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夫に疲れ果てた昭和60年の私。脳内のボディコン美女に唆されて、年下上司と一線を超えました  作者: ベルガ・モルザ


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19/32

第十九記録【真夏の下着と、夫の湿った手】



 八月に入り、夏は凶暴なまでの熱気を帯びていた。


 ベランダに出ると、ムッとする熱風が全身にまとわりつく。

 団地のコンクリートがフライパンのように熱せられ、ジリジリと空気を焦がしている。

 蝉時雨が耳をつんざくほど喧しい。


 私は額に浮いた汗を手の甲で拭いながら、洗濯物を物干し竿に並べていった。


 夫のよれたトランクス。

 首回りの伸びたTシャツ。


 生活感の塊のような布きれの中に、一つだけ異質なものが混じっている。


 黒いレースのランジェリー。

 繊細な刺繍が施された、透け感のあるショーツとブラジャー。


 以前の私が愛用していたベージュの綿パンツとは、まるで別の生き物だ。


 これは、徹さんのために新調した勝負下着。

 彼に見られるためだけに、デパートの売り場で勇気を振り絞って買ったものだ。


 太陽の光を浴びて、黒いレースが艶かしく光る。

 この一枚の布を見るだけで、夜の記憶が蘇る。


 彼の指がこのレースをなぞり、ゆっくりと剥ぎ取っていく感触。

 子宮の奥がキュンと疼いた。


 その時。


 背中に視線を感じた。

 粘着質な、ねっとりとした気配。


 振り返ると、網戸越しにリビングから夫がこちらを見ていた。

 寝転がってテレビを見ていたはずが、いつの間にか起き上がり、じっと私の手元――黒い下着を凝視している。


「……」


 目が合った。

 彼は視線を外さない。


 普段なら邪魔だとしか言わない夫が、獲物を品定めするような目をしている。


「派手だな。そんなの、持ってたか?」


 網戸越しに、くぐもった声が響く。


 ドキリと心臓が跳ねた。


「え? あ、ああ……これ?」


 私は慌ててタオルで下着を隠すように干した。


「駅前のデパートで安売りしてたから。夏だし、少しは涼しいのがいいかなって」


 口から出任せの言い訳。

 声が裏返りそうになるのを必死で抑える。


「……ふーん」


 剛は納得したのかしていないのか、曖昧に鼻を鳴らすと、再びゴロリと横になった。

 テレビの野球中継の音が戻ってくる。


 ふう、と深く息を吐いた。

 冷や汗が背中を伝う。


 バレたわけではない。

 でも、夫のあの目つきが、皮膚の裏側に張り付いて離れない。


『うっわ、気持ち悪っ』


 物干し竿の上に、日傘をさした明菜が座っていた。

 彼女は剛の方を見て、露骨に顔をしかめている。


『あの視線、見た? 完全に品定めよ。自分の所有物が急に色づいたことに気づいて、センサーが反応したのね』


 確かに、ちょっと嫌な感じだった。


 かつては愛して結婚した人なのに、今の私には、彼がただの「不気味な同居人」に見えてしまう。


 でも。


 同時に、胸の奥で小さな棘がチクリと痛んだ。


 悪いのは私だもの。


 彼を騙し、他の男のために着飾っているのは私だ。

 夫が妻の下着を見るのは、本来なら当たり前のこと。


 それを気持ち悪いと感じてしまう自分こそが、不義理で、汚れた存在なのだ。


 私は逃げるようにベランダから部屋に戻った。


 夕方。


 台所に立ち、夕飯の支度を始めた。

 暑いので、メニューは冷やし中華だ。


 キュウリを千切りにし、錦糸卵を焼く。

 トントントン、という包丁のリズムだけが、気まずい沈黙を埋めてくれる。


 剛はまだテレビを見ていた。

 朝からビールを飲んでいるせいで、部屋の中に独特のアルコール臭が漂っている。


 麺を茹でようと、大鍋にお湯を沸かしている時だった。


 ぬっ。


 背後から、突然ぬるい何かが巻き付いてきた。


「ひっ!?」


 私は驚いて、菜箸を取り落としそうになった。


 剛だ。

 彼が後ろから、私の腰に腕を回して抱きついてきたのだ。


 体が石のように硬直する。

 警戒心が全身の毛穴を開かせる。


 近い。

 耳元で彼の荒い呼吸音がする。


 そして、臭い。


 三十五歳。まだ加齢臭という年齢ではないはずなのに、鼻をつく脂っぽい臭いと、安酒とタバコの入り混じった()えた臭い。


 徹さんの爽やかなコロンや、清潔な石鹸の香りとは対極にある、(よど)んだ生活臭。


「お前、なんか最近……肌艶いいな」


 耳元で囁かれる声。

 湿った空気が首筋にかかり、ぞわぞわと寒気が走る。


「化粧、変えたか?」


「そ、そう? 夏だから、汗かいてるだけよ」


 私は強張った声で答えた。

 早く離れてほしい。


 彼の腕が、まるで蛇のように私を締め付けている。


「ふーん。……なんか、若返ったみたいだ」


 彼はそう言うと、私の首筋に鼻を近づけ、クンクンと匂いを嗅ぐような仕草をした。


 無理。


 生理的な拒絶反応が、胃の()から込み上げてくる。


 私は彼を突き飛ばしたい衝動をこらえ、お湯が沸騰したフリをして体をずらした。


「お、お湯が……危ないから離れて」


 するりと腕を抜ける。


 剛は「ちぇっ」と不満げな声を上げたが、大人しく食卓に戻っていった。


 シンクの縁に、明菜が腰掛けていた。

 彼女は剛の背中を指差し、冷ややかな目で笑っている。


『……ひどい言われようね、三十五歳』


 彼女は足をぶらつかせながら語りかける。


『未来の三十五歳男性はね、もっと清潔よ? スキンケアもするし、デオドラントも常識。ここまで「昭和のオヤジ臭」を放つ生物は、むしろ希少種かもね』


 ……匂いが嫌なだけじゃないわ。私の感覚がおかしいのよ。


『感覚ねぇ…… それもそうかもね』


 そう、そうなの。


 私は麺を冷水で洗いながら、自分に言い聞かせた。


 夫の匂いが変わったわけじゃない。

 私が、徹さんの匂いを知ってしまったから。


 比較対象ができてしまったせいで、今まで平気だったものが、急に耐え難い悪臭に変わってしまったのだ。


『まあ、細胞レベルで拒絶してるのは確かね』


 明菜は冷やし中華のハムをつまみ食いすると、その場から消えた。


 食卓に向かい合い、冷やし中華をすする。


 ズルズル、という剛の食べる音が、今日はやけに耳障りだ。

 彼は上機嫌だった。


 三本目のビールを開け、顔を赤くしている。


「いやー、洋子もまだまだ捨てたもんじゃないな」


 彼は私の顔をしげしげと眺め、ニヤリと笑った。


「結婚した頃より、今の方が色気があるんじゃないか? なんかこう、女の匂いがするというかよ」


 心臓が凍りつく。


 褒め言葉のつもりなのだろう。

 でも、私にはそれが「お前、外で何かしてるな?」という尋問に聞こえてしまう。


 夫は鈍感だ。

 私の心の変化にも、髪型の変化にも気づかない人だ。


 けれど、雄としての本能は別なのかもしれない。

 自分の縄張りにいる雌が、他の雄の匂いをさせていることに、無意識レベルで勘付いている。


 恐怖で、麺の味がしなかった。


 私は曖昧に微笑み、視線を皿に落とした。


 夜。


 就寝の時間。

 電気を消し、布団に入る。


 隣の布団には、剛が寝ている。

 いつもなら、すぐに大いびきをかいて寝てしまうはずだ。


 けれど、今夜は違った。


 暗闇の中で、ゴソゴソと布が擦れる音がする。

 彼が寝返りを打ち、こちらを向いた気配がした。


 緊張で体が強張る。


 来るな。来ないで。


 願いも虚しく、布団の隙間から、ぬっと手が伸びてきた。


 熱く、湿った手。

 それが私のパジャマの裾を探る。


「……洋子」


 酒臭い息が顔にかかる。


「……いいだろ?」


 数年ぶりの接触。

 新婚当初ですら義務的だった行為が、今夜に限って求められるなんて。


 彼の手が、私の太ももに触れた。

 ザラついた掌の感触。


 瞬間、脳裏にフラッシュバックした。


 徹さんの指先。

 優しく、震えるように私に触れ、壊れ物を扱うように愛してくれた、記憶。


 比較してしまった。


 徹さんの慈愛に満ちた愛撫と、夫の無神経な欲望の処理。

 天と地ほどの差。


 気持ち悪い。

 汚される。


 思考よりも早く、体が反応した。


 バシッ!!


 私は反射的に、剛の手を払いのけていた。


 乾いた音が、静かな寝室に響く。


「やめて!」


 叫び声に近い拒絶。

 自分でも驚くほど、強い嫌悪感が声に乗っていた。


 剛が動きを止めた。

 暗闇の中で、彼の目が驚きと、そして怒りに変わっていくのが気配でわかる。


「……あ?」


 低い、ドスの効いた声。


「なんだよ。夫婦だろ」


 正論だ。

 妻には、夫の性的要求に応じる義務がある。法律的にも、道徳的にも。


 それを拒む私は、完全に有責配偶者だ。


 でも、無理なのだ。

 理屈じゃない。


 体が、細胞が、全神経がこの男を受け入れてはいけないと悲鳴を上げている。


「……疲れてるの」


 私は布団を頭までかぶり、背中を向けた。


「ごめんなさい。……今日は、無理」


 震える声で謝罪する。


 剛はしばらく無言だったが、やがて大きく舌打ちをした。


「チッ。……調子乗んなよ」


 吐き捨てるような言葉。


 彼は乱暴に寝返りを打ち、私に背を向けた。

 しばらくして、不機嫌そうないびきが聞こえ始めた。


 私は暗闇の中で目を見開き、自分の体を抱きしめた。


 触られた太ももが、火傷したように熱く、そして汚れている気がした。


 どれくらい時間がたっただろうか。


 私はたまらず布団を抜け出し、洗面所へ駆け込んだ。


「……おぇっ」


 胃の中のものがこみ上げてくる。

 吐くものは何もないのに、吐き気だけが止まらない。


 生理的嫌悪感。

 夫に触れられたという事実が、異物のように体内で暴れている。


 浴室で私は太ももを、石鹸でゴシゴシと洗う。

 何度も、何度も。


 皮膚が赤くなるまで擦っても、あの湿った感触が消えない。


 鏡を見る。


 そこには、青白い顔をした、罪深い女が映っていた。


 徹さんに抱かれた体で、夫に抱かれることはできない。

 それは操を立てるなんて美しい話じゃない。


 体が受け付けないという、動物としての拒絶反応だ。


 私はもう、夫の妻として機能しない。

 家事という労働力は提供できても、妻としての最も根源的な義務を果たせなくなってしまった。


『あらあら。大変ね』


 湯船の方から声がした。


 振り向くと、お湯の張っていないバスタブの中に、明菜が体育座りをしていた。


『医学的に説明するとね、これは「主要組織適合遺伝子複合体(MHC)」の拒絶反応に近いわ』


 彼女は膝に顔を埋めながら、こもった声で解説する。


『女性は本能的に、より優秀な遺伝子を求める。今、アンタの遺伝子は徹を「最高」、夫を「不要」と判断した。だから夫の接触を「異物侵入」とみなして、免疫系が総攻撃を仕掛けてるのよ』


 明菜は顔を上げ、真剣な眼差しで私を見た。


『夫は馬鹿じゃないわよ。男のプライドを傷つけられた恨みは深いの。釣った魚に餌はやらないくせに、他人に盗まれるのは絶対に許せない。それが男という生き物の、歪んだ独占欲よ』


 明菜が、警告するように指を立てる。


『彼は悟ったかもしれないわね。妻の中に、自分以外の誰かが入り込んでいることを』


 寝室に戻る。


 夫はいびきをかいて寝ている。

 その背中が、さっきまでとは違って、恐ろしい怪物のものに見えた。


 そっと布団に入る。


 私と剛の布団の隙間。

 わずかの空間に、明菜が仰向けに寝転がった。


 彼女は天井を見つめながら、独り言のように呟く。


『洋子。これでアンタの体は、完全に「徹専用」に書き換え完了ね』


 徹専用。


 その響きに、背徳的な甘さを感じてしまう自分が憎い。


『でも、妻の業務放棄は高くつくわよ?』


 明菜は横目で私を見て、ニヤリと笑った。


『行き場を失った夫の性欲は、別の形で爆発するかもしれない。……暴力か、束縛か、それとも……探偵か』


 私は耳を塞ぎ、目を閉じた。


 徹さんに会いたい。

 今すぐ彼に会って、この穢れた気分を上書きしてほしい。


 夫の隣で眠る夜が、これほどまでに恐ろしく、孤独なものだとは知らなかった。


 夏の夜の湿気が、私の罪をべっとりと包み込んでいた。


【明菜先生の研究メモ】


  被験者データ No.001

 氏名:佐々木 洋子(30)

 職業:事務職 / 不適合者


■ 現在のステータス

・生理的嫌悪感: MAX(夫への接触拒否反応)

・妻としての機能: 停止(夜の営み不可)

・リスク: 増大(夫の疑惑レベルが上昇)


■ 明菜の分析ログ


 「拒絶」は最大の告白よ。

 言葉で何を誤魔化しても、体は嘘をつけない。


 夫の手を払いのけたあの一瞬で、洋子は「私はあなたのものじゃない」と宣言してしまったの。


 鈍感な夫でも、雄としての勘は働く。

 自分の所有物が、急に色気づき、自分を拒むようになった。


 その答えは一つしかないわよね。


 さあ、いよいよ大詰め。

 次は「証拠」が出てくる番よ。


 隠しきれない残り香が、洋子を追い詰めるわ。



※作中の医学・心理学描写について

本作に登場する心理学用語や医学的な説明は、作者なりに調べて執筆しておりますが、あくまで「明菜先生の独自解釈」や「物語上の演出」が含まれます。

厳密な学術書ではなく、エンターテインメントとして楽しんでいただければ幸いです!


この作品が面白い!と思っていただけたのなら

是非ぜひブクマと評価のほうよろしくお願いします。

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