明菜がぶら下がっていた。


 彼女は憐れむような目で、抱き合う私たちを見下ろしている。


『優しい男っていうのはね、誰にでも優しいの。「優柔不断」と「優しさ」は、成分表示が同じなのよ』


 彼女はゆらゆらと揺れながら、残酷な事実を告げる。


『ここも地獄、あっちも地獄。……さあ洋子、アンタはどっちの地獄で踊るの?』


 私は徹さんの背中に回した手に力を込めた。

 爪が食い込むほど強く。


 どっちの地獄でもない。


 私は、この男を私だけのものにする。

 あの女からすべてを奪い取ってやる。


 不信感は、やがて歪んだ執着へと変わっていく。


 クローゼットの闇は、私の心の中に住み着いてしまったようだった。


 


【明菜先生の研究メモ】


被験者データ No.001

氏名:佐々木 洋子(30)

職業:事務職 / 密航者


■ 現在のステータス

・SAN値(正気度):低下(クローゼット内での精神的圧迫により)

・疑心暗鬼:Aランク(徹の言葉をすべて疑い始めている)

・執着心:覚醒(「信じる」のではなく「奪う」方向へシフト)


■ 明菜の分析ログ

 「クローゼットの密室」。

 それは浮気相手が味わう、最も屈辱的な特等席よ。

 目の前で本命(元カノ)が彼に触れ、彼がそれを拒まない。

 その事実を「見えないふり」をして許すことで、二人の主従関係は決定づけられたわ。


 洋子はもう、対等なパートナーじゃない。

 「都合のいい女」のポジションに片足を突っ込んでる。


 でもね、追い詰められた女の執念をナメちゃいけない。

 彼女が飲み込んだ「疑念」は、体の中で腐敗して……猛毒に変わるわよ。


 次はどんな手で、彼を縛り付けるつもりかしら?



※作中の医学・心理学描写について

本作に登場する心理学用語や医学的な説明は、作者なりに調べて執筆しておりますが、あくまで「明菜先生の独自解釈」や「物語上の演出」が含まれます。

厳密な学術書ではなく、エンターテインメントとして楽しんでいただければ幸いです!


この作品が面白い!と思っていただけたのなら

是非ぜひブクマと評価のほうよろしくお願いします。

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