第二十一記録【攻撃は最大の防御】
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ジリリリリリリ!!
夕闇に沈むリビングで、黒電話のベルが鳴り響く。
それはまるで、私の心臓を直接鷲掴みにするような、暴力的な音だった。
剛の手が、ゆっくりと受話器に伸びる。
私は動けない。
まな板の上の鯉のように、ただその光景を見つめることしかできない。
誰?
カオリ? 徹さん? それとも――。
剛が受話器を取り、耳に当てた。
「……はい、佐々木ですが」
低い、不機嫌な声。
張り詰めた沈黙が部屋を支配する。
私は息を潜め、彼の表情の変化を食い入るように見つめた。
一秒、二秒。
剛の眉がピクリと動いた。
「……あぁ。なんだ、カオリちゃんか」
私の心臓が大きく跳ねた。
さっき、スーパーで「金曜日に会った」と嘘の口実に使った相手だ。
まずい。
もし剛が、「金曜日、洋子がお世話になって」なんて言ったら。
カオリは正直だ。「え? 会ってないよ?」と答えるに決まっている。
剛の声色が、少しだけ柔らかくなる。
「おう、久しぶりだな。……え? 飲み?」
彼はチラリと私の方を見た。
その視線には、探るような色が混じっている。
「いいよ、俺は空いてるけど。……洋子? ああ、いるよ。……え? 三人で? 次の日曜か。……わかった、伝えとくわ」
剛は頷き、ガチャリと受話器を置いた。
プー、プー、プー。
通話の切れた音が、幻聴のように残る。
私は強張った顔で、必死に平静を装った。
カオリは何も言わなかったのだろうか?
「久しぶり」という会話の流れからすると、金曜日の話は出ていないのかもしれない。
三人で飲みに行こうという誘いなだけに、私の心臓は落ち着いた。
剛がゆっくりと振り返る。
「……カオリちゃんだったよ」
「そ、そう……。珍しいね、日曜の夕方に」
私はエプロンの裾を握りしめながら答えた。
声が上ずらないように、腹に力を入れる。
「今度の休み、三人で飲みに行こうだってさ。俺も含めて」
剛はテーブルの上のタバコに手を伸ばしながら、何気ない口調で続ける。
「最近会ってないから、積もる話もあるだろうしって」
助かった。
私は心の中で大きく安堵の息を吐いた。
カオリは余計なことを言わなかったのだ。
それどころか、私の嘘を補強するような誘いをしてくれた。
これなら、「金曜日に会った時に盛り上がって、またすぐ剛さんも誘おうって話になったのよ」と言い訳ができる。
私は強張っていた頬を緩め、笑顔を作った。
「あ、そうだった。金曜日に会った時も、そんな話してたかも。『剛さんとも久しぶりに飲みたいね』って。……楽しみだね」
完璧だ。
これでレシートの件も誤魔化せるかもしれない。
そう思った、次の瞬間だった。
バンッ!!
剛がテーブルを拳で叩いた。
灰皿が飛び跳ね、吸い殻が散乱する。
私は悲鳴を上げて身を竦めた。
剛が私を睨みつけている。
その目は、さっきまでの無関心なものではない。
獲物を追い詰め、喉笛に食らいつこうとする獣の目だ。
「……嘘つくなよ」
地を這うような低い声。
「え……?」
「さっきの電話。……ただの間違い電話だ」
時が止まった。
言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
「……え?」
「向こうが無言で切ったんだよ。カオリちゃんなんて、掛けてきてねえ」
剛は口元を歪め、冷酷に笑った。
「俺が、お前の嘘を確かめるために芝居打っただけだ」
サーッと、頭から血の気が引いていくのがわかった。
罠だ。
鎌をかけられた。
私が「金曜日にカオリと会った」と言ったのが本当なら、間違い電話に対して「カオリと話した」なんて嘘をつくはずがない。
私がそれに同調した時点で、私は「嘘をついている」と自白したも同然なのだ。
剛はズボンのポケットから、あのクシャクシャになったレシートを取り出し、テーブルの上に投げ捨てた。
白い紙切れが、私の罪状のように横たわる。
「やっぱりな。カオリちゃんと会ったなんて大嘘だ」
彼はゆっくりと立ち上がり、私に詰め寄った。
酒の臭いと、怒りの臭いが押し寄せてくる。
「お前、金曜日どこ行ってたんだ? この『円山町』で」
彼の指が、レシートの住所をトントンと叩く。
「誰と会ってた? まさか一人でカップルシートの喫茶店に入って、サンドイッチ食ったわけじゃねえよな?」
逃げ場がない。
完全に詰んだ。
思考が真っ白になる。
謝る?
土下座して、魔が差したんですと泣いて許しを請う?
……いいえ。
そんなことをしたら、私は一生この男の奴隷になる。
一生、「不貞を働いた女」として頭を上げられず、彼の顔色を伺って生きていくことになる。
あの徹さんとの美しい思い出も、すべて「汚らわしい不倫」として断罪され、踏みにじられる。
嫌だ。
絶対に嫌だ。
その瞬間。
私の脳内で、パチンと何かのスイッチが切り替わった。
守るんじゃない。
攻めるのよ。
被害者は私。
こんな罠を仕掛けるような陰湿な男に、私を裁く権利なんてない。
汚い思考だとわかっている。
でも、生き残るためにはこれしかなかった。
私は両手で顔を覆い、肩を震わせた。
恐怖の震えを、怒りの震えに変換する。
「……ひどい!」
私は顔を上げ、涙の滲んだ目で彼を睨み返した。
「私を、試したの!?」
剛が面食らったような顔をする。
「はあ? 嘘ついてたのはお前だろ! 俺は事実を――」
「信じてないからでしょう!?」
私は彼の言葉を遮り、金切り声を上げた。
「夫婦なのに! 十年間も連れ添ってきたのに! レシート一枚で、そこまで私を疑うなんて!」
論点のすり替え。
浮気したかどうかという事実から、妻を信用しない夫の酷さという感情論へ。
「私がどんな気持ちで、毎日あなたの料理を作ってると思ってるの!? あなたのパンツを洗って、掃除して、家を守ってると思ってるの!?」
私はエプロンを乱暴に引きちぎり、床に叩きつけた。
「カオリと会ったって言ったのは、あなたがうるさいからよ! 一人で考え事をしたい時だってある! それを、いちいち誰といたか報告しなきゃいけないの!?」
支離滅裂だ。
自分でも何を言っているのかわからない。
でも、勢いだけは止めない。
止めたら、負ける。
剛は口を開けたまま、呆気にとられている。
まさか、謝罪ではなく逆ギレされるとは思っていなかったのだろう。
「もう無理。……こんな、私のことを犯罪者みたいに見る人のご飯なんて、作れない!」
私は台所を飛び出し、寝室へと走った。
「おい、待てよ! 話は終わってねえぞ!」
背後で剛の怒鳴り声が聞こえるが、無視だ。
私はクローゼットからボストンバッグを引っ張り出し、手当たり次第に着替えを詰め込んだ。
下着、化粧ポーチ、財布。
そして、徹さんの電話番号が書かれた手帳。
これさえあれば、どこへでも行ける。
剛が寝室に入ってきた時には、私はもう荷物をまとめていた。
「ふざけんなよ洋子! 逃げる気か!」
彼が私の腕を掴もうとする。
私はそれを激しく振り払った。
「触らないで!」
昨夜の拒絶よりも強く、明確な拒絶。
「頭を冷やしてくる。……今日は実家に帰るから、探さないで!」
もちろん、実家になんて行かない。
あんな田舎に帰れば、すぐに連れ戻される。
それに、親に心配なんてかけられない。
私は剛を押しのけ、玄関へと走った。
サンダルを突っ掛け、ドアノブを回す。
「おい! 洋子!」
バタンッ!!
鉄の扉を、親の敵のように叩きつけて閉めた。
私はエレベーターも待たず、階段を駆け下りた。
外の熱気が、私を包み込む。
夕暮れの空は、血のように赤く染まっていた。
夜21時。世田谷区。
高級マンションのエントランス前。
団地の湿った空気とは違う、洗練された都会の夜風が吹いている。
私は公衆電話の受話器を握りしめていた。
『……もしもし、洋子さん?』
受話器の向こうから、心配そうな徹さんの声が聞こえる。
その声を聞いた瞬間、張り詰めていた糸が切れ、本物の涙が溢れてきた。
「……徹さん。……今から、行っていい?」
『えっ、もちろん……何かあったんですか? 声が』
「……会いたい。今すぐ」
十分後。
マンションのオートロックが開き、私はエレベーターで彼の部屋へ向かった。
玄関のドアが開く。
部屋着姿の徹さんが立っていた。
「洋子さん!」
彼は私のボストンバッグと、泣き腫らした目を見て、事態を察したように私を招き入れた。
私は靴も脱がずに、彼の胸に飛び込んだ。
「……怖かった」
彼の温もりが、冷え切った心を溶かしていく。
石鹸の香り。
清潔なコットンの感触。
夫のあの脂ぎった臭いとは違う、私の居場所の匂い。
「夫と……喧嘩しちゃった」
私は彼の胸に顔を埋めたまま、用意していた嘘を吐いた。
「些細なことで怒鳴られて……。お前は俺の所有物だ、みたいなこと言われて。……怖くなって、家を飛び出してきちゃった」
自分が不倫を疑われたことや、レシートが見つかったことは言わない。
ただ、横暴な夫に耐えかねた可哀想な妻を演じる。
彼は優しいから、絶対に私を責めない。
「そうだったんですね」
徹さんは私の背中を優しく撫でた。
その手つきには、同情と、そして私を守ろうとする使命感が宿っていた。
「大丈夫ですか? ……今日はもう、ここにいてください。俺がついてますから」
その言葉を待っていた。
私は小さく頷き、彼に身を委ねた。
リビングのソファに座り、彼が淹れてくれた温かいコーヒーを飲む。
エアコンが効いた部屋は涼しく、快適だ。
ここには、私を責める視線も、生活に疲れた臭いもない。
ここはシェルター。
そして、共犯者の隠れ家。
ふと、視線を感じて見上げると、キャビネットの上に明菜が座っていた。
彼女はワイングラスを片手に、私を見下ろしてニヤリと笑った。
『……すごいわね』
彼女は感心したように、ため息混じりに溢す。
『自分の浮気がバレかけたのに、夫を加害者にして、堂々と不倫相手の家に逃げ込むなんて』
明菜はグラスを掲げた。
『アンタ、自分が思ってるよりずっと悪女の才能あるわよ。生存本能が理性を凌駕してる』
私はコーヒーカップを両手で包み込んだ。
罪悪感。
そんなものは、この部屋の快適さと彼の優しさに比べれば、埃みたいなものだ。
私は助かったのだ。
そして、堂々と彼のそばにいられる理由を手に入れた。
徹さんが心配そうに私の顔を覗き込む。
私は彼に向けて、弱々しく、でも計算された儚い笑みを向けた。
「……ありがとう。徹さんがいてくれて、よかった」
そう。
この場所こそが、今の私にとっての現実であり正義なのだ。
団地に残された夫が、今頃どんな顔をしているかなんて、知ったことではない。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.001
氏名:佐々木 洋子(30)
職業:事務職/亡命者
■ 現在のステータス
・演技力:Sランク(窮地での「逆ギレ」と「被害者演技」が開花)
・住居:世田谷区(一時的な避難所だが、永住を希望中)
・夫への情:消滅(ただの「敵」として認識)
■ 明菜の分析ログ
「攻撃は最大の防御」とはよく言ったものね。
図星を突かれた時ほど、人間は怒る。
心理学的に説明すると、これは「防衛機制」の一種、「投影」の暴走よ。
自分が抱えている不貞を直視する苦痛から逃れるために、その感情を相手に転嫁して、「私を信用しないあなたが悪い!」と攻撃する。
そうすることで、脳内で「私は加害者じゃなく被害者だ」という認知の書き換え(正当化)を瞬時に行ったのよ。
さらに言えば、扁桃体が恐怖で発火して「闘争・逃走反応」が起きた状態ね。
理性(前頭葉)をシャットダウンして、生き残るために「逆ギレ(闘争)」からの「家出(逃走)」を選んだ。
見事な生存本能だわ。
夫の鎌かけは鋭かったけど、詰めが甘かったわね。
洋子に「逃げる口実」を与えてしまった。
さて、ここからが本当の地獄よ。
逃げ込んだ先は楽園に見えるけど……そこにも先客の影があることを、洋子はまだ知らない。
クローゼットの中の、居心地はどうかしら?
※作中の医学・心理学描写について
本作に登場する心理学用語や医学的な説明は、作者なりに調べて執筆しておりますが、あくまで「明菜先生の独自解釈」や「物語上の演出」が含まれます。
厳密な学術書ではなく、エンターテインメントとして楽しんでいただければ幸いです!
この作品が面白い!と思っていただけたのなら
是非ぜひブクマと評価のほうよろしくお願いします。




