第十七記録【寿退社の白い封筒】
梅雨明け宣言から二週間。
アスファルトから立ち上る陽炎が、街の景色をゆらゆらと歪ませていた。
七月の中旬。
外は、息をするのも苦しいほどの猛暑だ。
蝉の声がジリジリと鼓膜を震わせ、肌にまとわりつく湿気が不快指数を跳ね上げる。
けれど、オフィスの空気は別の意味で熱を帯びていた。
「えーっ! エミちゃん、結婚するの!?」
「やだー、おめでとう! 抜け駆けじゃないのよー!」
昼休み直前のフロアに、黄色い歓声が響き渡る。
その中心にいるのは、エミちゃんだ。
二十四歳。大卒。聖子ちゃんカット。
彼女は頬を桃色に染め、白い封筒の束を胸に抱えて恥じらっている。
「はい……。来月で寿退社することになりましたぁ」
彼女は一歩一歩、デスクを回りながら封筒を配っていく。
結婚式の招待状であり、同時に
「私は幸せな勝者としてここを去ります」
という勝利宣言の通知書だ。
「おお、おめでとう! 若いお嫁さんをもらう旦那は幸せもんだな!」
課長が目尻を下げて封筒を受け取る。
「……おめでとう。末長くお幸せにね」
お局様の安藤さんが、口角だけで笑って受け取る。
その目は全く笑っていない。
そして、私のデスクの前にも、彼女はやってきた。
「佐々木さん。今までお世話になりました。よかったら来てくださいね」
コトリ。
白い厚手の封筒が、書類の上に置かれた。
上質な和紙の匂い。
金色の「寿」の文字が、蛍光灯の光を反射してギラリと光る。
「……おめでとう、エミちゃん」
私は精一杯の笑顔を作った。
頬の筋肉が引きつるのがわかる。
二十四歳。
世間でいう「クリスマスケーキ」――
二十五歳を過ぎたら売れ残りと言われる年齢の、一歩手前。
一番高く、一番美しい状態で売り抜けた賢い女の子。
十年前の私も、あんな風に笑っていたはずだ。
白いドレスへの憧れと、これから始まる新生活への希望に満ちて。
その先に待っているのが、
冷めた味噌汁と会話のない食卓だなんて想像もしないで。
手元の封筒が、
まるで「あなたはもう過去の人」という通告書のように重く感じられた。
あのホテルでの一夜以来、
自分は女として蘇った気でいたけれど、
社会的な価値という物差しで見れば、
私はただの「三十路の事務員」でしかないのだ。
『……出たわね。典型的なシンデレラ症候群』
エミちゃんが去った後、
彼女の背中に憑りつくように明菜が浮かんでいた。
明菜はジュリ扇でエミちゃんの後頭部を指し示す。
『アメリカの作家、コレット・ダウリングが提唱した概念よ。女は無意識のうちに自立を拒み、王子様に救済されることを待っているという依存的願望』
『彼女の脳内は今、お花畑ね。結婚=ゴールだと思い込んでる、その先にあるのが生活という名の泥沼だってことも知らないで』
明菜は呆れたように肩をすくめた。
『ま、知らぬが仏ってやつかしら。今のアンタには、その無知さが眩しすぎて直視できないでしょうけど』
私は無言で招待状をバッグの奥底に突っ込んだ。
見たくなかった。
その白さが、私の薄汚れた心を照らし出すようで。
昼休み。
私は逃げるように屋上へ向かった。
給水塔の裏側。
そこだけが、直射日光を遮るわずかな日陰を作っていた。
徹さんは、すでにそこにいた。
コンビニのおにぎりを二つ、膝の上に乗せて待っていた。
「お疲れ様」
彼は私を見るなり、ひまわりのような笑顔を向けた。
その無邪気さが、今日は少しだけ辛い。
私たちは並んで座り、おにぎりの包装を剥いた。
パリパリという乾いた音が、夏の青空にかき消される。
鮭のおにぎり。
味なんてしなかった。
「エミちゃん、結婚するんですね」
徹さんが、遠くの入道雲を見上げながら呟いた。
「……そうだね。おめでたい」
私は事務的に答える。
「いいなぁ」
彼がぽつりと言った。
その言葉に、私は手を止めた。
「……何で?結婚なんて、大変なだけ。自由はなくなるし、家事は増えるし」
「でも、好きな人とずっと一緒にいられるんですよ?」
彼は私の方を向き、真剣な瞳で続けた。
「帰りたくないって泣かなくてもいいし、こっそり会う必要もない。毎日同じ家に帰って、おかえりって言えるんです」
彼の瞳がキラキラと輝いている。
そこには一点の曇りもない。
「俺たちも……いつか、そうなれたらいいですね」
ドクン。
心臓が嫌な音を立てた。
いつか。
そうなれたら。
その言葉は、彼なりの最高の愛情表現なのだろう。
私との未来を、真剣に考えてくれている証拠だ。
でも。
三十歳の私にとって、それはあまりにも現実味のない、
残酷な「夢物語」だった。
いつかって、いつ?
私が離婚して、慰謝料を払って
世間から後ろ指を指されて
ボロボロになってから?
それとも、あなたがエリートコースを捨てて
すべてを失ってから?
その時、私は何歳になっているの?
おばあちゃんになってるかもしれない。
彼の「若さ」が
鋭利な刃物となって私の胸を抉った。
彼は知らないのだ。
結婚という制度の重さを。
一度貼られたレッテルを剥がすことの難しさを。
私の表情が凍りついていくのがわかった。
先週までの無敵モードが音を立てて崩れ去り、
急速に自己否定の黒い波が押し寄せてくる。
「……夢を見ないで」
低い声が出た。
「え?」
徹さんがきょとんとする。
「徹さんはまだ二十四だから、そんな綺麗なことが言えるんだよ。これから何にでもなれるし、選び放題だもの」
私は自分の左手を、彼の目の前に突き出した。
薬指には指輪。
十年間の結婚生活が刻み込んだ、呪いのアイテム。
それは、私が誰かの所有物であるという、呪物。
「……見て。これ」
私は震える声で続けた。
「これが現実。私はね、徹さんが思ってるような自由な女じゃないの」
「洋子さん……」
「私は違う。もう三十歳なの。傷がついた……薄汚れた中古品なの」
言ってしまった。
自分で自分を傷つける言葉。
そうでもしないと、
彼への期待を断ち切れないから。
「そんなこと言わないで!」
徹さんが声を荒げた。
彼は身を乗り出し、私の肩を掴もうとする。
「洋子さんは誰より素敵です!中古とか、そんな言い方しないでください!」
バシッ。
私は彼の手を振り払った。
自分でも驚くほど強い力だった。
「若さには勝てないんだから!そんな……簡単に素敵とかなんとか言わないでよ」
叫んでしまった。
屋上のコンクリートに、私の悲鳴が反響する。
カオリに言われた「欠陥品」という言葉。
今日のエミちゃんの、勝ち誇ったような笑顔。
世間の「三十過ぎたらおばさん」という呪い。
それらすべてが、私の中で爆発した。
「エミちゃんみたいに、若くて傷のない子がお似合いよ。徹さんには、そういう未来が……」
私は息を乱しながら、彼を睨みつけた。
涙が溢れそうになるのを、必死でこらえる。
「私とのことは……ただの遊びでいい。お願いだから、将来なんて語らないで。……惨めになるだけだから」
蝉の声が、やけにうるさく聞こえた。
ジリジリ、ジリジリ。
私の焦燥感を煽るように。
徹さんは、傷ついた顔で立ち尽くしていた。
殴られたような顔。
信じていた人に、裏切られたような顔。
「遊びなんかじゃ、ありません」
彼は絞り出すように続けた。
「どうして……どうして信じてくれないんですか」
彼の声は震えていた。
その悲痛な響きが、私の罪悪感を抉る。
ごめんなさい。
信じてないわけじゃないの。
ただ、怖いの。
あなたの「いつか」を信じて、
待って、
結局叶わなかった時――
私は今度こそ、本当に壊れてしまうから。
私は逃げるように立ち上がった。
「仕事、戻るね」
彼の顔を見ることができなかった。
鉄のドアを押し開け、
冷房の効いた階段室へと駆け込む。
冷たい空気が、火照った肌を刺した。
午後のオフィス。
デスクに戻っても、
手元の伝票の文字が霞んで読めなかった。
徹さんの席を見る勇気がない。
彼の気配を感じるだけで
胸が張り裂けそうになる。
私は最低だ。
彼を傷つけた。
一番言っちゃいけない言葉で、
彼の純粋な想いを踏みにじった。
『……あらあら』
私の机の向こう側で、明菜が頬杖をついていた。
冷ややかな目で、私を見下ろしている。
『幸せの絶頂から急降下ね。これを心理学では「リアリティ・ショック」と言うわ』
彼女は人差し指を立てる。
『理想や期待と、現実との間に大きなギャップを感じて、適応できずに強いストレスを受ける状態』
『洋子の場合、「彼との甘い夢」と「既婚・三十路という現実」の落差に耐えられなくて、自爆したってわけ』
明菜は、ふぅと息を吐いた。
『でもね洋子。アンタが彼を突き放したのは、彼が憎いからじゃないわよね』
『「彼を自分の泥沼に引きずり込みたくない」っていう、卑屈な愛情の裏返しでしょ?』
彼女は心の奥底を見透かすように微笑んだ。
『自分を悪者にして、彼を解放しようとする。……本当に、面倒くさい女ねえ』
そうですよ。
私は面倒くさい女です。
私は唇を噛み締めた。
その通りだ。
私は彼が好きだ。
大好きだ。
だからこそ、
私のようなどん詰まりの人生に、
彼を巻き込んではいけないと思ってしまった。
でも、突き放した今、
とてつもない後悔と寂しさが襲ってくる。
このまま終わってしまうのだろうか。
私たちの「いつか」は、
やっぱり来ないのだろうか。
窓の外では、
入道雲がさらに高く、白く膨れ上がっていた。
夏はまだ始まったばかりなのに、
私の心には冷たい木枯らしが吹いていた。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.001
氏名:佐々木 洋子(30)
職業:事務職/迷える子羊
■ 現在のステータス
・自己肯定感:急降下
(「中古品」発言により最低値を記録)
・メンタル:混乱
(愛情と拒絶が入り混じったカオス状態)
・年齢コンプレックス:Sランク
(24歳の花嫁に対する劣等感が爆発)
■ 明菜の分析ログ
「若さ」という暴力。
悪気のない徹の夢物語が、
洋子にとっては一番残酷な凶器になったわね。
シンデレラ・コンプレックスの裏側には、
「自分一人では幸せになれない」
という強烈な無力感があるの。
洋子は今、
自分で自分に呪いをかけている。
「私はおばさんだから」
「私は傷物だから」って。
でもね。
一度愛を知ってしまった体は、
もう理屈じゃ止まらない。
この拒絶は、
次なる「依存」への助走でしかないのよ。
寂しさに耐えきれなくなった時……
彼女はどうやって、その穴を埋めるのかしら?
※作中の医学・心理学描写について
本作に登場する心理学用語や医学的な説明は、作者なりに調べて執筆しておりますが、あくまで「明菜先生の独自解釈」や「物語上の演出」が含まれます。
厳密な学術書ではなく、エンターテインメントとして楽しんでいただければ幸いです!
この作品が面白い!と思っていただけたのなら
是非ぜひブクマと評価のほうよろしくお願いします。




