第十八記録【見ないふりして、許してね】
屋上から戻ったオフィスの空気は、まるで冷蔵庫の中のように冷え切っていた。
物理的な冷房の温度ではない。
私の心象風景が、極寒の氷河期に突入してしまったからだ。
あのホテルでの一夜から二週間。
資料室での甘いメモから一週間。
積み上げてきた熱量が、たった三十分の昼休みでゼロになり、マイナスへと転じている。
デスクに戻り、伝票に向かう。
キーボードを叩く指が鉛のように重い。
午前中の、あのエミちゃんの結婚話に浮足立っていた空気は消え、午後の気だるい静寂がフロアを支配している。
斜め前の席。
徹さんは、背筋を伸ばして書類仕事をしている。
その背中は鉄壁のように硬く、私を拒絶しているように見えた。
目が合わない。
わざと合わせないのではない。
まるで私がそこに存在しないかのように、視界から消去されている。
ズキン、と胸が痛む。
自業自得だ。
私が突き放したのだから。
「若さには勝てない」「夢を見ないで」と、彼の純粋な好意をナイフで切り刻んだのは私だ。
でも。
こんなに冷たくされるなんて。
昨日の夜、電話であんなに甘い声を聴かせてくれたのに。
今朝、あんなに優しい目で挨拶してくれたのに。
男の人は、プライドを傷つけられると、こうも簡単によそよそしくなれるものなのか。
午後三時。
彼が私のデスクに近づいてきた。
心臓が跳ねる。
何か言ってくれるかもしれない。
「佐々木さん」
彼の声は、恐ろしく平坦だった。
「A社の見積もり、まだですか。急ぎでお願いしたはずですが」
視線は私を見ない。
私の手元の書類だけを見ている。
そこに温度はなかった。
ただの上司と部下。
それも、出来の悪い部下を見る目。
「……はい、すみません。今やっています」
喉が詰まりそうになりながら答える。
「なるべく早く。先方が待っていますから」
それだけ言い捨てて、彼はきびすを返した。
冷たい風が頬を掠める。
涙が出そうだった。
トイレに駆け込みたい衝動を必死で抑える。
これが現実。
これが、私が望んだ身の程を知った関係。
でも、痛い。
心が千切れるほど痛い。
『……自爆ね』
書類の山の上で、明菜が頬杖をついていた。
彼女は憐れむような目で私を見ている。
『自分から突き放しておいて、冷たくされたら被害者面? 面倒くさい女。でもまあ、それが人間ってものよね。自己肯定感が底値まで暴落してるわよ』
明菜って言い方で友達に言われたことない?
酷い人間だよねとか
『残念だけれど友達もいなければアタシは人間じゃないからわかーんなーい』
聞いた私がバカだった。
私は唇を噛み締め、滲む視界でキーボードを叩き続けた。
午後17時。
定時のチャイムが鳴った。
私のデスクの周りだけ、重力が重いままだ。
徹さんは相変わらず、必要最低限の業務連絡しかしてこない。
廊下ですれ違っても、先週のようなメモ渡しはなかった。
ただ、他人行儀に会釈をして通り過ぎるだけ。
透明人間になった気分だった。
彼に見てもらえない私は、色を失い、輪郭が溶けていくようだ。
社員たちが三々五々と帰っていく。
私は帰り支度をしていたが、足が動かなかった。
このまま帰れば、明日の朝もこの冷たい空気が続く。
一晩中、後悔で眠れない夜を過ごすことになる。
その間に、彼の心が完全に離れてしまったら?
自然消滅。
そんな言葉が脳裏をよぎる。
嫌だ。
そんなの耐えられない。
せっかく手に入れた温もりを、こんな下らない意地で手放したくない。
ふと、自分の左手を見る。
プラチナの結婚指輪が光っている。
夫との十年間の証。
そして、徹さんとの間に横たわる、超えられない壁の象徴。
さっき、屋上でこれを彼に見せつけてしまった。
「これが現実」と。
私は指輪を強く握りしめた。
金属の冷たさが、今の私の心と同じ温度だ。
外せない。
これは私が背負っている十字架だ。
顔を上げる。
徹さんはまだ残っている。
デスクで頬杖をつき、ぼんやりと書類を眺めている。
その背中は少し丸まっていて、彼もまた、傷ついているように見えた。
話したい。
謝りたい。
触れたい。
私は決意した。
給湯室に行くフリをして、バッグを掴んで立ち上がる。
カツ、カツ、カツ。
静かなフロアにヒールの音が響く。
彼のデスクの横を通る瞬間。
私は足を止めずに、誰にも聞こえない小声で囁いた。
「……非常階段に、います」
彼の反応は見なかった。
見たら、勇気がくじけてしまうから。
そのまま早足でオフィスを出て、廊下の突き当たりにある重い鉄の扉へと向かった。
非常階段の踊り場。
コンクリート打ちっぱなしの空間は、薄暗く、ひんやりとしていた。
非常口の緑色のランプだけが、不気味に光っている。
私は上の階と下の階を見上げた。
誰もいない。
静寂だけが支配している。
一分、二分……。
時間が永遠に感じられる。
来ないかもしれない。
もう、私のことなんてどうでもいいと思っているのかもしれない。
ガチャリ。
鉄の扉が開く音がした。
ビクリとして振り返る。
徹さんが立っていた。
逆光で表情がよく見えない。
彼は静かに扉を閉め、私の方へ歩み寄ってきた。
三メートル。
二メートル。
彼は一メートルほどの距離で立ち止まった。
沈黙。
重苦しい沈黙。
彼の視線が、私の顔から下へ落ちる。
胸元、そして左手へ。
薬指の指輪。
薄暗い中で、それだけが鈍く光を反射している。
彼は一瞬、痛そうに顔を歪めた。
眉間に皺を寄せ、何かを堪えるような表情。
その視線が突き刺さる。
これが、あなたを傷つけた凶器。
私が彼と生きる未来を拒絶した証拠。
彼は何も言わない。
私も隠さない。
私は震える声で切り出した。
「……ごめん」
言葉が、コンクリートの壁に反響する。
「さっきは、ひどいこと言って。……無視したりして、ごめん」
彼は何も言わない。
ただじっと、私を見ている。
「やっぱり……寂しい。徹さんに冷たくされるの、耐えられない」
涙が溢れた。
プライドも、年上の余裕も、全部捨てた。
ただの泣き虫な女がそこにいた。
その涙を見た瞬間、徹さんの表情が崩れた。
張り詰めていた糸が切れたように、彼が大きく息を吐いた。
「……俺こそ」
彼が一歩踏み出す。
「ごめんなさい。……子供でした」
彼は私の目の前まで来ると、私の両肩を掴んだ。
その手は熱く、震えていた。
「洋子さんを困らせるようなこと言って……夢物語を押し付けて。傷つけたのは俺の方です」
「ううん……」
「無視して、すみませんでした。……苦しかった。洋子さんと話せない時間が、こんなに辛いなんて」
彼が私を引き寄せる。
私は彼の胸に顔を埋めた。
懐かしい匂い。
たった数時間、心の距離が空いていただけなのに、何年も会っていなかったような渇望感。
温かい。
この体温があれば、もう何もいらない。
「将来とか、先のこととか……今はどうでもいいです」
彼が私の耳元で囁く。
それは、問題の解決を放棄する言葉だった。
年齢差も、既婚という事実も、何も解決していない。
ただ見ないことにするという、破滅的な選択。
「ただ、今……あなたが恋しい」
「徹さん……」
「結婚できなくてもいい。……今だけは、俺を見てください」
彼が顔を上げ、私の唇を求めた。
それは、和解のキスであり、契約更新のキスだった。
数時間前の夢を見る恋人たちは死んだ。
代わりに生まれたのは、刹那の快楽だけを貪る共依存の獣たち。
彼の舌が絡みつく。
私の指輪が、彼の背中のスーツに食い込む。
銀色の足枷をはめたまま、私たちは底なしの沼へと沈んでいく。
嬉しかった。
苦しかった。
この痛みが、愛なのだと錯覚した。
その様子を、階段の下から見上げている影があった。
明菜だ。
彼女は手すりに腰掛け、抱き合う洋子たちを冷めた目で見ていた。
『……ちょろいわね』
彼女は呆れたように、でもどこか満足げに呟いた。
『これを心理学では「間欠強化」と言うわ』
明菜は指で空中にグラフを描く。
『パチンコと同じ原理よ。ずっと当たり続けるより、ハズレ(冷たくされる)が続いてから、たまに当たり(優しくされる)が出た方が、脳の報酬系は強烈に刺激される。ドーパミンの放出量が段違いなの』
彼女は洋子の方を見て、ニヤリと笑った。
『不安という名の下げからの、安心という名の上げ。このジェットコースターを繰り返すことで、脳は相手に依存していく。もう、普通の幸せじゃ満足できない体になるのよ』
明菜は右手でピストルの形を作り、抱き合う二人に狙いを定めた。
『おめでとう、洋子。これで正真正銘の「共依存」の完成よ』
彼女は片目を瞑り、引き金を引く真似をした。
『……もう、泥沼から足は抜けないわね』
バーン。
幻聴の銃声と共に、完全に息の根を止められた。
この温もりが嘘でも、幻でも、破滅への入り口でも構わない。
今、この瞬間だけ、世界で一番深く繋がっているのだから。
薄暗い踊り場で、二つの影が一つに溶け合っていた。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.001
氏名:佐々木 洋子(30)
職業:事務職/依存症患者
■ 現在のステータス
・自己肯定感:V字回復(彼に求められることでしか満たされない状態)
・依存度:危険域突入(間欠強化により脳がハッキング済み)
・結婚指輪:足枷(現実を突きつける拘束具だが、外せない)
■ 明菜の分析ログ
「冷戦」からの「和解」。
たった半日の出来事だけど、これは恋愛における最強の接着剤よ。
洋子も徹も、言葉で解決することを諦めた。
「将来の話」という地雷原を避けて、「今の快楽」という安全地帯に逃げ込んだの。
指輪を見せつけられてもなお、キスを止められない男。
指輪をはめたまま、他の男に抱きつく女。
見ないふりをした爆弾は、消えたわけじゃない。
水面下でチッチッとカウントダウンを続けている。
さあ、二人の蜜月もここまで。
次からは……「第三者」の視線が入り込んでくるわよ。
鈍感な夫の鼻が、そろそろ何かを嗅ぎつける頃かしら?
※作中の医学・心理学描写について
本作に登場する心理学用語や医学的な説明は、作者なりに調べて執筆しておりますが、あくまで「明菜先生の独自解釈」や「物語上の演出」が含まれます。
厳密な学術書ではなく、エンターテインメントとして楽しんでいただければ幸いです!
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